第10話 葵

 スチールラックの棚が無数に並び、その間を通り抜ける風切り音に交じって、ペタッ、ペタッ、ペタッ、ペタッ、ペタッ、と湿り気を帯びた特有の足音、それが徐々に遠ざかっていくのを聞いて、葵は安堵に思わず、ため息を漏らしてしまった。

慌てて口を手で押さえる。害虫ペスターが音に反応しているという事実を葵は知らなかったが、本能的に音を立ててはいけないと思ったのだ。

 幸い、その程度の息遣いには反応しないようだ。足音は聞こえなくなっていた。

 葵はなるべく音が出ないように再度安堵の息を吐いた。

 そして小豆たちは無事に戻れたのだろうか。と自分を見捨てたとは考えずに仲間の心配をした。今井さんが何かを抱えているのは見えたし、少しはみんなの役には立てた。これで久美と絵里奈にも多少は回るだろう。

 そこまで心配し終えてから、ようやく葵は自分の今置かれた状況を確認した。

前の視界のほとんどを塞いでいる段ボールの山、間からはラックのスチール部分が覗いている。どうやら倒れたラックの間にうまく滑り込んだようだ、制服のシャツやスカートには至るところに、埃やごみが付着している。

「いっつ!」

 安心したからというより、認識したからだろう。スカートから覗いた太ももにつぅーと赤い血が伝わっていた。見ると擦り傷のようなものが内腿についていた。

 葵はそれをハンカチで抑える。傷は深くないようで本当に軽く擦りむいただけのようでこうしていれば止りそうだ。

 きっとスチールラックの下に潜るように入った時に擦りむいたのだろう。

それとも……、いや、うん、触られていないはずだ。そんなことはないはず。

……それよりも絵里奈達に連絡しよう!と葵は嫌な想像から逃げるようにスカートのポケットを弄る。そこにあるはずのスマホを探す。しかし、指先にはあるはずの金属の感触はない。

 下を見て、周りを見てシャツの胸ポケットにも……ない。再度ポケットを弄ってもない。

 まさか落としてしまったのか。葵はそっと体を屈ませ、地面に顔がくっつきそうになるほど下げ、スマホを探す。ところどころに照明が切れているために、目を凝らしてみても見通せない暗闇がいくつもあるが、スマホを見つけることはできない。

 そのうちに、目にごみが入ってしまう。協力目を擦らないように目をつぶって涙を流そうとする。

 目をつむると、……絵里奈の顔、久美の顔、今までの出来事が浮かんできた、そして最後にはミリオの顔が浮かぶ。

 仏頂面の顔、歯をむき出してニッと笑うワイルドな笑顔、困ったようにはにかむ顔、ミリオの顔を眺めていると自然と葵の口元に笑みが浮かぶ、それなのに頬には涙だが伝った。

 ああ、会いたいよ。ミリオ君。

 葵はそう心で呟いてしまって、心の歯止めが利かくなり、涙はどんどん溢れ、しずくとなってむき出しのコンクリートの床に落ちていく。

 好きって言っておけばよかったかな。

 するとそれを察知して近づいてきたのか、再びペタッペタッペタッという湿った足音、うぉおおおおという唸り声が風に乗って近づいてくる。

 葵は溢れる涙をそのままに、右手で口を押えて嗚咽を押し殺した。

 溢れる涙、高鳴る心臓、そしてジンジンと痛み出した太ももの傷口が熱を持つ。

 助けてミリオ君。様々な感情の濁流の中、藁にも縋る思いで、葵は祈るように身を縮こませることしか出来なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る