第166話 胸の中の精霊
エルナさんの部屋はとても静かだった。
女性の部屋なんてほぼ初めて──ミスティアさんの部屋以来──だからどうにも緊張してしまう。
香が焚いてあるのだろうか、甘い香りが肺いっぱいに入ってくる。
フレディアが身につけている私物からときおり漂ってくる香りと同じ匂いだ。
フレディアがこの部屋に何度となく通ったことがわかる。
足繁く見舞いに訪れているうちに、香りが染み付いたのだろう。
部屋に入るとすぐに加護魔術によって氷像と化した騎士が目に入った。
一、二、三──全部で六人。
数年前であれば今にも動き出しそうな騎士たちの姿にびくびく怯えていたことだろう。が、加護魔術師として水の精霊アクアディーヌの力を七年間に亘って借りている今の俺は、俺が術を解かないかぎり、なにがあっても動き出さないことを知っている。
無論、レイアさんから指示が出るまで術を解くつもりはない。
全身を凍らせているから、昔、神殿で戦った隠れ者のように自害させてしまうようなこともない。
外の爺さんは……まあ、毒を飲んだとしてもアクアに治療してもらえば、尋問するくらいの体力は残せるだろう──。
廊下でふがふが呻いている爺さんに、ちら、と目をやった俺は、動かない騎士の間を通り、さらに奥の部屋へと続く扉を開いた。
寝室に入るとさらに香の匂いが強くなる。
とても安らぐ良い香りだ。
部屋の中央には大きな寝台があり、薄手の布が天井から吊り下げられている。
その奥には大きな窓があり、大粒の雨が激しい音を立てて窓ガラスを叩いている。
外は豪雨のようだ。
これで水不足はだいぶ解消されるだろう。
「──さて、急いで治療してしまおう」
肌触りのよい天蓋を手で分けてくぐる──と、そこには恐ろしいほどに美しい少女が横たわっていた。
やや幼さを感じるものの、レイアさんやフレディアと同じ顔立ち、手入れの行き届いた、黄金に輝く長い髪。
フレディアの妹──エルナ姫で間違いないだろう。
エルナさんは蝋で固められた人形のように身動きひとつしない。
「……白銀の魔女の呪い──」
緊張から俺の呟き声は
ミスティアさんやファミアさんとまったく同じ状態のエルナさんを見て鼓動が早鐘を打つ。
わかってはいたけれど、やはり呪いにかけられたエルナさんを目の当たりにしてしまうと、どうあってもあのふたりを思い出してしまう。
見た目はそのままに魂だけが朽ちていく、とても恐ろしい呪い──だけでなく、師匠を以てしても解くことができない、原初の精霊の力でどうにか進行を和らげることができる、というなんとも厄介な呪いだ。
「──兵、──闘、──者」
四つの印を結び、
「アクア、頼む」
アクアを使役する。
すると、光の珠がひとつ浮かび上がり、エルナさんの胸に向かってふわふわと飛んでいく。
光の珠──原初の精霊アクアディーヌの分身は、そのままエルナさんの胸の中に、すうっ、と吸い込まれていった。
「よし、これで大丈夫だ。──ありがとう、アクア」
エルナさんの見た目にこそ変化は現れないが、この処置をすることによってエルナさんの魂が朽ちていく速度をアクアが緩めてくれる。
あとはバシュルッツに行って、完全な解呪方法を手に入れるだけだ。
そうすればミスティアさんもファミアさんもエルナさんも必ず元気になる、と、俺は信じている。
「──さあ、次はレイア姫のところに行こう」
とりあえず今回の一番の目的であるエルナさんの治療を終えた俺は
「──必ずフレディア兄さんに会わせて差し上げます」
エルナさんに挨拶をして部屋を出た。
◆
「グランシュタット大公も、お妃様も、臣下の方たちも、これでもう大丈夫です──」
思った通り、グランシュタット大公たちは毒を盛られていた。
大方飲み水にでも混ぜられていたのだろう。
残りが乏しくなった貴重な水だ、出されたら誰だって飲み干してしまうに違いない。
俺は狼狽するレイアさんをどうにか宥めてから、アクアに頼んで治療を終えた。
「──明日の朝には元気な姿で目を覚ますでしょう」
「ああ、ありがとうございます! ラルク殿! 本当に何とお礼を申せばよいか──」
レイアさんが額から流れ落ちる汗を拭いながら礼を言う。
「いえ、それには及びません。フレディア公子とも交換条件を取り交わしたうえで参っておりますから」
「し、しかしそれはあくまでフレディア個人との決めごとでは! 国を代表する者として、礼もせずに恩人を帰したとあっては、これから先どのような顔をして国政に携わればよいのか──」
「──ではレイア姫、大変厚かましいとは存じますが、ふたつほどお願いしたいことが……」
手早く患者を床に寝かせ直したところで、顔を赤くして熱弁をふるうレイアさんに向き合った。
「おお! 何でも言ってください! ラルク殿にでしたらフレディアでもエルナでもどちらでもお好きな方を……私は少し年齢的に……あ、いえ、フレディアはそう意味ではなく、従者に、という意味で──」
「……大変有り難いお言葉ですが、平民の私には畏れ多すぎます。──私のお願いというのは、今回私がした行為のすべてを秘匿していただきたい、ということです」
「秘匿……? ……確かにラルク殿の力を他所の者が知れば、あの『キョウ』という少年と同様に各国がこぞってラルク殿を懐柔しようとするでしょう……ラルク殿の功績を後世に伝えられないというのは何とも歯痒くもありますが……承知いたしました。今日のことは他言せぬようお約束いたします。しかし、父上にだけは……」
「いえ、申し訳ありませんが、グランシュタット大公にも、そして……これはまだ気が早いかもしれませんが、お元気になられた際のエルナ姫にもお話にならないよう、お願いしたいのです。くれぐれも私がエルナ姫を処置した、などとは、たとえ本人であっても打ち明けないでいただきたく」
「エ、エルナにも……」
「今回の騒動については……そうですね、『ゲルニカの陰謀に気が付いていたフレディア公子が雇った密偵の仕業』とでもしていただければ」
フレディアには悪いが、ここでも彼には英雄になってもらおう。
「み、密偵……そ、そうですか……いえ、恩人のラルク殿の申されることには否やはありません。このレイア、騎士の矜持に懸けて今お約束したことをお誓いいたします。父上にも辻褄の合う説明ができるよう、今晩のうちに考えておきます」
「助かります。門で出会った騎士や臣下、使用人といった方たちにも──」
「無論、決して口外せぬよう周知徹底させます。──そして、もうひとつというのは……」
「これはできたらで構わないのですが──」
俺はシュヴァリエールに向かう最中考えていたことをレイアさんに伝えた。
「え? そんなことが可能なのですか……? ──それはリシェルの泉まで三日もかかることを考えれば願ってもないことですが、それでは逆に申し訳ないのでは……」
「いえ、むしろ私にとってはそれが一番重要なことですから」
「は、はあ、しょ、承知いたしました。しかし、ラルク殿、御身になにか生じた際は遠慮なく我がシュヴァリエールを御頼りください。国を挙げてラルク殿のお力になりますゆえ」
そして俺とレイアさんは場所を移して謀反を起こした騎士たちを縛り上げると、リーファに活躍してもらい、全員まとめて地下牢へと運んだ。
「──では術を解きます」
さるぐつわを嵌めた状態でゲルニカ以外の者たちの術を解いた。
するとなにが起きたのか理解できていない騎士たちが目を剥く。
それを見たレイアさんが重々しく口を開いた。
「──お前たちは謀反を起こした罪で、全員に処刑が言い渡されるだろう」
叫ぼうにも声も出せず、身だけを捩っていた騎士たちであったが、自分たちのいる場所がが牢の中であるということと、レイア姫から『処刑』という言葉が発せられたことから、事が失敗に終わったことを理解したのだろう。
全員が動きを止め、表情が絶望一色に染まる。
「一切の弁明は受け入れぬ。……中には私が幼少のころより仕えてくれていた者もいる。お前たちの心中を察することは適わぬが……だが、これは大罪である。幸いにして大公及び二の姫の命は護られたが、お前たちは命を持って罪を償うがよい」
大公と二の姫の無事を知り、明らかに安堵の表情を浮かべている騎士もいる。
不本意ながら謀反に参加せざるを得なかった理由でもあったのだろうか。
それぞれから事情を聞いてみたい気持ちはあるが……しかし俺はそこまで踏み込むことはできない。
それに関しては大公やレイアさんに任せるしかない。
捉えた騎士たちから俺のことが発覚することも考えたが、それもレイアさんがうまく処理すると約束してくれた。
でもいったいどう説明するんだろう……
牢の陰からレイアさんの様子を窺いながら、俺はそんなことを考えていた。
「──ゲルニカ、お前のような有能なものが……残念だ。しかし大公に毒を盛り、我が妹の命をも奪おうとした罪は、お前が国に貢献した徳を差し引いたとしても万死に値する。楽に死ねるとは思わぬことだ」
「んんんんッ! んんんッ!」
往生際の悪いゲルニカが悪鬼のような形相でレイアさんを睨みつける。
こいつは悪で間違いなさそうだ。
レイアさんはそんなゲルニカを相手にすることもなく、足早に地下牢を後にする。
俺もレイアさんの後を追うように階段を昇った。
◆
「本当にもう行ってしまわれるのですか……?」
「はい。早く帰って明日の授業の予習もしておきたいですし……」
「ふふっ、そう聞くとラルク殿も本当に学生なんですね」
「明日から、というよりこの後から大変かと思いますが、どうぞお身体には十分お気を付け下さい。──フレディア公子へ渡すものはこれだけでよろしいのですね?」
「はい、よろしくお願いいたします」
最初に案内された部屋に戻ってきた俺とレイアさんは別れの挨拶をしていた。
この建物内にいる侍女や使用人たちもひと部屋に集めてあるのでここはふたりきりだ。
この後すぐにレイアさんが事情の説明をするらしい。
俺は、レイアさんが慣れない手つきで淹れてくれた紅茶を飲み終えると、机の上に置かれた書簡を内ポケットにしまい込んだ。
レイアさんが今回の内容を簡潔にまとめた書簡──弟に宛てた手紙だ。
「顕現祭には本当に来られないのですか?」
俺は席から立ち上がりながら、もう一度レイアさんに聞いてみた。
七年に一度、それもフレディアが学院にいる間に催される祭りだ。
さぞかし楽しみにしていたことだろう。
「まずは政治を立て直すことが急務となりますから。大公と、残った家臣と身を粉にしてとりかからねばなりません。──もとより今年の顕現祭は半年ほど前に参列をお断りしているのです」
水不足に喘ぐシュヴァリエールを置いてスレイヤに行くわけにはいかない、ということだそうだ。
「水不足はこうして解消されましたが……いずれにしろ今年はもう間に合いません。青の都まではどう急いでも三カ月はかかります。式典はひと月後……フレディアの雄姿をまぶたに収めたかったという思いもなくはないですが、国より優先してよいはずがありません」
まあそれはそうだ。
こんなことが起こってしまっては当分の間、国はおろか城からも出ることはできないだろう。
「弟君にはレイア姫のお姿、確とお伝えいたします──」
俺はレイアさんに伝報矢をスレイヤに向けて放ってもらうと
「──それではレイア姫、また、お目にかかれる機会を心待ちにしております」
「ラルク殿、私も楽しみにしています。早ければ一年後──ですね」
会釈をしてシュヴァリエール城から飛び立った。
◆
「アクア、リーファ、フラン、ステア、あの辺りなんてどうだ?」
飛び立ってすぐ、小高い丘を指さして精霊たちに確認する。
返事はないが、おそらく気に入ってくれたのだろう──と理解した俺は強い雨の中、その場所に降り立った。
「よし、じゃあ、ここにしよう!」
なにをするのかというと。
精霊が住める森を造ろうとしているのだ。
試練の森が遠くて精霊との意思疎通が難しいのなら、試練の森のような場所をあちこちに造ってしまえばいいんじゃないか? と考えたのだ。
ふたつめのお願いとしてレイアさんから許可は取ってある。
国のすぐ近くに泉ができれば、万が一今回のような水不足に祟られて井戸が枯れたとしても、労せずに水を入手できる──ということに二つ返事で許可をもらったのだ。
はっきりいって成功するかはわからない。
上手くいったとしても何年かかるのかわからない。
しかし成功すればその泉から国の中に水路を引けるかもしれない。
そして加護魔術の効力が弱まる隙間を埋めることができるかもしれない。
「じゃあみんな、頼んだぞ!」
四柱の精霊の分身──光の珠を丘の上に浮かばせる。
「頑張って住みやすい森を造ってくれよ!」
四つの光の珠に別れを告げた俺は、レイアさんの矢を追った。
◆
そして──
魂の守護役として置いてきたエルナさんの胸の中のアクアと、俺の心の中にいるアクアとが繋がっていて、俺のすべてのことをエルナさんに知られていた──
などとは、このときは知る由もなかった。
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