第116話 深窓の少女


 体温の通う指先で乱暴に触れようものなら、脆く儚い泡のように、パチン、と音を立てて消えてしまいそうだった。


 僕の目の前にいるのに、本当にそこにいるのか不安に感じてしまうほど、夢幻ゆめまぼろしのように繊細な少女──。


 それが彼女に対する第一印象だった。


 そして──焦点が合うことがなく、光の灯っていない碧い瞳は、向き合う少女の目が不自由であることを裏付けていた。


 エミルと同じくらいの年齢か。

 おそらくこの少女には、僕のことはまったく見えていないのだろう。


 

「──」



 そのことを理解した僕は言葉を詰まらせてしまった。






 少女は突然の訪問客に驚いているのか、(不当に手に入れた)食事風景を見られて戸惑っているのか、さっきから微動だにしない。

 右手で大きな骨付き肉を握り、左手には僕もお気に入りの煮込み肉が挟まったパンを持っている。

 そしてほっぺたは小動物のようにいっぱいに膨らんでいる。

 左手のパンが齧られているところを見て、口の中に入っているのはそれだとわかった。

 だから──


「そ、それ、美味しいですよね!」


 気付いたらそんなことを口走っていた。


 な、ぼ、僕はなにを言っているんだ!?

 ち、違うって!

 もう一度謝って出て行くんだ!


「ぼ、僕も好きなんです!」


 違ぁう!!

 パ、パンのことは今はどうでもいい!

 ──早くこの部屋から出て行かないと!


「そ、そこの店のお姉さんがすっごい元気が良くていつ行っても行列が出来てて、そ、その甘辛い肉はなんの肉だかわからないんだけどそのちょっとしょっぱい野菜と一緒に食べると絶妙で僕なんて歩きながら」


 うわぁ! と、止まらない!

 ど、どうしよう!


「んむ!」


 すると、そんな僕の態度に腹を立てたのか、少女の顔色が透き通るようだった白色から、見る見るうちに赤く染まっていき──


「ご、ごめんなさいッ! すぐに出て行きますッ!!」


 ようやく僕も正気を取り戻し、急いで踵を返した。

 そして部屋を出て行こうとしたとき


「んむ! んむ!」


 それでもなお怒りが収まらないのか、少女の呻くような声が僕の背中に投げ付けられた。


 近寄るなと言われていた部屋に勝手に押し入り、さらには部屋の主人をここまで怒らせてしまった、とあってはコンスタンティンさんに申し開きのしようがない──そう考えた僕は、もう一度誠心誠意謝罪をしておこうと


「本当にごめんなさいッ!!」


 振り向きざまにバッと頭を下げた。

 そして恐る恐る頭をあげると──真っ赤だった顔を、今度は真っ青にした少女の顔が目に入った。


「──んぅ」


 少女はまだ呻いているが、なにか様子がおかしい。

 碧い瞳を白黒させ、目尻には涙が──


「って! だ、大丈夫ですかッ!?」


 怒ってるんじゃない!

 く、苦しんでいるんだ!


 僕は慌てて少女の背中に回り込み、背中を勢いよく叩く。と──


「──んむーっ!!」


 ぽーん、と、口に詰まっていた食べ物が飛び出した。

 

「大丈夫ですかッ!」


 少女は両手に持っていた食べ物をテーブルに置くと、げほげほとむせながら何かを探すように手を伸ばす。


「お水ですか!?」


 そう見当をつけた僕は、水が入っているグラスを少女の手にそっと握らせてあげた。


「──!」


 少女は一瞬ビクッと身体を震わせたが、それがグラスとわかると両手でしっかりと持ち、そして口元に近付け、匂いを嗅ぐと一気に飲み干した。


 グラスを空にした少女は大きく息を吐いて、椅子の背もたれに身体を預ける。


 あ〜びっくりしたぁ……

 顔色も戻ってるからもう大丈夫だろう……


 少女の無事を確認すると、僕も堪らずに息を吐いた。


「──驚かせてしまってすみません。食べ物の行方を追っていたらこの部屋に辿り着いたので、悪いと思いながらも、つい入ってしまったのです」


 さっきは苦しくて僕の謝罪なんて聞いていられる状況じゃなかっただろう──と、少女の正面に立った僕はもう一度頭を下げた。


 しかし少女からは何の言葉も返ってこない。

 この程度の謝罪では許してくれないのか──とも思ったが、少女の表情を見ると怒っているような様子は窺えない。むしろ小首を傾げているその表情は、なにか戸惑っているように見えた。


「あのう、それでは帰ります。あ、僕はコンスタンティン様からこの館の一室をお借りしているキョウと申します。決して怪しいものではありませんので……。それとその食事は……お詫びの印にどうぞ食べてください」


 消えた食べ物の謎が解けて、もやもやが晴れた僕はこれでゆっくり眠れる──と、今度こそ部屋を出ようとした。


 でもコンスタンティンさんはどうしてこの部屋が『開かずの間』だなんて言い方をしたんだろう……

 パティさんたち以外にも人がいたことにはびっくりしたけど、とても綺麗な女性エルフじゃないか……


 不思議に思いながら扉を閉めようとしたとき


「──んー、ん!」


 また少女の呻き声が聞こえてきた。


 ん? また喉に詰まらせたのかな?


 閉まりかけた扉を開き、少女を見ると、


「んー、んー」


 両手を前に伸ばして何か話している。

 苦しそうにはしていないので、助けを求めているわけではなさそうだ。


「どうしました? なにかお手伝いしましょうか?」


 しかし少女は


「ん、んー」


 喉の奥で音を鳴らしているだけだ。


 そのとき、僕は、


 もしかしてこの女性ひとは喋れないのか!?


 そう思い至った。


 目だけでなく声も不自由なのか! と。


 しかし、それだけではなかった。


「なにか僕でできる──」


「ん、んー」


 僕の声も彼女の耳には届いていなかった。









 ◆








「アクアとリーファが僕を連れてきたのはこの少女を救うためだったのか」


 きっとそうだろう。


 世の理そのものである精霊のすることには、すべてに深い意味がある──。


 お師匠様の教えだ。


 だから僕は椅子から立ち上がろうとする少女の肩を優しく抑え、少女の右手をそっと手に取った。


 そして──


【だ、い、じ、ょ、う、ぶ。せ、い、れ、い、が、ぼ、く、を、つ、れ、て、き、た】


 少女の柔らかな手のひらに文字を書く。


 ──少女が驚きを顔に表す。



 この少女に何があったのかはわからない。

 勝手な真似をすればコンスタンティンさんに叱られるかもしれない。


 でも──


 精霊が僕を導いたのなら──。


【あ、な、た、は、ひ、か、り、を、み、た、い、で、す、か】


 そして少女がそれを求めるのであれば──。



 少女が大きな瞳を一瞬見開くと


「──ん」


 確かに頷く。


 

 ──それならば僕は

 ──僕のできることから目を逸らさない。



【ひ、と、み、を、と、じ、て】


 少女がまぶたを静かに閉じる。

 少女の身体を僕の正面に向けると、僕は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。


 そして──


「【──ふげんさんまやの印、──臨】」


 印を結ぶと部屋が眩ゆい光で溢れ、


「【──だいこんごうりんの印、──兵】」


 漏れた光は窓の外の庭までをも昼間のように明るく照らし、


「【──げじしの印、──闘】」


 もはや光以外には何も見えなくなった。


 僕は湧き上がる力を制御し


「【──キョウの名に於いて原初の精霊アクアディーヌを使役する、世の理に干渉し、彼の者を癒せ】」


 詠唱を終えて印を解くと、右手を少女の額に翳した。





 

 ◆






 光が止むと、そこには眠るように意識を失った少女の姿があった。


「──リーファ、このひとを寝台に運んであげて」


 ポッと姿を現した光の珠が少女を寝台まで運ぶ。





「──これで良かったの? アクア、リーファ」


 残ったテーブルの上の食事に、明日も食べられるように、と布をかけながら尋ねると


 『ありがとう』と返事が聞こえたような気がした。


 そして、部屋を出る際、部屋の隅にいた小さな精霊に、


「──君が彼女のことを守っていたんだね、これからも傍にいてあげて」


 と微笑みかけておいた。


 するとその精霊からも


『ありがとう』──


 と聞こえたような気がした。





  

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