第75話 光の渦


 光の届かない断崖で、淡く発光しているマールの花を見つけたのは、花びらを閉じようとしているちょうどその時だった。


 花弁が閉じきると発光が止んでしまう。そうするとその花は、薬としての効能を失ってしまうそうだ。


「ふう、なんとか採取できた……」


 僕は切り取っても光り続けている不思議な花を、腰に下げた皮袋にしまうと、


「よし、あとは戻るだけだ」


 慎重に崖を登り始めた。


 昨日、寝小丸さんのふかふかのお腹でぐっすりと眠ることができたお陰で体力には余力がある。


 この調子なら問題なく登りきれるだろう──。


 だが──。



 使いの達成を直前に、決して油断したわけではなかった。

 むしろモーリスから『敵を倒した直後が最も危険な時間だと身体に叩き込め』と散々教えられていたので、仮想敵としたマールの花を手にした今、僕はここ一番、最大限に集中していた。

 しかし──今回ばかりはそのことが裏目に出てしまった。

 なぜなら、あまりにも集中していたために件の視線を敏感に感じ取り──


「だ、誰だッ!!」


 その視線を真後ろに感じて振り向いてしまったのだ。


「──あッ!」


 そして体勢を崩した僕は足を踏み外し、深淵が大口を開けて待っている奈落の底へと真っ逆さまに落ちてしまった。

 だが、こんなこともあろうかと想定したうえでの蔓だ。

 身体に何重にも巻きつけた頑丈な蔓はある程度落ちたところでピンと張り、僕の身体をしっかりと支える──



「う、うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ──」



 ことなく、無情にも伸びきった拍子に結びの甘かった蔓と蔓の結び目が解け、



「──ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」



 僕は上も下もわからない状態で闇に飲み込まれていった。


 どんなに手足をばたつかせようとも、空を切るばかりでなにも掴めない。



「──ぐっ!!」



 風の抵抗を受け、呼吸することもままならない。


 落下する速度はどんどん増し、『ヒョオオオ』という不気味な音だけが脳内に木霊する。



 焦りと恐怖から思考が停止し、そしてあとは──いつか訪れる衝撃と、時を同じくしてやってくるだろう死を待つだけだった。





 ◆





「おや? 起きたのかい?」


 イリノイのいる食堂の戸口に銀色の髪の少女が姿を現した。

 イリノイは煎じている薬から目を離すことなく声をかける。


 音もなく近寄ったのに気付かれたことに驚いたのか、覗き見していたことを恥じたのか、少女の表情は驚きと当惑に染まっていた。が、顔色は魔力枯渇によって昏睡していたとは思えぬほどに良かった。


「あの、ここは……私、森で迷ってしまって……」


「ああ、知っているよ。さあ、温かいものを淹れよう。そこへお座り?」


 胸の前で手を組み、所在なさげに突っ立っている少女に向かって、イリノイが穏やかな声で着席を促す。

 少女はイリノイの勧めに応じて室内に入ると、言われた場所に静かに腰を下ろし、イリノイが茶を淹れる様子を黙って見ていた。


「思ったより早く回復したね、相当な魔力量だ、──三級かい?」


 鉄鍋から湯を汲んだイリノイが、少女の回復速度から魔術師としての階級に見当をつけて質問する。


「あ、いえ……五級、です……」


 少女は嫌なことでもを思い出したのか、僅かに眉を顰めると消え入るような声で答えた。


「おや、そうかい。それは……勿体無いねえ」


「え、それはどういう──」


「ほら、お茶が入ったよ。熱いから気をつけてお飲み」


「あ、ありがとうございます……」


 少女はイリノイが差し出した湯呑みを両手で持つと口元へ近付けた。


「安心しな、毒なんて入れてやしないよ」


 なかなか飲もうとしない少女に、イリノイが顔を上げて笑みを浮かべる。


「あ、い、いえ! そ、そういうわけでは……」


「泥だらけだねえ、可哀想に。それを飲んで温まったら湯浴みをしてくるといい。そのままではせっかくの綺麗な顔が台無しだよ」


 少女のなりを見て、浮かべた笑みに哀れみを混ぜたイリノイが


「わたしは湯を用意してくるよ。──話はそれからにしようかね」


 立ち上がると食堂を後にした。

 ひとり食堂に残された少女は、手に持っている茶をひと口啜ると──


「美味しい……」


 透き通るような白い肌に美しい血色を浮かべた。




 ◆




 自由を失った僕の身体は、重力に任せて自由に落下していく。



「────」



 肺に空気を送れず朦朧としてきた意識の中、それはまた突然にして神々しいまでの姿で以って僕の前に現れた。

 


──奔流する光の渦。



 ピレスコークの泉に落ちた際、死の淵で見た眩い光の渦。

 あのときと同じ光景が目の前に迫ってくる。

 そして大迫力の光は僕の身体を包み込み──



「──!」



 ふわりという浮遊感がしたと思うと──



「──うわあ!!」



 僕の身体は瞬く間に浮かび上がり──



「──わ、わ、わ!!」



 崖の頂上を飛び越して──



「──ちょ、ちょ!!」



 遥か上空まで舞い上がると──



「──なッ!?」



 また落下を始め──



「──えぇぇッ!?」



 最後はストン、と寝小丸さんの足元に着地した。



『ニャー』



 寝小丸さんのおかえりの鳴き声付きで。




 

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