第74話 ねこまる
相も変わらずそぼ降る雨の早朝、二本の大木の間をひとりと一匹が通り過ぎると──
「……どうなってるんだろう、これ」
目の前の光景が、草原から見慣れた森へと一瞬にして変化した。
気候や風の匂いは同じだから、空間としては繋がっているんだろう。
「すごい、ですね……寝小丸……さん」
左上を見上げて、のっそのっそと歩いている毛むくじゃらの魔物におそるおそる声をかける。
『ニャー』
新しい相棒は、アクアと違って返事をしてくれるのだ。
怒らせてはいけない──と、つい敬語になってしまうが、仲間ができたような気がしてなんだかとても嬉しい。
寝小丸さんが付いてきてくれるなら、他の魔物が寄ってこないかもしれないし、このお使いを終わらせるまでの間になんとか仲良くなってみよう。
もう一度見上げるとギラッと光る縦長の目玉と目が合う。
「…………」
寝小丸さんはやっぱり少し……いや、かなり怖かった。
「さあ、マールの花を目指して頑張るぞ!」
お師匠様に頼まれた使いは二回目の朝を迎えるまでに庵に戻ってこ
なければならない。
「カイゼルさん、必ず助けるからね!」
僕は気合いを入れ、試練の森の五層の奥地へと進んだ。
◆
「この小川沿いに進んで……よし、もうすぐ目的の場所だ」
やはり寝小丸さんのお陰か、魔物に遭遇することもなく、暗くなる前に目的地付近まで来ることができたのだが……
「また見られてる……なんだろう」
五層に入ってからずーっと感じている、誰かに見られているような視線に悩まされていた。
「寝小丸さん、なにか気が付かないですか?」
『ウニャ』
僕の話が通じているのかいないのか、視線を感じているのかいないのか、短く鳴いた寝小丸さんは、しかし何も気にする様子もなく前を向いて歩いている。
まあ、何かあっても寝小丸さんがいるから大丈夫だろう──別段何かしてくるでもない視線の主に、それでも万が一のときには寝小丸さんにお願いしようと密かに目論む。
「ん? あの崖がそうかな」
しばらく歩くと木々がまばらになり、その先に崖が見えてきた。
崖──といっても頑張れば登れるほどの斜面だ。
あれくらいなら僕にだって登れそうだぞ!
意外と簡単そうじゃないか!
よし、どのあたりに花が咲いているのか確認したら今日は早めに休もう。
花が咲く瞬間を狙って素早く採取できるように、花が咲いていそうな場所を下調べしておこうと、崖に近付こうとしたところ
「あ! 寝小丸さん! そっちじゃないです! 寝小丸さん? どこに行くんですか?」
寝小丸さんが見当違いの方向へ進み出した。
「ね、寝小丸さん! 待ってください!」
こんなに森の深い場所でひとりにされては堪らない。
「どこに行くんですか? こっちに何かあるんですか? 花ならあっちに──」
僕は慌てて寝小丸さんの後を追い、隣に並び寝小丸さんに話しかけると──突然寝小丸さんがピタリと歩くのをやめる。
「どうしたんですか? 寝小丸さ──」
僕もそれに合わせて立ち止まり、寝小丸さんの視線の先を辿ると──
「──ひッ!!」
地面がなかった。
「──う、うわぁッ!!」
尻もちをつきもう一度前を見ると、
「──なッ!?」
やはり今いる場所から先に地面はなく、数十メトルの幅で大地が裂けていた。
一見、裂け目の向こう側の景色と同化しているため、何も考えずに歩いていたら穴に落ちていただろう。
僕は四つん這いになり、前かがみでそーっと穴の中を覗き込むと──
「──た、谷なんてもんじゃないぞ!!」
覗いた大地の裂け目は深さなどまったく窺い知れない、真っ暗な穴だった。
穴の底からだろうか、ヒョオオ──と風が渦巻くような不気味な音が聞こえてくる。
ゴクリ──。
まさか崖というのはこっちのことなんだろうか──と唾を飲む。
隣で丸まっている寝小丸さんに目を向けると──
『ンニャ』
と瞬きする。
「そ、そんな!! こんなところを下りるなんて!! お、お師匠様の地図はいっつもいい加減すぎるんだよッ!!」
大声を出した拍子に手元の小石がパラパラと落ちる。
深淵に吸い込まれていく落下物は、
「…………」
いつまでたっても底に落ちた気配がない。
「む、無理無理無理! 無理ぃ!! こ、こんなところ絶対に無理ぃ!!」
断崖絶壁に咲く花を、それも朝の一瞬のうちに採取するなんてただでさえ曲芸じみているというのに、ここ数日振り続けている雨のせいで足場は相当脆くなっている。
こんな場所を這い下りるなんて七歳の子どもがやっていいことではない。
「お、お師匠様には別の方法でカイゼルさんを助けてもらおう……」
いつまでも奈落の底を見ていると、不思議と吸い込まれそうになってしまう。
僕はいったん庵に戻ってお師匠様に相談しよう、と、立ち上がって振り返ると──
──びたん! びたん!
寝小丸さんの太い尻尾が地面を叩く。
まさか怒ってらっしゃるのか……?
寝小丸さんの顔を見ると──目をつぶって寝ているように見える。
僕が前を向くと尻尾は大人しくなった。
たまたまか──
「寝小丸さん、今日のところは一度帰って──」
──ビッタン!! ビッタン!!
寝小丸さんの尻尾が暴れ、前足からは爪が出る。
──!! や、やっぱり怒ってる!?
「わ、わかりました! やります! やりますッ!」
まさかお師匠様、僕が尻ごみすることを予想して、見張りのために寝小丸さんを付けたのか!
お師匠様のニヤケ顔が頭に浮かぶ。
寝小丸さんは僕の決意表明に満足したのか、寝息を立てて眠りだした。
「ああ……どうしよう……」
もう一度穴の内部を覗き込んでみるが、良い発想など浮かぶはずもない。
「とりあえず、頑丈な蔓を集めてこよう」
これくらいしか思い浮かばずに、僕は薄らと目を開けた寝小丸さんに「帰るのではなくて、木の蔓を探しに行くんです」と断りを入れてから、森に入っていった。
◆
「こんなもんか……あとは……明日、やれるだけやってみよう……」
大量の蔓を集めて雨の当たらない岩陰に場所を移した僕は、夕飯にお師匠様に包んでもらったパンと干し肉を食べて腹を満たした。
寝小丸さんは食事の必要がないのか、パンと干し肉を『食べますか?』と渡そうとしても食べようとはしなかった。
身体の大きな寝小丸さんが、ちっぽけなパンと干し肉を食べても腹の足しにはならないだろうけど。
その辺をお師匠様から聞き忘れていた僕は帰ったら寝小丸さんの好物を聞いてみようと考えながらひとりの食事を終えた。
そしてその後は延々と僕の命を預けることになる蔓を結い続けた。
そして今しがたその作業も終え、ランタンの明かりを消す。
「上手くいくかな……」
心配は尽きないが身体は休めないといけない。
そうわかってはいても、明日のことを考えれば考えるほど鼓動が速くなり寝付けなくなる。
すると
『ニャ』
寝小丸さんが小声で鳴いた。
「──どうかしましたか?」
隣で大きな体を小さく丸めている寝小丸さんを見ると、尻尾で自分の腹の部分を叩いている。
「え? そこで寝て良いんですか?」
『ニャ』
寝小丸さんは返事をするとまた目をつぶって寝てしまった。
僕は「失礼します……」と寝小丸さんのお腹に寄り掛からせてもらうと──
あまりの心地良さにあっという間に眠りに落ちてしまった。
◆
そしてまだ暗い早朝──
寝小丸さんのお腹でぐっすり眠れた僕は
「ぜ、絶対に離さないでくださいよ! お、お願いしますよ! 寝小丸さん!!」
自分の身体に蔓を巻き付けると、反対側の端を寝小丸さんの前足にきつく結びつけた。
崖の近くに生えている木がないゆえの苦肉の策だが、下手な木よりは全然頑丈だ。
『ニャーオ』
任せろ、といわんばかりに寝小丸さんが鳴き、というか吠え──
「あ! 今はそれやらないでください!」
寝小丸さんが身震いしようとするのを必死で止める。
朝一番でそれをやられたときは針が飛んできたのかと驚いた。
ビシビシ当たる水滴は僕の眠気を一気に吹き飛ばしてくれた。
「じゃ、じゃあ行ってきます! 寝小丸さん! 本当に離さないでくださいね!」
そして僕はマールの花を探すため、勇気を振り絞って崖を下り始めた。
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