第40話 魂の成長と無意識の戦い
「──ミスティアさん!」
死を覚悟したミスティアの耳に聞き覚えのある、しかしここにいるはずのない者の声が響き渡った。
瞬間、ミスティアの身体は浮遊感を覚える。ミスティアの名を叫んだ声の主が、ミスティアの身体を抱えて大きく跳んでいたのだ。
今まさにミスティアの命を刈ろうとしていた冷たく光る刃は、ブォンと鋭い音を発して虚空を切り裂き、その先の木々を薙ぎ払った。
「お待たせしました!」
「──ッ!! なッ!! な、何故、き、貴様がここにいる!!」
見上げる顔はミスティアの知る、今日知り合ったばかりの少年──だったが、ミスティアの目にはまったくの別人かと思わせるほどに精悍かつ、情感豊かに映って見えた。
しかし一日中装着していた眼帯が外されて露わになった黒く揺らめく右眼は、あの少年と間違いようがない。
「──もう心配いりません」
衝撃もなく高所から着地し、ミスティアをそっと木に寄りかからせた少年は、自分の外套をミスティアの身体に掛ける──と、凝りをほぐすかのように首を回し、次いで肩を回転させる。
「脇の傷だけ治癒していてください。あとはただの切り傷です」
少年が膝を曲げ伸ばししながらそう言うと、
「き、貴様は、い、いったい何者なのだ……」
少年から掛けてもらった外套を抱き寄せ、身を縮こまらせたミスティアが声を絞り出す。
少年は闇より黒い右眼を輝かせる。
「僕はラルク──」
そしてミスティアを真っ直ぐに見つめると
「元
そう名乗った。
林を抜ける冷たい風が、少年の金色の髪を、さあっ、と撫でる。
「魔術師……? く、黒禍……だと……? 貴様いったいなにをふざけて……」
ミスティアは呼吸も荒く少年を
「ミスティアさんはそこで身体を休めておいてください。すぐに終わらせます」
「な! 何を言うか! 私でも敵わぬ者が貴様如きで──」
「──僕なら大丈夫です」
「な、何をッ!」
ミスティアは立ち上がろうとするが身体に力が入らず何もできない。
「【さあ、アクア】」
少年は口角を上げ、愉悦に浸った笑みを浮かべると
「【全力で行こうか】」
両腕を突きだす少年の周りに、無数の光の珠が出現し舞い始める。
「──ッ!? な! せ、精霊言語だとッ!! しかも何故加護魔術を──」
ミスティアからしてみれば、それは信じられない光景だった。
腑抜けた少年が突如現れたかと思ったら、自分を絶体絶命の危機から救い出し、さらには精霊言語まで使いこなすのだ。
そのうえ加護魔術が行使できない環境にもかかわらず、目の前の少年はいとも容易く精霊を呼び出している。
「【闇の結界……だがこれしき……僕とアクアには通用しないさ】」
少年が精霊言語で呟く。と、
「こ、これ全てが精霊様だというのか……?」
精霊を視認できるミスティアは目を疑った。
その精霊の数は加護魔術としてミスティアが行使可能な域をはるかに凌駕していたのだ。
「精霊様が……喜んでいらっしゃる……?」
ミスティアにはそのように見えた。少年の周りを跳ねるように舞う精霊の姿は、まるで恋する乙女のようだった。
「何という……あれが、あの腑抜けた少年だというのか……まるで別人……」
自分では手も足も出ず、成す術もなかった強大な敵を前に臆することなく、精霊と戯れあまつさえ笑みをも浮かべているのだ。
そして──ミスティアを庇うように立つ少年の口からおもむろに精霊言語が紡がれる。
「【……
少年の精霊言語はまだ終わらない。
「【……
少年が紡ぐ精霊言語はミスティアが知るどの加護魔術使いよりも流暢なものだったが、しかしどの加護魔術師からも聞いた覚えのない単語の羅列だった。
「【──
そう叫び、少年が両手の指を複雑な形で組み合わせると同時、集まっていた精霊が一斉に姿を変える。
煌めく光の珠から細かい氷の粒子に変わり──
一瞬、──呼吸ひとつにも満たない時間にして一帯の気温が氷点下まで下がった。
「な、何だこの魔術は──!」
ミスティアが驚き、痛む上半身を起こして辺りを見回すと──草花は白く凍りつき、木々は樹氷と化していた。
キンと澄み渡る空気は静寂が支配し、自らの
ミスティアにはそれらが雑音と思えるほどに、先程までは死地と捉えていた色のない場所が、幽玄な景観を見せる神聖な場所へと変貌を遂げていた。
時が止まり、この場だけが世界から断絶されてしまったかのようだった。
「す、凄まじい……」
ミスティアは外套を強く抱え込むことで、寒さで噛み合わない歯をどうにか抑えた。
夢でも見させられているのか──しかしまだ脇腹の傷は血液の流れに合わせて深く重く痛む。
寒さと痛さが脳に信号として送られ、否が応にもこれが現実であることを思い知らされる。
「……ミスティアさん。十四人いますが、生かしておくのはひとりで構わないですか?」
ミスティアに振り返ってそう言う少年は、確かに今日顔を合わせたばかりの、祖母から親戚だと紹介されたラルクという少年に違いはなかった。
「じゅ、十四人……そんなに多くの敵がいるのか?」
なぜこの少年がこのような力を──
いや、それよりもこの少年が口にした黒禍とは──
ミスティアは訊ねたいことが山ほどあったが、今はそれを抑え「私には見えないのだが……」少年の質問に答えた。
「ああ、すみません」と、少年が手をひと振りし「これでみえますか?」と前方に視線を送る。
ミスティアが言われたままに顔を向けると──
「──なッ!!」
先程までは姿も形も、影さえも見せていなかった賊の姿が月明かりの下に浮かび上がっていた。
その数は少年の言うとおり十数人は居るだろうか。
「見覚えのある顔はありますか? ──大丈夫です。あいつらはもう瞬きひとつできませんから」
ミスティアの驚愕に染まる顔を見て、安心させようとしたのか少年が一番近くの賊の近くまで歩み寄ると、ピン、と賊の頭を指で弾いた。
すると、キィィン、と高く軽い音が林に響き渡る。
「ご覧の通りです」
たしかに賊共は動く気配を見せなかった。
それを確認したミスティアは治癒魔法をいったん解いて立ち上がろうと──
「あ……しまっ……!」
しかしミスティアは服がはだけ、肌が露わになっていることに気が付きその場にしゃがみ込んでしまった。
少年から借りた小さな外套だけではとてもではないが全身を隠すことができない。
戦場に於いて素肌を晒す、など騎士のミスティアにとっては瑣末なことではあるのだが、十五人もの男を前にして(うちひとりは少年だが)、というより生を実感することができたあたりから俄かに羞恥心なるものが胸の裡に込み上げてきていた。
ゆえにミスティアは立ち上がることを躊躇してしまう。
「申し訳ありませんけど、羽織れるものはそれしかないんです。僕は反対側を向いているので、その間に確認してもらえますか?」
ミスティアがなお思案に暮れていると、気を遣ったのか、
「こいつらなら平気です。僕が術式を解かない限り仮死状態のままですから。視覚も聴覚も全て奪ってあります」
そう付け加えた。
「わ、わかった、別に恥ずかしいということではないのだが……」
そこまで言われてしまえば身体も自然に動く。
ミスティアは覚悟を決めると小さな外套を躰の前にあてて、賊の顔を一人ひとり覗き込んで回った。
目を見開き、呼吸をしているかに見える賊共は今にも動き出しそうに見える。
しかし試しに少年の真似をして指で弾いてみたところ、やはり鐘の音のような響きを立てるだけで動くことはなかった。
手には鎌や剣を握っており、眼光鋭く獲物を刈ろうとしているそれらは精巧な作り物のようで、ミスティアには酷く恐ろしく感じた。
姿を露わにした、今にも襲いかかってきそうな賊十四人に対して──ではない。
その族を刹那の間に、十四人同時に無力化してしまった少年の魔術に対して──である。
いったいこの少年は何者なのだ──
この躰の震えは本当に寒さからくるものなのか、それとも──
「どうですか? 生かす奴、殺す奴の選別はできましたか?」
「あ、いや、もう少し待ってくれ!」
ミスティアは慌てて少年の背中から賊共に視線を移すと、急いで顔の確認を行った。
「──どれも見た覚えのない顔だ」
確認を終えたミスティアが少年の背中に向かって声をかける。
「そうですか……」
少年がミスティアの方を振り向こうと──
「あ、ちょ、ちょっと待て! まだこちらを向くな!」ミスティアは慌ててその場に座り込む。
「あ、あの、いいか? この魔術はどれほどの時間保っていられるのだ」
ミスティアが少年に尋ねる。
「僕が術を解除するまでです」
「いや、そうではなくて、仮に解除しない場合はどれくらい持つのかと聞いたのだが」
「それはどうでしょうか。一年か、二年か……それこそ精霊に聞いてみないと、……あ、あれ……?」
「ど、どうした」
「あ、あれ? まずい、力が……抜けて……」
賊の像を見やっていたミスティアが少年の異変に気が付き目を向けると、膝から崩れ落ちていく少年の姿が目に入った。
「おい! 大丈夫か!」ミスティアが慌てて駆け寄ると
「【アクア、ミスティアさんをよろしく……】」
少年が精霊言語を発している。
「どうした!」少年の頭を胸に抱え込んだミスティアが少年の顔を覗き込む。
「まだ話しておきたいことがたくさんあったんだですけど……簡潔に説明するから聞いてください……」
「し、死んだりするなよ! だ、大丈夫なのだろうな! 私も聞きたいことがあるのだ! それに礼もまだ、」
「だ、大丈夫です。少し休めば……精霊はミスティアさんに従うように指示を出しておきました……あいつらを拘束する時間はお任せします……煮るなり焼くなり好きにしてください……」
先程までの精悍な顔付きは影を潜め、弱々しく顔色も悪くなった少年がミスティアに後を託す。
「わ、私が精霊様を! そんな急にいわれても!」
「大丈夫です。アクアはとてもいい子ですから……それと……」
「なんだ! い、言ってみろ!」
「すみませんが、僕を部屋まで連れていってくれませんか……」
「そんなこと、当然だ!」
ミスティアは口調こそ強く応じるが、少年の頭を支える腕は優しく、視線も柔らかい。
「後もうひとつ……」
「い、言ってみろ! なんだ!」
「門番の……ハングさんに……微笑みかけてあげてください……」
「わ、わかった! ハングだな! 承知した!」
「最後に……」
「最後に……?」
ミスティアの手に力が入る。
少年は今にも目を閉じてしまいそうだ。
「お、遅くなって申し訳ありませんでした……」
その言葉を最後に少年の口が閉じ──
「お、おい! おい! ラ、ラルク!? ラルクッ!!」
『ようやく名前を……』
少年は穏やかな表情のまま静かに目を閉じた。
ミスティアはラルクの「少し休めばまた話せるようになる」という言葉を信じて、今は胸の中にラルクの頭を
目が覚めたら敬意を以って、目を見て礼を言わせてほしい──と。
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