第39話 見えない刄
◆
スレイヤ王国最北端の街レイクホール。
右目を黒い布で覆った少年が街の門をくぐった日。
夜も更け、普段であればひっそりと静まり返る時間帯になったが、この日はこの時間から動き出すいくつかの影があった。
──南地区──
崩壊した壁の瓦礫を片付け終えると、男は建物の中に入り、客がいなくなったテーブルに座り書き物を始めた。
暫く真剣な表情で筆を走らせていた男が顔を上げる。
男は紙を筒状に丸めるとそれに向かって小さく呟いた。
筒状の紙が一瞬、淡い光を帯びる。
男が再び何かを呟くと、紙はしっかりと封のなされた巻物に姿を変えた。
「これを」
男が誰もいないカウンターに向け筒状の紙を突き出す。
すると──誰もいないと思われたカウンターの中から女が姿を現し、その巻物を受け取った。
「あの少年、あのままでよろしいのですか?」
受け取った巻物を丁重に胸元に仕舞い込んだ女が片膝をついた姿勢で男に訊ねる。
「気が付かなかったのか」
「と、申されますと」
「あの額……いや、気付いていないのなら良い。急いでそれを」
「承知致しました」女は頭を下げると立ち上がり、瓦解した壁を見て小さく嘆息すると、開ける手間の要らなくなった扉をくぐり、通りへ消えていった。
男は女を見送った後、少しの間物思いに耽るように
──中央広場付近──
石畳を駆る一頭の馬の規則正しい蹄の音が、夜のレイクホールの街に響き渡る。
「まったくカイゼルの奴、私を迎えに出向かせるとは、これで大きな貸しができたな」
馬上で不敵な笑みを浮かべるミスティアは、しかし目は笑ってはいなかった。
「……また先程と同じ視線か……大方騎士団志望の輩だろうが……なかなかに筋は良いな」
「今度教会へ私を訪ねてこい! 一度入団の試験をしてやろう!」ミスティアは視線を感じる闇の先に向かい声を張る。
「非番でなければ……剣があれば相手をしてやっても良かったが。いや、今はそんなことよりノイ婆の紅茶が先だ」
ミスティアはそう呟くと馬の腹を蹴り、街の外へと速度を一段上げた。
──東地区・ハーティス家敷地内──
四方を岩で囲まれた暗く長い通路。
その通路の先から蝋燭の火を揺らしながら速足で向かってくる影があった。
「今日はなんて日なんだい、まったく」
白髪の髪を結いあげた初老の女──イリノイがひとりきりなのを良いことに無遠慮に声を荒らげている。
ここはハーティス家にある温室の隠し部屋から、辺境伯が居を構える城までを結ぶ地下通路──。
未だスレイヤ王国の厳重な監視下にあるレイクホール辺境伯と、秘密裏に連絡を取る際にのみ使用される重要な施設だ。
「早く用を済ませて上等な紅茶をいただきたいもんだね」
ほとんど走っているのと変わらない速度で通り過ぎるイリノイの呼吸は少しの乱れもなかった。
三百年前に造られた隠し通路は今以って朽ちることなく、そしてスレイヤ王国に感づかれることなく、こうしてその役目を果たしている。
──北地区・教会地下──
階上にある神々しい輝きを放つアースシェイアナ神の祭壇とは対をなすように、ブレキオス神の石像が薄明かりの中で不気味に浮かび上がる地下礼拝堂。
「……数アワルと自負しておらなかったか」
黒一色の礼拝服姿の男が、ブレキオス像に祈りをささげた姿勢のまま、地を這うような低い声を出す。
「弁解の余地もございません、もう暫しお待ちを。必ずや女の首を持ち帰ります」
何もない空間から発せられた声からは、僅かに焦りのようなものが感じられる。
「ハーティスはどうしておる」祈りの姿勢を崩さぬまま礼拝服姿の男が訊ねる。
「今は屋敷に戻っておりますが、間もなく戻らぬ同僚を不審に思い街の外に出るものと……その際は……」姿が見えない、声だけの人物は、そう言うと導きを待つかのように押し黙った。
たっぷりと時間をかけてから礼拝服姿の男が立ち上がる。
そしてブレキオス像に向かって十字を切ると
「少しばかり惜しいが……カイゼルらと共にブレキオス様の御許に送ってやりなさい」
そう言い振り向いた男の顔は皺で覆われており、片方の瞳は怪しく光っていた。
音を立てて回り出すいくつもの歯車──
そして今まさに、長い夜が始まろうとしていた。
◆
「くっ、囲まれたか……」
忸怩たる思いを滲ませてミスティアがごちた。
手綱を引いた馬の上から闇を見回し下唇を噛む。
異変に気が付いたのは街を出てすぐのことだった。
しかしいざというときには加護魔術がある──そう思い、非番であったこともあって帯刀せずにここまで来たのは決して油断からではなかった。
ミスティアとて”通常の敵”であれば、魔物であろうが人族や獣人族であろうが、決して後れを取るようなことはない。大陸に冠たる聖教騎士団序列二位という地位は飾りではないのだ。
”通常の敵”が相手であれば──
しかし今、ミスティアを囲う”姿の見えない敵”はとてもではないが”通常の敵”とはいえなかった──。
ミスティアが予定の時刻になっても帰還の一報がない同僚を憂慮し、馬を駆ってレイクホールの街の外に出たのは夕食も終わり、夜遅くになってからだった。
初めこそ祖母に渡す予定でいた土産の到着が遅れたことに痺れを切らし、自ら受け取りがてら合流しよう──程度の思惑でいたのだが、すぐにそれが同僚の安否確認へと目的が変わることになる。
ミスティアは街を出てすぐに、誰かにつけられていることに気が付いた。
しかしそのときは気にも留めず、土産を受け取るために馬を走らせた。
追跡している者をその場で問い質すことも可能であった。が、敢えてそうしなかったのは、自分の実力に自信があってのことだった。
力量のほどは知れぬが、スレイヤ国内程度の
敵意があるのかもわからない相手に時間を割くよりは、早く祖母に上等な紅茶を淹れてあげたい──と。
しかし、ミスティアが自らに視線を送る者を”敵”と捉えるまでに、そうは時間は必要としなかった。
どこからともなく現れた”見えない刃”がミスティア目掛けて振り下ろされたのだ。
間一髪、剣を持たないミスティアは大鎌の気配を察知し手綱捌きだけで回避したが、肩口を斬られ治癒魔法を余儀なくされた。
”見えない敵”の初手を防ぎ、致命傷を避けることができたのはさすがとしか言いようがない。
しかし──
決して油断などしてはいなかったにもかかわらず、浅くはない傷を負わされた──。
ミスティアはその時点で同僚の安否に不安を覚えた。
だが敵が
ミスティアは林がある地帯まで馬を走らせると迷わずそこに駆け込み、林立する木々を盾に巧みに敵の攻撃を躱す。しかし姿が見えない敵を相手に、気が付いたときには複数の気配に囲まれてしまっていた。
姿も見えなければ目的も見えてこない。
聖教騎士団と知って害をなそうとしているのか。
いや、カイゼルたちもこいつらに帰還を拒まれたのだとしたら聖教騎士団と知っての狼藉だ。
とするとマティエスから連れてこられた少女が関係しているのか。
ミスティアは、冷静な分析とは裏腹に追い詰められていることを実感した。
なぜならば──加護魔術が行使できないのだ。
どういうわけかこの場には精霊が集まらなかった。
ミスティアは気ばかりが焦り、腰の剣に手をやり──剣がないことに再びほぞを噛む。
魔術も使えない、剣もない。ミスティアに残された
「強い……」
致命傷は避けたとはいえ、ミスティアが不覚を取ったのは実に四年ぶり、序列の一位と二位の差を嫌というほど思い知らされた日以来のことだった。
ミスティアは愛馬から降りると馬の尻を叩いた。
傍目には馬だけでも逃がしてやったと映ったことだろう。
隙を見せる素振りもない。
馬はそのまま草原へと走っていく。
あわよくば──愛馬を襲う隙を窺い攻撃に打って出る、という目論見は外れとなってしまった。
だが、もうひとつの目的は達成できそうだ。
馬が街まで戻れるようであれば、ミスティアの身に何か起こったのかと必ず気が付くはずだ。
そうすればすぐさま捜索が開始されるだろう。
敵としては手痛いミスとなったであろうが、行動を起こす様子もない。
それほどまでにミスティアの一挙手一投足に意識を集中しているということなのか。
それとも全てを含めてどうということではない、とでも考えているのか。
暫くお互いに動きのないまま時間だけが過ぎていく。
ミスティアからしてみればその時間は膠着状態だった。
しかし敵はそうは思っていなかったらしい。
ミスティアが呼吸を整えようと、僅かに集中を切らしたそのとき──
「グッ!!」
ミスティアに迫る見えない刃が、ミスティアの背中と胸とを同時に切り裂いた。
ミスティアは冷たい汗が流れた。切り裂かれた傷が物理的に冷たい──ことにもだが、実のところはそこではない。
この見えない敵は私のことを殺そうと思えばいつでも殺せるのだ──ということに気付かされたからだ。
初手の一撃もおそらくは手加減されていた──。
そう思った瞬間、ミスティアは覚った。
私では敵わない、実力に差がありすぎる──と。
覚るが早いか思考は撤退から延命に切り替わった。
馬に気が付いた街に残る騎士団の同僚が、私を探し当ててくれるまでなんとか堪え切ってみせようと。
しかし敵は甘くなかった。
やはり馬を見逃したのは、ミスティアの意図するところなど承知のうえだったのだろう。
覚悟を決めたミスティアを嘲笑うかのように四方からの攻撃が開始された。
「グッ!! ガッ!!」
それは赤子を甚振るような攻撃だった。
見えない刃に避ける間もなく服を切り裂かれ、ミスティアの白い肌が露わになっていく。まるで、無垢な聖女に辱めを与えているかのように──。
ミスティアは深い傷だけに治癒魔法をかけていくが、十本とも二十本ともとれる見えない刃からの執拗な攻撃に、ついには治癒が追いつかなくなってしまった。
「ガァッ!!」
嬲られるように傷を増やされていく。
既に服は服としての用をなしておらず、露出した白い肌は鮮血に染まっていた。
「──ウグッ!!」
そしてミスティアは脇腹に深い傷を受けて、その場に座り込んでしまった。
「あぁ……」
ここにきて漸くミスティアは霞む視界に、凍てついた巨大な刃を見ることができた。
ミスティアの顔を恐怖一色に染めるために演出した最後の一太刀なのだろう。
しかしミスティアは感謝した。
「ノイ婆……ごめんなさい……さようなら……」
命が絶たれる前に大好きな祖母に別れを言えたことに。
死の恐怖に顔を歪ませることなく、騎士の矜持を保ったまま旅立てることに。
ぬらりと光る刃が目の前に迫ってくる。
そしてミスティアは……静かに目を閉じた──。
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