第38話 失いたくない想い


「イリノイさん!! ミスティアさん!!」


 僕は食堂の木戸をノックもせずに開いた。


「さっきの馬車の話で思い出したことが──ッ!?」


 息せき切って飛び込んだ食堂の中には


「イリノイさんッ!? ミスティアさんッ!?」


 ふたりの姿はなかった。


 僕が部屋に戻ってからそんなに時間は経っていないはずだけど、テーブルの上は綺麗に片づけられていて、さっきまで人がいた気配はまったくなかった。

 一瞬部屋を間違えたか──とも考えたけど、仄かに虹香茸の香りが漂う室内は、ついさっきまで僕が食事をしていた食堂に違いなかった。


「いったいどこへ──」


 食堂から戸を隔てて続きになっている厨房へ顔を出す。


「イリノイさん! ミスティアさん!」


 しかしそこにもふたりの姿はなかった。


 そのあと屋敷中をくまなく探しまわったが、湯浴み場と手洗いを含めてイリノイさんとミスティアさんの姿は影も形もなかった。


「そうだ、温室は──」


 僕は玄関で靴を履き、イリノイさんのお気に入りであるらしい温室へ急いだ。


 玄関を出て温室に向かう途中「馬がいるか見てみよう」と、本邸の脇にある馬小屋を覗くと馬がいなく、ミスティアさんが馬に乗って屋敷の外に出てしまった可能性も浮上した。


「こんな時間からどこへ──」


 考えてみるが、ミスティアさんの行動範囲など僕が知る由もない。とにかく温室へ行ってイリノイさんがいればミスティアさんの行き先を聞いてみよう、と駆け出した。




「イリノイさん! いますか!」


 昼間の日差し溢れる温室と違い、薄明かりが灯っているだけのガラス張りの部屋からは誰からの返事もない。


「イリノイさん! ミスティアさん!」


 再度呼びかる。けれど帰ってくるのはうわんうわんと室内に反響する僕の声だけだった。



「どうしてどこにもいないんだ! さっきまでふたりともいたのに!」


 苛立ち紛れに温室のドアを音を立てて閉める。 


「もう一度屋敷を探してみよう」


 時間が経過するごとに胸のざわつきが増してくる。

 僕は再び屋敷に戻った。





「イリノイさん! ミスティアさん! いないんですかッ!」


 しかしもう一度探した屋敷のどの部屋からもふたりの声は返ってこない。

 

「ああッ! もうッ!!」


 僕は覚悟を決めて、部屋に戻り外套を羽織った。


 少しでも思い過ごしだと思うのであれば、僕は布団を被って眠りに就いていただろう。

 しかし胸のもやは一向に晴れる様子がない。むしろ暗雲のように立ち込め、痛いくらいに僕の警戒心を急き立てる。

 

「なんだってんだよ! こんな感覚初めて──いや、違う……いつだったか感じたことがある」


 増していくざわつきの破片が、さっきまで部屋にひとりでいたとき、ふと思い出しかけたときのように、今また僕の記憶をかすめた。


 いつだ、いつだ、いつだ、僕はこの嫌な感じを経験している──


 記憶を遡り、それがいったい、いつどこで感じたものだったのかを必死に思いだし──


「あの晩だ!!」


 ナッシュガルまであと少し、という場所で野営をしていた夜。


 ひとり、馬車の中から焚き火にあたる家族を見ていたとき……馬の嘶きが聞こえて……あのとき感じた胸騒ぎと酷似している!


 そう気が付いたときには、僕は既にハーティス家の門を出て、暗い道を街の門に向かって走り出していた。






 ◆




 


「──どっちだ!?」


 門番のハングさんに借りた馬を駆りながらミスティアさんの行方を追う。

 頼りはミスティアさんに襲いかからんとする”嫌な感覚”だけだ。

 

「──こっちか!」


 僕はその感覚のする方に馬の頭を向けると、全速力で走らせた。



「──間に合ってくれ!」


 まだ、なにが起きているのか、なにが起きるのか、僕にはわからない。

 しかし僕の心に隙間が空き、そこに冷たい風が吹き込む予感を覚える。

 その感覚だけはたしかだ。


 僕を突き動かす本能からは『失ってなるものか』という強く激しい感情が込み上げてくる。



 お前は何のためにココにきた──。



 胸の一番深いところからなにかが湧きあがってくる。

 僕が持つ最古の記憶よりも更に古い記憶を知る、深層心理に眠る魂──。 



「──ぼ、僕は……ココに……」


 そして──疾走する馬上で僕の意識は遠ざかっていった。




 

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