1―3.古傷

 アンティーク・ベッドの枕元、フォト・フレームに男と2人のスナップ・ショット。やや細めの顔立ちと鋭い眼、焦茶色の髪と瞳、ロジャー・エドワーズが見たなら口笛の一つも鳴らさずにはおかない容貌がそこにある――ジャック・マーフィの生き写し。

 プライヴェート・ルームにある男の気配はそれ一つ。マリィ・ホワイトはそのフレームを手に顔を落として一言、

「行ってくるわ、エリック」

 柔らかな曲線を描く細面、流れ落ちる亜麻色の長い髪を掻き上げて、マリィはバッグを手に立ち上がる。細身ながらもパンツ・スーツの曲線に女を匂わせてその姿、足を居間の窓辺へ向けつつ眼を落とす。

 細い手首のアーミィ・ウォッチ、プレシジョンAM―35は、13時を指していた――そのベゼル左上には、刻みつけたような傷がいわくありげに残っている。

「〝アレックス〟、」マリィは窓外、雲を戴いたロンドンの街並みへ深緑色の瞳を向ける。「タクシーは?」

 アパートメント前の街路に、それらしいコミュータは見当たらない。

『もう1分もかかりません、マリィ』

 マリィのナヴィゲータ〝アレックス〟が、イアリングに仕込まれたスピーカに声を通す。

「そう、ありがと」

 カーテンを閉じて、マリィはアパートメントの部屋を出た。

 体裁だけはアンティークの鍵を締めて階段を下ると、軽い風に髪が舞った。見はからったように、無人の小型コミュータが4つ角を曲がって現れる。


『マリィ、』無人タクシーのスピーカを介して〝アレックス〟。『ミス・ローランドからコールです』

 マリィは口元に笑みを浮かべた。「繋いで」

『ハイ、お待ちかね。〝ヘレネ〟のお土産はもうちょっと我慢してね』

 タクシーのフロント・ウィンドウ、流れるロンドン市街の風景にアンナ・ローランドの顔が重なる。ショートの赤毛と空色の瞳――その背後に映るシートのロゴ〝パン・アトランタ〟と、愛想良く立ち回るアテンダントの姿から、今の居所は大気圏内機のキャビンと知れた。

「楽しみにしてるわ。こっちはいまタクシーでヒースロー……あら?」

 新たな情報ウィンドウがアンナの横に並ぶ。マリィは首を傾げた。拍子に落ちかかった前髪を掻き上げる。

『あ、そっちでも気付いた?』

 ウィンドウに現れたのはヒースロー空港の発着便予定。その中に並ぶ便名に、次々と〝到着遅れ〟のタグが立つ。

「何よこれ?」

 答えるように、ウィンドウがもう一つ――こちらはニュース専門局の速報チャンネル。経済指標やラグビーの途中経過が並ぶその上に、ひときわ目立つ見出しが明滅していた。

『軌道エレヴェータ〝アトランティス〟、宇宙港で事故発生』

 情報はそれきり、詳細はまだない。

「でもアンナ、そっちはもう〝パン・アトランタ〟でしょ? 宇宙港の事故って衛星軌道じゃ……」

『待って』アンナが身振りでマリィを制す。機内アナウンスに耳を傾け、『〝アトランティス〟へ専門医を運ぶそうよ。最優先だって。まあこれなら……』

 そこへ〝アレックス〟が割って入った。

『失礼、ミスタ・ホランドからコールです』

「デスクから?」マリィは眉をひそめる。察したかのように、画面の向こうでアンナが肩をすくめた。「いいわ〝アレックス〟、繋いで……はい」

『済まんな、ホワイト――ああローランドも。重要事項だ、ローランドは一旦外してくれるか』

 開口一番にして予感的中。

 ウィンドウ越しに顔を出したのは、ネットワーク・ニュース紙〝コスモポリタン・ニュース・ダイジェスト〟社会部デスク。万年ヒラ記者にしか見えない上司だが、容姿はこの際問題にならない。問題はその背後、編集部の光景――天地でもひっくり返ったような騒ぎ。マリィはそれが意味するところを知っていた。

「デスク――またですか?」

 白々しい声がせめてもの抵抗。ここ1年、このパターンで何度休暇を潰されたか知れない。

『せっかくの休暇だが』マリィの皮肉は耳に届きさえしたかどうか。デスクはあくまで平然と言ってのける。『仕事を頼む。緊急だ』


 軽やかなチャイムを伴い、眼前に浮かんでホログラム・ディスプレイ。ヒースロー空港待合室カフェ、カウンタに座るマリィはダージリン・ティのカップから眼を上げた。

 眼に映るのは最新版の到着便リスト。アンナを乗せた〝パン・アトランタ501便〟のロゴが最上段近くで明滅する――着陸までおよそ10分。マリィは手元のペーパ・バック型ディスプレイをしまって席を立つ。

 到着ゲートまでは100メートルばかり。迷子の自走バッグだのメモ片手の学生だのとすれ違いながら、マリィはふと外へ眼をやった。ロンドンに落ちかかる重い雲影に雨の予感。思わず彼女の足が止まった。

 〝あの時〟もこんな空だった――マリィの眼がふと遠くなる。それから眼を背けるように、彼女は再び歩を進めた。


 到着便ゲートの向こう側、押し寄せる人波の中にアンナの赤毛が覗いた。手を振るマリィ。気付いたアンナが、抱き合う親子の横を抜けてやってくる。

「ああ、安心したわ」辿り着いたアンナは親友の顔を見るなり、「思ったよりまともな顔してるじゃない」

 眉根に疑問符を描いたマリィが、ややあって口を尖らせる。「何よいきなり」

 言いながらアンナのトランクを曳いて歩き出す。

「覚えてないの、出発の時? 見送りのときのあんたの顔ったらなかったわよ。まるで葬式みたいだったもの」

「ああ……」思い当たったらしく、マリィは足を止めた。細面の顔を翳がよぎる。「ごめん。〝彼〟の時とダブっちゃって。心配だったのよ」

「まあ、あんなことがあったんだからね、無理もないわ」予想外の反応にアンナが慌てて言を継ぐ。「で、私としてはちゃんと憂さ晴らしやってるか気にもなるわけよ。どうあいつ、手玉に取ってやった?」

「やめてよ。あなたみたいに器用じゃないんだから」苦笑を一つ、マリィは肩をすくめてみせる。「幸い出張中。ここんとこ身の回りが静かで助かるわ」

「なによ、あいつも出張っちゃったの? せっかく私が留守にしてやったってのに?」

「ちょっと、」眼を細めるマリィ。「それじゃ何、私があんなのに引っかかってたほうがいいってわけ?」

「だから手玉に取っちゃえってのよ。大丈夫、あんたがその気になれば悪女にだってなれるんだから」

 悪魔めいた笑みを作って、アンナが指をひらつかせた。彼女の言を裏づけるかのように、すれ違いざまの男2人が口笛をマリィの背中へ投げかける。

「そういやデスクの言ってた件って?」

 不意に、マリィの足が止まる。「仕事。今に判るわよ――よかったら付き合ってくれる?」

 天に向かって、マリィは溜め息をついてみせた。


 待たされることしばし、2便ほど間を置いたところでゲートに男が現れた。

「……あれよ、仕事って」マリィの科白に、改めて溜め息が混じる。

「あれ?」背中越し、アンナは親指を男に向ける。ビリィ・コーウェン――折しも口に上らせたばかりの、2人の同僚。

 肯定の代わりにマリィは肩をすくめる。

「よかったわね、帰って来たわよ彼」

「……面白がってるでしょ、もう。助けてよ、けっこう大変なんだから」

 アンナはおどけて舌を出した。

「うん。で何よ、仕事ってあいつと漫才でもやれって?」

「やあ、出迎えお疲れさん」

 2人の姿を見付けたコーウェンが手を振る。少なくとも見栄えのしない男ではない。

「誰が出迎えよ」

 心外そうなアンナ。一方のマリィはあきらめ顔。

「……お帰り。相変わらず元気そうね」

「君に逢えると思えばね」

 キザな科白を、コーウェンは悪びれもせず言ってのける。慣れた者の口調ではあった。

「ノセたって何も出ないわよ」

「ホントのことだから仕方ない」

「悪いけど、」見物していたアンナが吹き出した。「そういうことは2人の時にやってくれる?」

 コーウェンは苦笑して肩をすくめる。マリィは感謝のしるしに手をひと振り、

「早いとこ仕事を済ませましょ。記事は?」

 返事も待たずにマリィはコーウェンのトランクを曳いて歩き出す。

「おいおい、あんまり急かさないでくれよ。こちとら高G船乗ってきたんでヘトヘトなんだ」

「仕事するのはこっち。デスクにせっつかれてるんだから、早く――私だってさっさと休暇に戻りたいんだから」

「休暇中?」コーウェンが、さすがにバツの悪そうな顔を見せた。「そりゃ悪かった。おわびに今度ごちそうするよ。〝洛陽〟の中華なんかどう?」

「遠慮するわ。どうせ下心溢れるお誘いでしょうから」振り向きもせず歩くマリィ。「仕事させてくれないんなら、デスクに断って休暇に戻るわよ――これはバス乗り場でいいわね?」

「解った――降参する。こいつだ」

 苦笑を一つ、両手を掲げたコーウェンは懐からデータ・クリスタルを大儀そうに取り出した。


 再び空港待合室、今度は3人連れで混雑気味のカフェに押しかける。運よく空くところだったテーブルを間一髪で占領し、早速マリィは仕事にかかる。手帳大の携帯端末にサングラスのデータ・ケーブルを、さらにグローヴ・インターフェイスとデータ・クリスタルの読み取り機を繋いで準備完了。サングラスから網膜に投影される仮想キィボードと仮想タッチ・パネルの、その感触をグローブ越しに確かめ、ハッキング防止に端末をネットワークから切り離して、マリィはコーウェンのクリスタルを読み取り機に押し込んだ。コーウェンの運んできた記事の草稿が眼に入る。

「これ、ほんと?」思わずマリィは声を洩らした。

 ――〝ミダス民政党〟、方針転換。資源統制法案支持へ――

「誓って事実さ。だから俺が飛んで来た」

「運んだだけのくせに」

 面白半分にアンナが茶化す。恨みがましさ一杯の視線をかわして彼女がマリィに眼をやると、何のことはない〝仕事の顔〟がそこにあった。

「まさか党首交替? あそこが?」

「らしい」何事もなかったかのようにコーウェンが、「形は引退ってことになるそうだ」

「資金不足で空中分解が関の山だわ」手は止めずにマリィが評する。

 〝ミダス民政党〟の拠り所が事実上、党首リー・ツォンの指導力というより〝集金力〟なのは周知の事実としてマリィの知識にもある。マリィは怪訝の色を眉に乗せた。

「解らないほど鈍くはないと思うけど」

「結構な後ろ楯が付くそうだよ。お膳立ては出来てるらしい」

「固定票を捨てるほどの?」口元へ運びかけたカップを止めて、アンナが眉をしかめた。

「それがどうも、身内のスキャンダルが出たらしいんだ――公表はされないがね。で、表沙汰になる前に隠居すると」

「――体のいい乗っ取りじゃない」アンナが眼を細める。

「まだそこまでは言えないさ」

 背後に座った客の、うさん臭げな視線をやり過ごしつつコーウェンが肩をすくめる。

「その件は後に回すとして、」マリィがコーウェンに眼を向けた。「ゴシップ紙の真似事やるの? 確かにスクープだけど容量足りないし」言って、マリィは指を走らせた。「だから細かい事情は切るわよ」

「デスクが何て言うかな?」

「要るなら次に回せばいいのよ」

 耳を貸さずにマリィは〝紙面〟のレイアウトを組んでいく。さすがに邪魔をするわけにもいかず、コーウェンはコーヒー・カップに手を伸ばした。

「――OK」

 その科白がマリィの口から出るまで20分弱。コーウェンの手元では、すでに3杯目のカップが底を見せていた。

「〝アレックス〟、デスクに繋いで」

 マリィの携帯端末から、ネットワークへの接続が回復する。ネットワーク・ニュースに組み込まれて配信まではおよそ10分、今からなら記事を盗まれたところで先を越されることはない。それでも規定の暗号変換は施して、マリィは紙面データを編集部へ送り出す。

 そこへ警告音。ハッキングを警戒していた矢先のこと、その場の誰もが相応の驚愕に表情を染めた。

『マリィ、最優先メッセージです』

 周囲の表情を見た〝アレックス〟が小型スピーカから説明を加える。それを聞いてひとまず安堵。と、そこでマリィが息を呑む。

「彼、だわ……!」口元を覆った指の隙間から歓喜の溜め息。「……生きてた……!」

 が、一瞬の後に表情が曇る。「……嘘……!」

「ちょっとマリィ、いったい何!?」表情の急変を見たアンナがマリィの肩を支える。「〝アレックス〟?」

「……エリックよ……」か細い涙声。「……間違いないわ……」

「見せてもらうわよ」自分の網膜投影機をマリィの端末に繋ぐ。マリィのかすかな頷きを確認して、「〝アレックス〟、お願い」

 そしてアンナも言葉を失った。

『マリィ、済まない』眼に映ったのはよく知った顔――どころではない。『もしこのメッセージが君に届いたら、その時は手の施しようがなくなってると思う』

 焦茶色の髪と瞳、やや細めの顔立ち。マリィが心を許した、たった一人の男の顔。

『俺のことは忘れてくれ……達者でな』

 死んだはずの男がそこに映っていた。エリック・ヘイワード――マリィが2年前にここで見送ったきり、演習で遺体も残さず吹き飛んだという〝彼〟が。

「……行かなきゃ……」

 震えるマリィの唇が、ごくかすかな呟きを紡いだ。

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