某大尉

安良巻祐介

 

 予定していた用事がなくなり、急に暇になってしまって、惰性のように同好会の部室へと足を向けた。

 同好会とは言っても、もはや私一人しか部員の居らぬ、来期には廃止決議にかけられる半死の会である。

 とはいえ言い訳として、部屋にはまだ住人がいる。会員でなく、学生でもなく、生者ですらないのだが、それでも。

「やあ遅かったね」

 留め具の錆びた木製の扉を力任せに押し開けるなり、右手の壁から声がかかった。

 そこには、小さな写真がピンで留められている――軍服の人物の肩から上を映した、白黒写真だ。

「久方ぶりだ」

 その人物が口を利いた。写真のその人が。

「大尉、また少し顔が崩れたんじゃないか」

 私は鞄を机に置きながら、返事を返した。

「来る者が減ったからね、仕方がない」

 写真の中の顔は、そう言って、ぐにゃりと少し顔の下の方を蠢かして見せた。笑ったらしい。前に来たときはまだその特徴的なカイゼル髭の形が判別できるくらいには整っていたのだが、今はもう、髭の黒が顔の地の白さと混じり合って、境界がわからなくなってしまっている。鼻や口の形も同様に、のっぺり溶けて判然としない。

「大尉の本当の顔を覚えているものが、そもそももういないものな」

 大尉、というのも、ぱっと出てくる適当な階級を、私が勝手に付けて読んでいるだけで、実際のところ画中の人物がいかなる所属でいかなる肩書なのか知らない。

「君は私を知る世代ではないからね。写真というのはそういう者のために人の姿を残す品のはずだが、生憎私は違う」

 写真がまた笑うと、顔はゆるく溶ける。溶けた部分は戻らない。こうして今やゆるやかに、この顔は顔でなくなるまで崩れていくのだろう。

「しかし今になって思えば、先輩方は凄かった。私と年齢は二、三しか違わないのに、大尉のことを知っていた」

「彼らは凄かったのではなく、呪われていたのだよ」

 そんなことを言いながら、加速度的にどんどん顔の輪郭が曖昧になっていく。この写真の相手をし、管理をするのが、この同好会の目的であり責務であった。

「大尉、じゃあ私も行くよ。さようなら」

 けれども、今はもういいのだ。

 部屋の隅の鏡に映り込む自分の頬に触れ、それが描きたての油絵を触った時のような、のっぺりした感触を伝えてくるのを確かめる。

 私の輪郭は、もっとふくよかではなかったか。

 鼻は、もう少しばかり高くなかったか。

 目は、鼻は。

 ……考えても、あまり意味がないのだろうけれど。

 私を最後に、この会は廃止され、そして、誰も見なくなったこの奇妙な一葉だけが、この部屋に永遠に残る。顔の潰れた人物の肖像が。――それは伝統の敗北かもしれない。

 すっかり顔の溶け崩れた軍人の、しかしそれでも、相変わらず笑っていることだけが何故かわかる写真をあとに残し、私は後ろ手にゆっくりと扉を閉めた。

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某大尉 安良巻祐介 @aramaki88

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