百合短編

古暮美月

さよならさんかく、またきてしかく。

 水晶玉のような水の粒が、可愛らしい音を立ててキノの黒髪から湯船に落下した。雫が水面にぶつかる音を「ぴちょん」と最初に言ったひとは言葉選びが上手だなあ、とぼんやり考える。

「さむくない? お湯、足そうか」

 少し心配になり、キノに問う。ぬるま湯をはった浴槽。そこから覗く膝小僧や肩は病的と言える程白く、骨ばっている。

「ううん、大丈夫。いい湯加減だよ」

 そう言うと、キノは気持ちよさそうに伸びをした。水の動く音。いつだったかキノが勧めてくれた雨音アプリの存在を思い出す。多種多様な雨音を聴くことが出来るスマホアプリで、テスト勉強の強い味方だった。集中力が上がるのだ。

「シロさん、寒くない? 大丈夫?」

「わたしは大丈夫。このセーター、カシミアなんだよ」

 ほら、と自慢げにセーターのタグを見せると、キノは「ほんとだ、あったかそう」と言って笑った。

 はだかで湯に浸かるキノと、浴槽のふちに座る服を着たわたし。なんだか不思議な光景。

「……あ」

 キノが、しまったという顔をする。彼女がこの顔をするときは大抵、どうでもいいことに気がついたときだ。

「どうしたの」

「本、一冊だけ返却忘れてた……」

「いいよ。わたしが返しておくよ」

「ありがと。……返却期限、過ぎちゃったなあ。一昨日までだったの」

「じゃあ閉館後にこっそり返却ポストに入れてくる」

「それがいいね」

 ふふ、と二人笑う。

ぴちょん。雫が再び、キノの髪から落ちた。

「――ねむくなってきた」

 キノが言う。穏やかな顔で。

「さむくない? お湯、足そうか」

 わたしは言う。声が震えていること、彼女は気づいていないだろうか。

「……ううん、大丈夫。いい湯加減だよ」

 キノは「にこにこ」なんて擬音が似合いそうな表情を見せた。ぎゅう、と胸が締め付けられる。

 大丈夫、という言葉は少し怖い。本当に心配しないで、と思って言うときもあるし、誰かに関わらないで欲しくて一人でいたくて言うときもある。

 きっとキノは、いつも、誰に対しても後者であった。

「ええと、何か忘れてる気がするんだ、私……」

「キノが忘れるようなことって、大概どうでもいいことでしょ。平気だよ」

「うーん、でも私、今は、アタマが、はたらいてないからなあ……」

「――忘れちゃいなよ。もう、いいんだよ」

 キノの細い腕をとる。傷だらけの腕。無数に引かれた線が血に滲んでいる。

「そう、そうだね。そうだった」

 つぶやくような声。キノの声を聞き逃さないように、床の膝をつき彼女の口元に顔を近づける。

「あは、キスでもしてみる?」

 キノが言う。時々、彼女は友人の境界線を越えるような発言をこぼす。

「馬鹿言わないでよ」

 軽く、撫でるようにでこピンすると、キノは「あたた」と痛がってみせた。

「でもね、冗談じゃないよ、私……」

「うん。わかってる、分かってるから」

 二人、引き寄せられるように手を繋いだ。恋人つなぎではない。手のひらを合わせて。

「ごめんね、変なこと言って」

「いいんだよ。キノはそれでいいんだよ、何も、間違ってないよ」

 繋いでいない方の手で、キノの額を撫でる。つめたい。ただでさえ白い顔が、血が抜けて病的に白くなっている。


「さむくない? お湯、足そうか」


 奥歯を噛みしめる。涙、お願いだから引っ込んで、もう少し我慢して頂戴、なんて念じながら。


「……あたま、ぼーっとする」


 浴槽はもう血の海だ。ゆっくり話せるように、と浅めに切ったが、想像より出血の速度は速かった。

 ぴちょん、ぴちょん。毛先から雫がおちる音。キノの涙が落ちる音。同じ水の音なのに、どうしてこうも悲しくなるのだろうか。

「私、間違ってるよね。分かってるんだ。私の人生も、その終わらせ方も、全部……」

「そんなこと、ないよ。キノはいつも正しいよ、頑張ってるよ」

「……ありがとう、シロさん」

 浴槽のふちに、キノが頭を預ける。

「少し、……眠るよ」

 声が狭い浴室に響く。悲しい音。夏の終わりの風鈴のような。

「シロさん、ありがとう」

 わたしは何も言わず、キノの柔らかい髪の毛を撫でる。言いたいことは沢山あったけれど、今はとにかく、謝ってばかりいる彼女が謝罪でなく、感謝の言葉を口にしたことが嬉しかった。そしてそれ以上に、空しかった。


「さむくない? お湯、足そうか」


 返事はない。意識はないようだが、息はある。

 キノはいつだって、寒い、つらい、悲しい、そんな言葉を発することはなかった。それはつまり、彼女は十八年間、浴槽でぐったりと命を溶かす今と同じ状態で生きてきたという訳で。

 弱みを他人に見せない彼女の強さと弱さを想うと、わたしはいつも髪を掻きむしりたくなる。怒りを自分にぶつければ良いのか、キノにぶつければ良いのか分からない。

 ただ一つだけ分かることは、キノは、さむくもない、あたたかくもない場所へいくということだ。

 首筋に触れる。彼女の時間は止まった。腕時計を確認する。午後二十三時四十二分。スマホに記録する。報告することになるだろうから、記録をつけておく。

 浴室の床にバスタオルを二枚敷いた。柔軟剤をたっぷり使った、洗い立ての、猫柄と小花柄のバスタオル。キノのお気に入りだった。

 セーターの裾を捲し上げ、彼女を浴槽から出し、バスタオルの上へ寝かせる。新しくタオルを出し、優しく拭いてやると、白いタオルが赤に色づいた。

頭は働かない。ただ、とにかく彼女を綺麗にしてやって、暖かい服を着せてやりたいと思った。水を吸うと重くなるから、という彼女の気遣いが、寂しかった。

 キノに服を着せたら、警察に自首する。

自殺扶助は殺人罪と同じだ。わたしは裁かれることになる。わたしは死ぬまで、人殺しだ。

 優しい彼女はわたしに沢山のものを惜しげもなく与えてくれた。友情、恋愛感情、幸福、どれも優しい気持ちになる、純粋であたたかいものばかりで、邪な感情はなかった。

 最期まで、キノは彼女の地獄をわたしに見せてくれることはなかった。彼女の身体を救う負の感情を、わたしに分け当てはくれなかった。それが酷く、悲しい。悔しい。

 ――せめて、わたしは彼女の罪を攫っていくのだ。一人で死ねなかった弱虫な彼女の、他人に犯罪を犯させた罪を、わたしは彼女から奪う。彼女を一人で逝かせた罪、彼女の寂寥と自身の命を天秤にかけ彼女を選ばなかったわたしの罪は、彼女に渡さない。だって、彼女は地獄を抱えて身勝手に死んでいったのだ。わたしだって、わたしの地獄は渡さない。


「ひとりで死んでくれて、ありがとう」


 呟いた言葉に返事はない。

 冷たく固くなった彼女の目元から、一筋、赤い雫が垂れた。

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