二〇二三年一〇月一一日(火)
涼しいというよりは、若干肌寒い朝の美術室。
そこで整理出来ない頭のまま、とうに完成している筈の絵に、また青い絵具を重ねていく。
まるでよく溶いていない顔料を頭の中に流し込んだかの様に、思考は足を取られ、いつまでもまとまりを見せる事はなかった。
気付くとパソコンを開いて星や銀河の画像を調べたり、夜になると空をぼうっと眺めていたり、寝れば毎日の様にあの球体の中の景色を夢に見た。
きっと本当の宇宙はあんなものではないのだろう。
もっと恐ろしくて、もっと孤独で、もっと混沌としたものかもしれない。
そんな事を考える度、重ねる色は少しずつ濃さを増していった。
やっと見つけた新しい世界へ飛び込んで行きたいという欲求が増す一方、それを追い求める事への不安も又、尽きる事無く溢れ続けた。
そういった感情と思考に苛まれながらも、徐々に色濃くなっていく目の前の絵が、自分に何かを訴えかけているような気がした。
一つ溜息をついて筆を置く。
背景の青が濃くなるにつれ、初老の男の表情もすっかり判別が困難になっていた。こんなに暗い海の中では、膝の上の本もさぞ読み辛いだろう。
「ちょっと見てもいい?」
筆を置いた事に気付いたのか、上永が尋ねて来る。
上永は前回たまたま早朝に来て以来、度々朝の美術室に顔を出すようになっていた。
「最早見せる様なものでもないけどね」
そう言って席を立って、軽く伸びをした。
どうせ今朝の苦行はこれで終わりだ。これ以上は描く気も起きないし、無理して続ければ、絵が真っ黒になりかねない。
「随分色が濃くなったね」
「もう表情も判別出来ないし、いっそこれはやめて、一から描き直そうかな」
「え? 勿体ないよ。せっかくここまで絵にも厚みが出たのに。
それに私はこの絵、良いと思うけど……。
前の澄んだ海も良かったけど、こっちはもっと何か……ただ穏やかとか綺麗とかじゃない、お爺さんの心情が表れてる、みたいな……。
うまく言えないけど、これも
「……」
上永からそう言われて、改めて自分の作品を眺めてみる。
ただ苦行の様に色を重ねていただけだったから気付かなかったけれど、言われてみれば確かに以前とは色だけでなく雰囲気も大分異なる絵になっていた。
前は幾筋もの光が海中に降り注ぎ、全体が淡いコバルトブルーで覆われた穏やかな色調だったけれど、今はコバルトブルーディープの深く沈んだ色に、降り注ぐ光も儚く、俯き加減で表情も判然としない初老の男からは、何か沈痛な印象を受ける。
この絵が自分にとってあの絵を超えるものなのかは分からない。けれどこの絵を前にしても、もうあの廊下にイーゼルを立てている錯覚には――襲われなくなっていた。
「上永の言う通り、これはこれで良いのかもしれない」
気を取り直して椅子に座り直し、再び絵に向かい合う。
上永のお陰で少し気は晴れたものの、頭の中は依然として霞がかったようにすっきりとはいかなかった。
確かにこれは、今まで自分が描いていた海とは違うものだ。
けれどそれはあくまで悩んでいるものがそのまま絵に表れたに過ぎない。
それによって海が描けるようになったとしても、結局この気持ちに答えを出さない限り、霞が晴れる事はないのだと、頭のどこかで理解していた。
◇
すっかり日が落ちるのが早くなり、まだ四時前にも拘わらず、心なしか朱みを帯びた光が校庭を照らしている。
その光の中を走り回る姿を、西の端にある人通りの少ない階段の踊り場から、見るとはなしに眺めていた。
先週、上永の言葉に背中を押される様にして、すっきりしない頭で何とか作品を仕上げたものの、新しいキャンバスを前にしても、真っ白なキャンバスはいつまで経っても真っ白なままだった。
それで結局今日は部活を休んで、こうして何をするでもなくふらふらしていた。
何か新しく始められればいいんだけれど、二年の二学期から新しい部活に入る気も起きない。
気晴らしの方法でもあれまた絵に集中出来るかもと思ったのだが、よく考えてみれば気晴らし——というか自由な時間は今までずっと、絵と読書にしか費やして来なかった。
こうして客観的に見直してみると、つくづく自分がつまらない人間に思えて来る。
そして同時に彼女——
だからと言って一人で買い物に出る気にもならず、気晴らしする方法も見つからないまま、図書館で見慣れない本を手に取ってみたり、こうして校庭の部活動風景をを眺めたりしていた。
そんな中に陸上部の練習風景が目に留まった。
その一角、高跳びの練習をしている中に、枳殻と思しきセミロングの女子の姿を見かけた。
彼女の身長は決して高くないが、遠目からだと、その身の丈程もあろうかというバーめがけて、まさに今向かって行くところだった。
綺麗な弧を描き捻りながら跳んだ体は、しかしバーと共にマットへと落下していく。
彼女が起き上がりバーを直すと、今度は別の生徒が跳び、今度は見事に越えていった。
そこまで見ると踵を返して、下駄箱へと重い体を引きずっていく。
仕方ないので家で菓子作りにでも挑戦しようかと思いつつ、特別棟の下駄箱を出る。グラウンドの端を横切りながら家にお菓子作りの本があったか記憶を辿っていると、
「先輩!」
――後ろから背中を叩かれた。
「やっぱり先輩だったんですね! 美術部の帰りですか?」
高跳びの練習場所は校庭の反対側だった筈だが、何故か彼女は軽く息の上がった状態で目の前に立っていた。
「いや、今日の部活は休んだよ。気晴らしに図書室に寄っててね」
まさか当て所なく校内を彷徨っていたとは言いづらく、図書室にずっといた事にする。
「枳殻さんこそ部活だったんじゃないの?」
ばつが悪くて早々に話題を切り替える。
「なんか今日調子悪くて……ペナルティで走らされてます」
こちらもばつが悪そうに照れ笑いを浮かべる。
「ところで先輩は今から帰りですか?」
「うん、まあそうだけど」
「じゃあ先輩、この後一緒に帰りませんか?」
話が変わったと思ったら急にそんな提案をされた。
「今部活中じゃないの? ペナルティで走らされてるんでしょ?」
「ランニングはもう終わります! それにこれが終われば今日は上がりですから!」
鼻息荒く——ではないが随分と力が入った答えが返ってくる。
「じゃあまあ、終わりだって言うなら一緒に帰ろうか」
急にずいとにじり寄られ思わず少し引き気味に答えてしまう。
……上がりの時間にしては早過ぎる気もするが。
まあ別に急いでいる訳でもないし当人が上がりだと言うのだから、お誘いを素直に受ける事にする。
「やった! じゃあ正門の所で待ってて下さい。着替えてすぐ行きますから!」
そう言うが早いか彼女は猛然とダッシュして行き、さっき一緒に跳んでいたらしい子に対し、何か熱心に話し掛けていた。自主早退の口裏合わせでもしているのかもしれない。
それを内心微笑ましく思いながら、正門に向かって再び歩き出す。
どうも僕はあの強引な性格にいつも押し切られてばかりな気がする。けれど何故かそれを不快に感じていない自分がいる。
それに彼女と話していると、知らずこっちまでいつもより饒舌になっている。
きっとこれも彼女の持つ人間的な魅力なのだろう。そこも少し、羨ましく思う。
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