二〇二三年一〇月八日(土)
ここ一週間程の間に、肌に当たる風は冷気をはらみ、道行く人々の服装を急速に様変わりさせていた。
ふと駅の外に目を向けると、秋晴れの下街の色が黄色や緑等の明るい色彩から茶色や橙等の落ち着いたものへと変化している事に気付く。
そんな陽気の中、改札横で所在なさげに人を待っていた。
気乗りはしなかった。押し切られたというのが正直なところだ。
けれど待ち人――
あの後彼女に、『学校じゃ先輩に私の事知って貰う機会なんて殆どないですもんね?』等と言われ、結局学外で会う約束を取り付けられてしまった。
人と一緒に出掛けたりというのはあまり経験がなくて少々苦手だったけれど、あの後彼女に言われた通り僕は少し根を詰め過ぎなのかもしれない。
そういう意味では、彼女みたいなタイプに引っ張り回されるのも息抜きになる……かもしれない。
今日は母親に後輩の女の子と出掛けると言ったら、一時間も前に家を追い出されてしまった。
結果——待ち合わせ場所に早く着いたのはいいが、駅の時計は約束の時間までまだ40分以上ある事を告げていて、仕方なく鞄の中の本を取り出し、改札横の柱に寄り掛って読み始めた。
そうして四章も読み進んだかという頃、彼女のものと思しき茶色がかったセミロングの髪が目の端に映り込んだ。
「先輩! お待たせしちゃいましたか?」
軽く息をつきながら本の横から見上げて来る彼女を確認した後、即答せず駅の時計へと目をやりつつ頭の中で思案する。
「いや、さっき来たばかりだよ」
時刻は九時四十五分を回ったところ。待ち合わせ時間まで十五分もあるのだから、気を遣わせるのも悪いだろう。そう思いつつ、本を鞄に仕舞った。
「じゃあ、行こうか」
◇
午前中は近くのターミナル駅に移動した後、彼女に思うさま引っ張り回された。
彼女が好きだというキャラクターのグッズショップやファッションビル、それに女子が好きそうな小物の店——。
彼女は先週の告白通り、僕に枳殻美佳という人間を知って貰うべく、あらゆる話をしてきた。
休日の過ごし方や食べ物の好み、中学時代にソフトボール部で二年から陸上部に移った事。
彼女自身の話を聞く度、自分とは全く違う生き方がある事を改めて知る。
その余りにもかけ離れた生活スタイルに、自分の生き方に若干の疑問を感じた程だった。
「先輩、悩み事ですか?」
少し遅めの昼食を終え、ドリンクバーのコーヒーを飲んでいると、急に彼女からそんな言葉が飛んで来た。
「ごめん、そんなにぼーっとしてたかな」
「いえ、そうじゃないですけど——。先輩たまに何となく辛そうな目、してるから……」
そんな目をしていただろうか。あまり自覚がない。
「いや、別に何でもないよ」
それでも彼女は納得しない様子で、
「今日のデート、やっぱり気晴らしになりませんか?」
と尋ねてくる。そんなに僕はつまらなそうにしていただろうか。
「ちゃんと気晴らしはさせて貰ってるよ。デートをしたつもりはないけど。
一人じゃこっちにはあんまり来ないからね。
ただ、後輩に気を遣わせているようで、悪い気はするけど」
すると今度は可笑しそうにクスッと笑って、
「先輩って、損な性格してますね」
と、返してくる。
「それ、母親にも前に言われたよ」
会って数日の彼女にまで言われるのだから相当だ。
「それでこの後はどこか行きたいところはあるの?」
気を取り直して、午後の予定に話題を持っていく。
「電車で少し行ったところに、今年出来た宇宙科学博物館があるんですよ。
無重力体験とかも出来るらしいですから、そこに行ってみませんか?」
「了解。じゃあそろそろ行こうか」
そう言うとカップを傾け茶色い液体がなくなると、荷物をまとめて立ち上がる。
気乗りしない外出ではあったけれど、今は思っていたより悪くないと感じていた。
彼女に連れられるまま混雑する電車に乗り込み、小さな窓から外を眺めていると、不意に遠くで海が見えた。
その遠くに映る大きな水溜りを目に写しながら、海を久しく見ていなかった事にふと気が付いた。
そして知らず、意識は自身の体を置き去りにして、職員室前の廊下へと吸い寄せられていく。
目に写る実際の海と、意識に映る偽りの海——。
その重たい思考はさっきまでの気分もろとも、深い海に沈むように徐々にまとまりを失い、思考とは呼べないものになっていった。
◇
電車を降りて二人でスマホと案内板を見比べながら博物館――というより最早テーマパークのようだが――を探して歩き出す。
少し駅から離れていたけれど、緑も多く落ち着いた雰囲気で、思った程時間を感じなかった。
しばらく行くと遠くに目的の建物が見え、近づくに連れて周りにある美術館や博物館と一線を画す独特な雰囲気を持ちながら、徐々にその全体像を露わにしていった。
そこは、最近の民間宇宙事業の急速な発展に伴い、将来の宇宙技術者候補に少しでも興味を持って貰おうと今年初めに出来たものらしかった。
かなりの規模でありながら完全屋内で、外観も流線型等を多用した近未来的な造りをしている。
館内は白を基調とした造りに随所に近未来的な装飾が施され、通路と展示物の周りだけが明るく照らされていた。
しかし一見薄暗く見える館内も、観客の熱気とアトラクションの存在感が、陰気な雰囲気になる事を許さなかった。
「先輩! これってテレビとかでたまに見る体固定してぐるぐる回すやつですよね? 後でやりに行きましょ」
中に入るや否や彼女も他の観客同様、様々な体験ブースに興味津々といった様子で、目に熱を灯していた。
様々なアトラクションや展示物を眺めたり体験したりしながらしばらく散策すると、中でも一際長い列を作っているアトラクションの前を通りがかった。
それは直径10メートル程のドームに筒状の通路が二本ついたもので、それが連なるように2つ並んでいた。
どうやらその筒が出入口になっており、入口で特殊なスーツを着てドームの中で無重力体験が出来るというものらしかった。
正直多少の興味はあったが、あの行列に並ぶ気にはなれなかった。
「あれは相当並びそうだし、次行こうか」
「え? でも面白そうじゃないですか! 乗ってみましょうよ! 待ち時間も三十分程って書いてありますし」
彼女に強引に引っ張られ、結局長蛇の尻尾に自分達も加わる。
ドームの側面にはモニターが付いていて、中の様子が映し出されていた。
中の人はまるで本当の宇宙服のようなごわごわしたスーツを着て、本当に浮いているようだ。詳細はカメラでは分からないが、じたばたと手足を振り回すその動きは、同じ装いをしていてもテレビや映画で見る船外活動中の隊員とは似ても似つかない姿だった。
彼女は面白そうですねー等と言うのだが、あの映像を見る限り、三分という短い体験時間の中では、楽しむ前に終わってしまうのではないかと思えた。
かなり待たされたがようやく僕達の番が近付き、前のグループが通路の奥へと入っていく。
このアトラクションでは十人前後で1グループに区切られ、前のグループがドームの中でアトラクションを体験している間に次のグループがスーツを着用するという流れになっていた。
そしてまた順番が進み、通路へと通された。
そこで上と下、各々数サイズある中から自分に合うスーツを着用する。見た目とは裏腹に着用は容易に出来るよう工夫されていて、着用補助のスタッフがいたけれど、特に一人で着るのに苦労はなかった。
「なんか本物の宇宙飛行士っぽくないですか? 私」
僕よりも早くスーツを着終えた彼女が、腰に手を当てて自慢げに言う。
「本物の船外服を着た状態じゃ、そんなポーズはとれないと思うけどね」
「言ってみただけですよ」
僕の反応に少し口を尖らせる。
しばらくして音声に促され、扉から更に奥へと入って行くと、アトラクションのメインであるドームの中に出た。
部屋は実際球形で下半分は地面に埋め込んだ造りになっていたようだ。
注意事項のアナウンスを聞きつつ球体の部屋の底面周辺に思い思いに陣取る。
モニターでは確認できなかったが、始まると球体の壁面に星の映像が映し出され、それを目のシールドが立体的に見せる事で本当に宇宙空間にいるかのような体験が出来るというのがこのアトラクションの売りだったようだ。
「なんかわくわくしますね」
隣ではシールドで表情が読み取れなくてもわくわくしているのが分かる程、彼女が興奮気味の声を上げていた。
説明が終わると『では、いってらっしゃい』という声の後、照明が落ちて周りから低い音が聞こえ始めた。段々と足に掛かる重さが減り、最後には足を地面につけていることが出来なくなった。
それと同時に勝手に頭が下がり逆立ちを始めてしまう。
しかもそのまま完全に無重力になるため、この部屋の形も相まって上下の間隔が不明瞭になる。
彼女や他の参加者も先程の映像同様、何とか重力のあった時と同じ様に自分の体の向きを変えようと手足をじたばたさせていたが、うまく行っているようには見えなかった。
やはり映像で見た通り自力で何とかするのは無理な様なので、最初から諦めて仰向けになったつもりで力を抜いて上を見上げた。
――そこには、自分の求める”何か”があった。
まるで永遠に続く深い穴を覗き込んでいるかの様な空に、無数の白い点が散りばめられ、それらが視界の端から端までを埋め尽くしている。
その中で力を抜いて、無限に沈むベッドに埋もれる様にして
寝ている訳でもないのに、この夢から覚めないのではないかという若干の不安と、けれどこの心地良さに身を任せてしまいたいという麻薬の様な誘惑が同時に襲ってくる。
その白い点一つ一つは砂粒のように小さいのに、全てが地球より遥かに大きな星の集まりで――。
そんな新しい世界で何も出来ず仰向けになって漂っていると、まるで自分の心が生まれ変わっていくようだった。
そうして不思議な気持ちに包まれたまま、気が付くと家の台所で夕食の支度をしていた。
その後も思い出そうとしたけれど、結局ドームの後の事は靄がかかった様にはっきりとは思い出せなかった。
彼女と何を話したのかも、その後何を見て、どうやって帰って来たのかも。
ただあのドームの中の出来事だけが頭の中を埋め尽くし、まるで今目の前にある台所の景色の方が夢であるかのように、今度は逆にリアルな感触として残っていた。
——もしかしたら僕はあの瞬間に本当に生まれ直したのかもしれない。
そんなおとぎ話みたいな事を半ば本気で考えながら、リアリティのない腕を動かして今出来上がったばかりの味噌汁を味見の為に口へと運んだ。
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