二〇二三年九月二八日(木)—下

 結局あの後、気分こそ乗らないが色を重ね、全く喜ばしくはないが絵はほぼ完成を見た。

 後は放課後、絵具が乾いたのを確認したら、最後の仕上げをして終りというところまで進み、朝の苦行は終了した。

 その後上永と少しだけ喋り、お互い読書をしてから始業十分前に余裕を持って教室の席へと辿り着く。

 今日は彼女と一緒だったので遅刻の心配はないだろうと、鞄を教室まで運ばなかったので、職員室は一度通るだけで済んだ。


 鞄を開けて中身を机に仕舞おうとすると、教科書の先が紙に触れる感触と、それが皺になる感触が机の中から伝わって来た。

 昨日のプリントを持ち帰るのを忘れたかと思い、机の中に今度は手を入れてみると、中には見覚えのない便箋封筒が入っていた。

 表には【早寧秋史さねいあきふみ様】と書いてあり、どうやら間違えて入ったものではないらしい。

 封を開けて中を確認すると、中は高校生の趣味にしては少々渋い飴色の地に、藤袴が描かれた便箋に短く『放課後、クラス棟屋上にてお待ちしています』とだけ書かれていた。

 手紙を元の封に戻しながら短い溜息がつい漏れてまう。


 過去にも一度、こういう事があった。

 あれは美術部の一つ上の先輩で、けど当時からそういう事に全く興味が無かった僕は、部室でも殆どキャンバスしか目に入っておらず、呼び出された先でその人に会っても、部活の先輩だと暫く気付かなかった程だった。

 結局その申し出を断った後、先輩は一度も顔を見せずに部活を辞めてしまい、僕にとっては名前も思い出せない些細な記憶と成り果てていた——。


 正直こういうものを煩わしいと感じてしまう。けれど流石に無視するのも忍びなく、今回も重い足を引きずって言われた場所へと赴く事になる。

 また今回も同じ——相手の勇気に敬意を払い、受け取った者の責務を果たすだけだ。

 そこまで考えると鞄の奥底へと、貰った手紙を仕舞い込んだ。


               ◇


放課後になり美術室に鞄だけを置くと、指定されたクラス棟屋上で遠目に見える海を牢獄のような柵の隙間から眺めつつ、パックに残ったコーヒー牛乳を飲み終える。


 この学校は主に一・二年の教室がある通称クラス棟と、三年教室と特別教室がある通称特別棟の二棟から成っている。クラス棟は北側四階建、特別棟は南側三階建。元から小高い丘の上という立地な上、屋上からは海まで見通せる眺望の良さで、かつては人気スポットだった事だろう。

 けど数年前に事故か自殺かあったらしく、一度は両棟共屋上への立ち入りが禁止となった。

 しかし生徒側から解禁の要望が相次ぎ、また学校側も入学者の減少を危惧したらしく、結局解禁となった。

 けれど解禁されてみると、元々あった胸元までの柵の外側に新たに3メートルもあろうかという無骨な鉄柵が増設され、視界を殆ど遮っていた。更にご丁寧に、上端には有刺鉄線までついている徹底ぶりだった。

 この牢獄のような柵が出来て以来ここは人気を失くし、昼食スポットとしての役割も終え、今ではたまに昼休みに男子が遊び場にしている程度だった。


 そんな場所で手持無沙汰に内側の手すりに腕を乗せ、寄りかかりながらぼんやりしていると、後ろで扉の軋む音がした。

「あ、あの……早寧先輩?」

 声の主が待ち人であると確信してから振り返る。

 そこには昨日帰りに見かけた子が、こちらを向いたり下を向いたりしていた。

「えっと、君は昨日も会ったけど……、この間の美化活動で一緒だった子、だよね? 名前はえっと……」

 すると少しだけほっとした表情を見せ、彷徨っていた視線をこちらに合わせる。

「はい、私一年で陸上部の枳殻美佳からたちみかっていいます」

「そっか、ごめん。……それで枳殻さんは、僕に何か用かな?」

 こんな所にあんな手紙で呼び出されているのだ。要件など一つしかないだろうけれど、他に聞き方も思いつかなかった。

「あ……えっと、その……」

 すると彼女は再び視線を泳がせる。言い方が悪かっただろうか。

 彼女は少しあたふたしていたが、一度大きく深呼吸して覚悟を決めたようだった。


「早寧先輩の事が、好き……なんです」

 予想通りの内容。けれど同時に、少し驚いてもいた。

「いきなり……だね。君と話したのって、あの時一度だけだったと思うけど」

 すると今度は急に顔を赤らめ、下を向いてしまった。

 どうも僕は今まで会話の訓練を怠り過ぎて、言葉の選び方がいちいち悪いらしい。僕が声を掛ける度、段々と彼女が小さくなっていくような気がする。

 流石に悪いと思い何か声を掛けようとしたが、それより先に彼女が口を開いた。

「えっと……。最初は、夏休みの練習でたまたま先輩の絵を見たのがきっかけで……。

その絵にすごく——惹きつけられたんです。

 そうしたらどうしても描いた人の事……知りたくなって。

 二学期が始まって、全校集会で先輩の事紹介されてたけど、遠くて全然見えなくて……だから自分で探したんです。

——最初はただ憧れてただけだって、思ってたんです。あんな素敵な絵が私にも描けたらなぁって。

 だから放課後にあの絵を見て、描いた人の事を知れれば、それで満足できるって思ってたんです。

 けど気付いたら学校ではいつも先輩を探して……見かけたらそれだけで一日幸せで……。どんどん先輩の事、好きになって……。

 だから美化活動の時、勇気を出して同じ班にして貰ったんです。先輩ちょうど一人だったし……。

 あの日は半日先輩と一緒にいられて、夢見てるみたいで——。

 そうしたらもう、目の端で追うだけじゃ、我慢出来ないって思って……」

 下を向いて消え入りそうになりながらも、自分の気持ちを正直にぶつけて来る彼女に、尊敬と共に若干の後ろめたさが心をよぎる。

 顔を真っ赤にして懸命にぶつかって来る彼女に、僕はどう対応するのが正しいのだろうか。

「それで思い切って告白……か」

 今思えばあの時の先輩も、見えなかっただけで同じように必死だったのだろう。

 それが見えていれば、記憶に残らない程素っ気なく断ったりはしなかったかもしれない。

「別に……今すぐ恋人になって欲しいとか、そういうのじゃ……ないんです。

 普通に先輩後輩として話してくれる機会があれば、今はそれだけで……。

 ただ先輩に私の事を知って貰いたいんです。その上でいつかもう一度、答えを聞かせて欲しいんです」

 そこまで話すと力が抜けたのか少しふらついた。余程気を張っていたのだろう。

それでも彼女の顔には満足気な表情が垣間見えた。

 

 ——彼女の話は聞いた。

 今までと同じであればこの告白に定型文のようなお断りの言葉を並べて立ち去って、それで彼女との関係は終わりだった。

 けれど今回は無下に断る気になれなかった。

 彼女の必死さに多少なりとも心を動かされたし、何より自分の絵に惹かれると言った事がどうしても気になった。

 それにそもそも、ただ普通に先輩後輩として話したいと言っているのだから、断るのもなんだか変な気もする。

 今までならこんな面倒になりそうな事、すぐ断っていた筈だけれど。

「うーん……。

 まあ、恋人じゃなくて後輩――友人としてって事なら……」

 らしくない言葉だと自覚しつつ、何故そんな言葉を口にしているのかとぼんやり考えてしまう。

「ほ、本当ですか?」

 彼女は心底信じられないというように、けれど隠しようもない程嬉しそうにこちらに子犬のような瞳を向ける。

 きっと尻尾がついていたなら、ちぎれんばかりに振り回していたに違いない。

「まあ友人になりたいっていうならそれを断るのも変だし……。

 変に期待をされても困るけどね」

 一応釘を刺しておくつもりで一言付け加えたが、今の彼女にはあまり効果はないかもしれない。

 そんな気持ちを知ってか知らずか、彼女は苦笑しながらそれでも相変わらず隠しようのない喜びを体中で表していた。


 ようやく少し落ち着いたのか、扉の前で地面に根が生えたように動かなかった彼女が柵の方へやって来た。その彼女に無駄だと知りつつ、つい聞いてしまう。

「枳殻さんは僕の絵を見たのがきっかけだって言ってたけど、あの絵は……どうだった?」


――もしかしたらあの絵に、内面的な魅力を感じたのかもしれない。


 諦めたつもりでも、まだそんな僅かな期待を持っている自分が嫌になる。

「自分で描いたから言える事だけど、あれは良く言って”上手な絵”程度のものだ。あれにそんな魅力があるなんて、随分な過大評価だと思ってね」


 こんな事を繰り返しても、何も得るものはないと分かっているのに——。


 まるで自分自身への当てつけのように、絵への酷評を並べる。

 けれど彼女はそんな酷評に、首をぶんぶん振って答えた。

「いいえ、あれは上手なだけの絵なんかじゃないです! 私はあの絵に出会って自分が人間的に成長しているのを感じられました。

 それに実際先輩は、あの絵で感じた通りの人でしたから……」

「あの絵の通りの人……?」

 絵の評価を通り越して僕自身の人柄についてまで話が及んだ事に、若干驚く。

「はい。何て言うか……”許す人”ですかね?」

 自分の絵——というより自分自身にだが——に対する評価としては、聞いた事もない感想だった。

「あの鳥からは”諦め”とか”許容”ていう言葉を連想しちゃうんです。

 他の鳥達が空を自由に飛ぶ中で、あの二羽だけが、あの重い水の中を飛ぶ事を敢えて選んでいるような……。

 なんだか知ったような事言って、ちょっと恥ずかしいですけど」

 そう言って照れ笑いを浮かべながら頭を掻く彼女を見ながら、喜ぶべき所なのだろうけど困惑が先に立ってしまう。


 あの絵の事を他人から褒められた事はたくさんあった。

 けれど教師陣から学展の審査員に至るまで、並ぶ賛辞はいつも綺麗だとか透明感があるとか、そう言った技術的な事ばかりだった。

 受賞した時は素直に嬉しかったけれど、最優秀賞者に対する審査員の『思わず足を止めてしまう、真に迫る絵だ』という評価が耳に残って、徐々に賛辞を受ける事よりもその内容が気になるようになった。

 そうして分かったのは、この絵を褒める人は揃って技術の高さだけを褒める、という事だった。

 それ以降、自分の絵——ひいては自分自身に内面的魅力が欠けているのだと悟り、それにも重なって、海が次第に描けなくなっていった。

 けれどそう思っていたあの絵に、彼女は初めて違う価値を見出してくれた。

「僕はあの絵が嫌いだったんだ。空っぽで味気がなくて、それがまるで自分を映し出しているみたいで」

 すると彼女は驚いた顔をして、

「あんな素敵な絵を描ける人が、そんな事考えたりするんですね」

 そう言って、僕の不安を笑い飛ばしてしまった。

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