二〇二三年九月二八日(木)—上
通学途中、塀の上を歩く親子の猫を見た。鳴きまねをして後ろの子猫に近づいて、つぶらな瞳を愛でた。
それだけでもお父さんの朝のドタバタに巻き込まれて、一緒に早起きさせられた不機嫌さを帳消しにするには十分だった。
七時半になろうかという時間、校庭ではようやく朝練を始めたばかりの部活が一つ二つある程度で、本来の活気には程遠い穏やか——というよりは少し寂しげな校舎に迎えられ、私は再び足を進めた。
今日はせっかく早起きしたのだから、一人で集中して作品を進めるつもりだった。
そう意気込んで職員室までやって来たのに、肝心の鍵はそこにはかかっていなかった。
――こんな早くに誰か部室に?
そんな事、あるんだろうか。まだ朝の七時半、運動部だってまばらな時間なのに。
不思議に思いながらも回れ右して職員室を後にすると、その足で美術室を目指す。
前までやって来ておそるおそる中を覗き込むと、確かに誰かいるようだった。
部屋の奥で少し分かり難いその人影は、キャンバスを前に、筆を走らせるでもなく、ただ外の雲を眺めていた。
「
驚きのあまりさっきまでの意気込みはどこへやら、一体何を話せばいいのかと、喜んだり慌てたりし始めてしまう。
けれどそれもすぐ我に返ると、舞い上がっていた気持ちは朝の目覚めの瞬間を凌ぐ勢いで沈んでいった。
――彼は、誰かを特別な目で見る事はなかった。
一年の時から美術部員同士、油絵描き同士で話す機会も多かったけれど、これまでの一年半、彼との距離が出会った頃より縮まったという実感を持てた事はなかった。
彼は初めて会った時から”画家”だった——。
入学当初、彼は市内の小さなコンクールで一度の入賞経験を持つだけで、特段注目を集めるような生徒ではなかった。
けれど入学後の彼の進歩は目覚ましく、やる気のない周りを尻目に美術室にある画集を読み漁り、一部の真面目な先輩達からは貪欲に技術を吸収した。
特に顧問の亀井先生から指導を受けるようになってからは、彼の絵は一枚一枚、目に見えて上達していった。
その無表情で冷たそうな雰囲気とは裏腹な情熱に、隣で憧れを抱いていた私は、一年の梅雨が明ける頃には彼への想いを自覚するようになっていた。
しかし彼の一番になりたいと思う一方で、彼の絵との時間を邪魔したくない、という気持ちも強かった。
――いや、自分の気持ちを偽らず認識するなら私は……逃げているのだ。
何より絵を優先する彼は、それ以外に煩わされる事を嫌う。
口にこそ出さないけれど、それ位は分かる程度には彼を理解したつもりだ。
そしてそんな彼が、私の気持ちに決して応えてくれない事も……。
結局私はこれ以上、彼に踏み込んでこの距離を保てなくなるのが怖いのだ。
それは今年の夏休み明け以降、彼の筆が進まなくなっても全く変わらない。
今の彼はまるで離れ離れの恋人を想うかのように、少し筆を進めては無表情に見えるその顔に、ほんの少しの悲痛さを滲ませる。
そんな辛そうな顔でさえ、伝わってくるのは彼がどれ程絵を愛しているかという気持ちで、その横顔に私は益々想いを募らせた。
そして同時に、彼の目が私よりも遥か遠い別の場所を向いている事を知り、自分の気持ちが報われないものなのだと思い知らされた。
いっそ彼が握る筆になれたら——と、その度にいつも思う。
扉を開けると早寧君はすぐにこちらへ顔を向けた。
やはり絵に集中出来ないのだろう。
今までなら横でイーゼルが倒れても、意にも介さず描き続ける程集中していたのに、今はそれが嘘のようだった。
「早寧君おはよう。随分早いんだね」
例え望みが無いと分かっていても、想い人と二人きりというのは緊張してしまう。そこに抑えようのない嬉しさと、お父さんへの若干の感謝が混ざり合う。
「ああ
少し高めの声のトーン、中性的な顔つきの上表情が読み取り辛いので、集中して絵を描いている時なんて、まるで彫刻作品のように見える事さえあった。
そのせいか周りとは温度が少し違う気がして、初めのうちは本当に何を考えているのか分からず、少し恐くもあった。
「お父さんが出張で朝からバタバタしてたから、一緒に起きちゃって。早寧君はいつもこんな早くに来てるの?」
「母さんが朝早い事が多いからね。それで結局一緒に出てきちゃうんだ」
彼の両親が離婚して、今は母親と二人暮らしである事は、以前に聞いた事があった。
お母さんは確かデザイン関係の仕事をしている——と言っていた気がする。
「それに朝早く色を重ねておけば、放課後には乾くかと思ってね」
そして彼には珍しく、薄い笑顔を見せる。
それが悲痛な気持ちを塗り潰す為の笑顔だと分かる。けれどそれが私だけに見せてくれる表情なのだと思うと嬉しさが込み上げて、その後すぐに自己嫌悪が入り混じり、心の中を歪な感情が満たしていった。
◇
今までは教室に誰がいようがまるで気にならなかったのに、今は人が横でイーゼルを立てるだけで気に掛かる。
最近はずっとこうだ。
気が散る頭で筆を入れれば入れる程、職員室前のあの絵に似ていく。
まるで職員室前の廊下にイーゼルを立てているかのような錯覚すら覚えた。
「筆、進まないの?」
「ああ……うん」
心配してくれているのだろう上永の言葉に、生返事を返しつつ首を返す。
「まあね」
普段放課後の部活中なら十人弱の部員が室内に思い思いに陣取って作業しているが、早朝の今はその広い部屋に二人しかいない。だというのに彼女は当然のように隣にイーゼルを立て、準備を始める。
元々同学年で油絵志望も僕達二人だけだったので、自然と隣り合って作業するのが当たり前になっていた。
なので今更何を言うつもりもなかったし、そもそも横に彼女がいようといまいと、筆の進み具合が変わる筈もなかった。
僕自身とても社交的と言える性格ではない上に、最近は学展優秀賞者などという肩書までくっついてしまい、益々部内で浮いた存在となりつつあった。
それ自体は別段どうと言う事もないけれど、そんな僕と未だにこんな世間話をしていると、上永まで変人扱いされないかたまに心配になる。
「もうほとんど出来上がってるみたいに見えるけど……。それともまだ何か描き足すつもりなの?」
上永は肩甲骨を隠そうかという程の長い黒髪に絵具がつかないよう絵と反対になるよう避けながら僕の絵を覗き込む。髪は彼女の背中を滑り、反対の脇へと静かに流れていく。
少し長めの前髪に薄縁の眼鏡。見た目からして内気そうな印象だが、他の部員ともきちんとコミュニケーションを取っているようだし、何より一年の頃から僕と会話し続けられるだけの会話力と協調性を有している。
女性にしては長身で、立って話していると175センチの僕と比べても10センチも違わないように見える。
けれど長めの前髪でただでさえ隠れがちな目に加え、多少伏し目がちな立ち居振る舞いも相まって、普段は実際より更に10センチ程小さく見える。
「いや、これでほぼ完成だよ。後は端にかけて多少グラデーションをつけて、光をきちんと描き込んだら終わり」
「じゃあ……」
――どうして描かないのか。当然の疑問。
「どうも納得行く感じにならなくてね。もっと上手い水の表現が出来るんじゃないのか……とかそんな感じだよ」
適当な事を口にして、その場をやり過ごそうとする。
「もしかしてプレッシャーとか感じてる? 先生とかクラスのみんなとか、私には良く分からないけど、そういう期待ってやっぱり重いんじゃないかなって思うし」
確かに、傍から見ればそういう風に見えるのかもしれない。
「プレッシャー……か。確かにそうかもね。
一回まぐれで賞を取っただけなのに、我ながら細い神経だよ」
自嘲気味にそう答えると改めて自分の絵に向かい合う。しかしまた、あの廊下にイーゼルを立てている錯覚に陥り、筆が進む事はない。
「でもすごいよね、職員室前の早寧君の絵。油絵とは思えないくらい透明感があって」
僕の答えと表情を見て気を遣ってくれたのか、上永があの絵へと話題を切り替える。
「私には最優秀作品より良い出来に見えたんだけど……」
正直、今あの絵を話題に出される事の方が辛かったけれど、自分の絵に対する賛辞自体はそういった感情とは関係無く、素直に嬉しいものだった。
けど――。
「やっぱりそういう評価なんだよね……」
「え、何?」
「いや、なんでも……」
つい小さく口を突いて出てしまった呟きを誤魔化す。
「けどあの作品はやっぱり優秀賞止まりだよ」
「どうして?」
「口では説明し難いけど……。人間味に欠ける……て言うのかな」
「個性的でないとか、そういった事?」
「そんな感じ。あの絵は確かに上手く描けたけど、ただそれだけって評価されたんだと思う。
審査員から直接言われた訳じゃないけど、最優秀賞の人には『訴えかけるようなものがある』とか『真に迫る力強い絵だ』とかそういう評価をされていたからね。だからそういうものが欠けてるから、僕の作品は優秀賞なんだろうなって思って」
そう――。
結局僕の絵はただ上手なだけの絵だ。自分の何かを相手に伝えようという意思が、この絵にはないんだろう。だからああいった評価を受けた。
「すごいね。みんなそういう事気にしてるんだ。
じゃあ来年は、その課題を克服して最優秀だね」
上永は前髪に半ば隠れた目を輝かせながら身を乗り出して来る。
彼女には僕が天才か何かに見えているのかもしれない。
「さあね……。けどこんなの描いてるようじゃ、来年は最優秀どころか入選も怪しいんじゃないかな」
自嘲混じりに素直な感想を漏らすと、今度は一転して上永の表情が曇る。
「どうして? この絵だって素敵だと思うよ。優秀賞の絵にだって負けないくらい……。構図も面白いし、光の具合だってまだ完成じゃないけど柔らかくて暖かだし。透明感だって……」
僕の素直な感想を彼女は一生懸命否定してくれようとする。
実際彼女の言う通り、海中の透き通るような雰囲気は、あの絵と遜色ない。いや”同じ”なのだ。
この気付かないうちに模倣をしてしまう現状を変えない限り、僕の絵は永遠に二年の夏休みから進歩しない。
「何となく、ね……」
けれど本当の事を話す気にもなれず、ばればれの誤魔化しを口にして、また使い慣れない笑筋を駆使しようと、口の端を吊り上げた。
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