第一幕:高校編
二〇二三年九月二七日(水)
夏の終わりが近い事を告げるように、しとしとと朝から雨が降っていた。
もう十月も間近だと言うのに、晴れると蒸し暑い。
けれど秋の長雨が近い事を示唆するように降るこの小雨が、夏の終わり独特の寂しさと共に、眼を閉じて物思いに耽る時間を与えてくれる。
今日も仕事で朝の早い母の朝食とお弁当の用意をして、七時前に家を出る。
いつものように学校に着くと、いつものように無人かと思う程静まり返った校舎に出迎えられる。
こんな朝早く、まして小降りとはいえ雨の中、校庭で活動する部活などあろう筈もなく、学校内はまるで廃れて久しい屋敷のような静寂で包まれていた。
そんな物悲しくも穏やかな廊下を抜け、職員室で鍵を取ると、少し足早に美術室へと向かう。
荷物を窓際に置いて、他の教室と少し違う無垢材の床に出来た凹凸を感じながら、隣の準備室にあるイーゼルを取りに行く。
幾つかの石膏像のレプリカや壁に貼られた古典絵画の偉人達。その一種虚ろな視線を微かに感じながら、準備を進めていく。
それが終わるとイーゼルに立てたキャンバスと向かい合い、コバルトブルーを重ねて行く。これが最近の僕の日課。
絵の中では、品の良さそうな初老の男が海中に浮かぶ椅子に腰掛け、目の前で同じく浮かぶテーブルの紅茶を手に取っている。
膝の上には開いたままの本。海中に降り注ぐ光を受け、思うさまくつろぐ初老の男。
それを縦長のキャンバス一面のコバルトブルーの中、中央左下に主張し過ぎないよう描き込んでいる。
海底の岩礁や光の表現等の細かい所はまだだけれど、完成まではあとほんの少し。
なのに以前は完成するに従って感じていた、焦りにも似た達成感は一向にやって来ない。
今あるのは拭いようのない既視感と、ほんの僅かな苛立ちだけ——。
それでもなんとかその気持ちを押し殺し、一時間程筆を動かしていたけれど、流石にささくれた気持ちを紛らわせたくなって、筆を止めて窓の外を眺めた。
空はまるで地のキャンバスが透けているような薄灰色で、部屋の中は昨日までの空気が全てなくなってしまったかのように、空虚で軽かった。
――落ち着いたけど、今日はもうこれ以上描くのは無理かな。
そう判断して、画材一式を片付けて手を洗い、鞄を持って廊下に出る。
始業時間までまだ三十分以上あるので、美術室に残って読書をするつもりだったが、以前読み耽っている間に始業ベルが鳴って遅刻扱いになってしまってからは、鞄だけは机の上に置いておくようにしていた。
渡り廊下を抜け、特別棟からクラス棟へ入る。そして右へと曲がって、職員室の前を通る。
その職員室前の壁には、ガラス扉付きの緑の掲示板があり、いつも様々な掲示物によって埋め尽くされていた。
けれど今は、別のものがそれら掲示物を盛大に端へと追いやっている。
『浮力と抵抗と自由 作:
絵の中では、海中を二羽の
空想の光景である筈のこの絵に、しかし羽から上る気泡が妙な現実感を与えていた。
二羽は連れ添うでも後を追うでもなく、螺旋を描くように絵の中を舞う。
僕はその絵を見ないように目を伏せて、職員室前を通り過ぎる。
この絵を見る度、自分の絵が未だに夏休み前の模倣に過ぎないと、痛感させられる。
鞄を置いて美術室に戻る時もこの絵の前を通るのかと思うと、少し気分が沈んだ。
◇
朝見た雲の薄さから、そう長くは降らないだろうと思っていた雨は、案の定昼過ぎには止み、放課後の今では校舎全体を朱の気配が包んでいた。
放課後になって美術室に向かおうとした足は、けれど結局気乗りせず、下駄箱で朝別れたスニーカーと再会しを果たしていた。
美術部は基本、好きに来て好きに帰るという各自自由参加の形式を取っている。それ故幽霊部員も大量にいたが、制作の邪魔にならないのであればどうという事もなかった。
それは今や増え続けた幽霊部員により、部員数が吹奏楽部に次ぐ文化部第ニ位の地位を得ても、なんら変わる事はない。
そんな事より、そのお蔭で今日のようにいつにも増して気乗りしない時、早く帰って夕食の支度に時間を費やせる事の方が、遥かに有意義に思えた。
そうして夕飯の献立を考えつつ正門を出ると、丁度どこかの部活のランニングとすれ違った。
その後ろの方に、見覚えのある顔があった。
夏休み明けに行われた学校行事の市内美化活動。そこで一緒の班になった女子だった。
普通は知り合い同士とか、部活の友達同士で好きに組むのだが、別に誰と組む気もなかった僕は、適当に一人で回ろうとしていたのだが、そこで声を掛けて来たのが彼女だった。
名前は忘れたけれど、一年で陸上部だと言っていた。
セミロングの髪に大きな瞳。見るからに快活そうな見た目と、それを裏切らない行動力は、人の顔を覚えるのが苦手な僕でも、半日一緒にいただけで記憶に残るには十分だった。
また彼女は驚く事に、夏休み明けのあの暑くて退屈な全校集会を熱心に聞いていたらしく、僕が職員室前の絵の作者である事を知って、声を掛けて来たのだと言う。
向こうも気付いたようでこちらに視線を向け、走りながら軽く会釈をしてくる。
頷く様にこちらも会釈を返すと、彼女達とそのまますれ違い、僕は夕食のメニューが決まると、今度は必要な食材を頭の中でリストアップし始めた。
◇
「ねえ美佳、今の先輩誰? ちょっとかっこいいじゃん」
早寧先輩の後ろ姿を目の端で追っていると、隣の友人が早速探りを入れてきた。
「別になんでもないから」
「あれ早寧でしょ? どうして一年の
前を走っていた二年の先輩の反応に、友人の興味が移る。
「先輩、さっきの人知ってるんですか?」
「まぁ一応同じクラスだからね。
確かに顔は悪くないけど、あいついつも一人でいるし、クラスの奴と喋ってるとこも、あんま見た覚えないけどね」
「そうなんですか?」
「まあけど、最近はちょくちょく話題には上がるよ。
ほら夏休み明けの全校集会で表彰されてたじゃん。なんかすごい賞取ったとかで」
「あ~ありましたね、全然見てなかったですけど……ってその人が!?」
「あいつだよ」
「へぇ~! で、
一度は逸れた矛先が、また戻って来た。
「休み明けの美化活動で同じ班だったの」
「けどあれって自由班じゃん。つまり声掛けたんだ?」
「あの絵が気になったから、話が聞きたくて一緒の班にして貰ったの。
別にそういうのじゃないから!」
「どうだかー」
「ほんとだって! 先輩多分、私の名前だって覚えてないよ」
「なんだ、まだそんなとこなの?」
「だからそんなんじゃないって!」
ニヤニヤして「頑張んなよー」と茶化し半分に応援する友人を、無理矢理他の話題へと持って行く。
あれで誤魔化せたとは思えないけど、実際先輩は私の名前——覚えてないだろうな……。
今日こそはと意気込んでいたところに先輩とすれ違えたことに、一瞬運命的なものを感じたけれど、そう思うとまた少し凹んだ。
部活を終え、他の部員が喋りながら着替えている中、一人急いで着替えを済ませて鞄に腕を通す。
そのまま更衣室を出ようとすると、友人に呼び止められた。
「ちょっと待ってよ美佳! どうせなら一緒に帰ろ」
「ごめん、教室に忘れ物しちゃったみたい。先帰ってて」
「また~?」
「ごめ~ん! 今度またね」
それだけ言って更衣室から飛び出すと、夕闇迫る校舎の中を自分の教室など意にも介さず、一目散に職員室を目指した。
目的の場所まで辿り着くと、壁にはあの海と鳥の絵が僅かな斜光を浴びながら、昼とは少し違った佇まいを見せて飾られていた。
先輩――
けれど朝が弱くて毎日朝練ぎりぎりな私にとって、この部活後の僅かな時間だけが、日課をこなせる唯一の機会だ。
それに今日こそはずっと渡せずにいる『鞄の中のもの』を渡すべく、いつもの三倍は気合を入れてで絵の前までやって来た。
海の中の鳥は自由に飛び回っているように見えるのに、見方を変えるととても窮屈そうにも見える。
初めて見た時は理由もなく『自由であることの苦痛』みたいなものを感じさせる絵だな、と漠然と思った。
けど今では、この絵からは苦痛や悲哀ではなく、希望や自立といったものを感じる。
そしてここで過ごす数分が、私の心を今までになく大きなものへ成長させてくれていると感じる。
それはきっと、この絵が私に『恋』という新しい気持ちを教えてくれているからだと思う。
暫く絵に魅入っていると、扉を開ける音と共に、職員室から見知らぬ教員が出て来て、私の注意はそちらに移った。
教員はこちらに気付くと、一度眼鏡を直す素振りをして、薄暗い廊下に佇む私の姿を確認してから声を掛けてきた。
「外はもう暗いですから、今日はもう帰った方がいいですよ」
「あ、はい……」
見知らぬ教員はこちらへ歩いて来ると、私がここに居た目的に気付いたらしく、同じように絵の前に立った。
「この絵がお好きですか?」
「ええ、まぁ……」
少し長めの白髪に縁無し眼鏡の奥の優しそうな瞳に、皺の刻まれた手、その挙動や表情、声色に至るまで、全てが柔和な印象を与える。
「彼の絵をそこまで熱心に見る生徒も珍しいですね。彼自身すら、あまり見ようとしませんから」
白髪の教員は柔らかく笑い、絵へと視線を向ける。
「先生は先輩の事、ご存知なんですか?」
「ええ。私は選択美術と美術部の顧問を担当していますから」
「じゃあ、この絵を描いている時も?」
「ええ、見ていましたよ。意見を求められる事も度々ですから」
思わぬところで出逢った再びの幸運に、ついつい質問責めしてしまう。
「先輩は普段、どんな風に絵を描いているんですか?」
「どんな風に、ですか?」
白髪の教員は少し顎に手を当てて考えた後、
「普通ですよ、彼は」
「普通……」
「ええ。ただ普通に没頭し、悩み、喜ぶ。
表情にこそあまり出しませんが、描いている時の彼はごくごく普通の表現者の姿そのものだと、私には感じられます」
そう言って手を腰の後ろで組んで再び絵の方へと目を向ける。けれどその目線は絵の方を向いているのに、実際はもっと先——遠く何か別のものへと向けられているように見えた。
「彼には才能があると思います。昔の私のような技術だけの片手落ちな絵描きでは無く、人を惹きつけるものを描く事の出来る才能というものが。
困った事にそれは、決して人から教わる事の出来ないものですから」
そこまで話すと左手で顎を撫でながら少しだけ目を細めた。
「――けれど最近の彼はスランプ……とりわけ絵のモチーフについて悩んでいる様に見えますね」
「悩んでる?」
「ええ。進んでいませんからね、筆が」
白髪の教員は目を細めたまま絵を見つめていたが、こちらに顔を向けて柔らかな笑顔を見せた。
「どうもあなたは絵の事だけでなく、作者さんにも随分興味をお持ちのようですね。どちらにしても、教え子が人の心を惹きつける様を見られるというのは嬉しいものです」
「え、いえあの……」
この人にはすっかりお見通しらしく、恥ずかしさに目を伏せて肩をすくめる。
「あまり本人のいないところで彼の話をするというのも趣味が良くありませんが、並々ならぬ興味をお持ちのようでしたので、特別にお話ししました。
さ、この辺りにして帰った方いいですよ。もう時間も遅い。こう暗くなっては絵もよく見えないでしょう」
「はい、今日はありがとうございます。えーと……」
「申し遅れました。私は亀井と言います。来年選択で美術を取れば、お会いすることもあるかもしれませんね」
「私、
じゃあ亀井先生、失礼します」
一つ会釈をして職員室前から早足で去る。しかし、私にはまだやることが残っている。そのまま帰る訳にはいかなかった。
まるで中にあるものの感触を確かめるようにギュッと鞄を抱き締めながら、私の足は昇降口でははなく、二年の教室へと向いていた。
二年C組の教室は日が沈み、物寂しさを通り過ぎ、若干の不気味さをもって私を出迎えた。
最初は恐るおそるといった風に、けど入ってしまえばどうということもない。
席は何度か教室を覗いた時に確認していた。一番窓側前から四番目、そこが先輩の席——。
席まで来ると、つい椅子に座ってみたり机の上を指でなぞってみたりしてしまう。自分のことながらちょっと恥ずかしい——。
試しに頬杖をついて窓の外を眺めてみると、先輩が同じポーズを取っている姿が容易に目に浮かんできて、思わず少し笑ってしまう。
ひとしきり先輩と同じ空気を味わい、最後に一度大きく深呼吸をしてから鞄の中の手紙を取り出し睨み付ける。
――正直、馬鹿げてると思う……。
先輩とまともに話したのは休み明けの美化活動での一度きり。先輩は私の名前どころか、顔も覚えていないかもしれない。
本当はもっと先輩と親しくなってから……と思っていたけど、これ以上あるかもわからない機会を待つよりも、捨て身で挑んだ方がきっと勝率は高い筈……。そう自分に言い聞かせると、机の中に手を突っ込んだ。
最後にもう一度机をなぞると、宵闇迫る教室に背を向け、早足でその場を後にした。
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