二〇二三年一〇月一九日(水)
正門で自転車を立て掛けて待つこと十分弱、彼女が走って来るのが見えた。ほぼ全力疾走といった風で、夕日を浴びながらのその様はまるで青春映画のワンシーンのようだった。
「そんなに急がなくてもいいのに」
「いえ……いんです……。じゃあ……自転車、取ってきます……」
息も絶え絶えにそれだけ言うと、彼女は駐輪場へふらふらと歩いて行った。
戻って来た彼女は既に息もだいぶ整っていたけれど、自転車を押しながら校門を出た。
「枳殻さんは家はどこなの?」
「私ですか? 海沿いのボーリング場近くですけど」
「それじゃあこっちは方向が違うんじゃないの?」
「何言ってるんですか! まだ四時なんですからまっすぐ帰る訳ないじゃないですか!」
さも当然といった風に彼女が返答する。
「まぁ……いいけどね」
元々息抜きがしたくて残っていた訳だし、その提案に付き合う事自体には異論はないので、思った事は口にしないでおく。
目的地は定かではないが息を整え自転車に乗り、迷い無くペダルをこぐ彼女に今は黙ってついて行く。
「ところで先輩、気晴らしって言ってましたけど、絵が進まないとかですか?」
「鋭いね。次に描く絵のテーマが全然決まらないんだ」
「あんな結果を出した後ですもんね。なんか大変そうだなぁ」
「そうでもないよ。思春期の恋の悩みみたいなよくある話だよ」
「だとしたら先輩のそれは超絶大問題ですよ! 恋の悩みを甘く見ちゃいけません!」
「そうなの? じゃあ訂正。僕の悩みは夏休みの宿題程度の他愛ないものだよ」
「それもそれで私にとっては大いなる悩みだったんですけどね……」
雑談しているとどうやら目的地に到着したらしい。前を走っていた彼女が緩やかに減速し、自転車を降りる。
「ここが目的地?」
そこは学校のある丘を海と反対に下って行った先にある市民公園だった。
てっきり以前のようにどこかの店に連れて行かれるものとばかり思っていたのでいささか肩透かしを食らった感じだ。
「そうですよ? 前回は私の事を知って貰うのが目的でしたから好きなところにしましたけど、今日は先輩の気晴らしが目的なんですから」
まるで思考を読んだかのように頭の中の感想に反論してくる。
それに少し驚きながら横にある駐輪場に自転車を留め、公園の中へと入って行く。
外からも見えていたが、中ではイチョウやモミジが徐々に色付き始めていた。
「ここ、ちょっとした紅葉の隠れ名所なんですよ」
彼女がエヘン、と自分で言いながら胸を張る。
「確かに見頃になると綺麗そうだね。こんなとこがあったなんて知らなかったよ」
「先輩ならお店とかよりこういう所で散歩するとかの方がいいかなって。
本当はもう少し後の方がもっと綺麗なんですけどね」
「いや、十分だよ。ありがとう、枳殻さん」
すると急に不満そうな顔をしだす。前回も思ったがよくこれだけ目まぐるしく表情が変えられるものだと若干感心する。
「それ! 前から思ってましたけど、そのさん付けはよそよそしくてよろしくないです! 今から呼び捨てにして下さい! 先輩なんですから! むしろ名前で呼んでください!」
あまり先輩後輩の付き合いというものが分からないが後輩にさん付けというのはおかしいだろうか。亀井先生の癖がうつってしまったのかもしれない。
「……分かった。じゃあ、枳殻で」
「名前呼びはスルーですか……」
今度はあからさまにがっかりする。そうかと思えばすぐに顔を上げて、
「そう言えば先輩って呼び方もよそよそしいですね? この機会に変えましょう」
などと言い出す。
「別に僕は何でも構わないけど。あんまりフランクなのは勘弁して欲しいけど」
学校であまり親しくしているのも面倒事が増えそうでさり気なく釘を刺す。いや、殆ど直球だけど……。
「じゃあ……私の方が名前で呼ぶのはどうですか? 秋史先輩! みたいな」
「うーん。学校でそう呼ばれるのは誤解と面倒事を招きそうな……」
「え~いいじゃないですか! どうせ秋史先輩と学校で話せる事なんて殆どないんですから!」
「まぁ……それは確かにそうなんだけどね」
今までは人付き合いを積極的にして来なかった事もあり、比較的静かな学校生活立ったのだが、夏休み以降はあの絵のせいで急に目立つようになってしまって困っていた。
その上更に下衆の勘繰りで余計な注目を浴びるのは何とか避けたいというのが本音だ。
夏休み明けの全校集会なんて、まるで檻に入った客寄せパンダみたいな気分だった。
「それに私だってそれ位空気読みますよ。心配いりません!
……と言う事で秋史先輩、宜しくです♪」
「…………分かった。学校では気を付けてね」
結局この満面の笑みに押し切られてしまう。こちらに出来るのは念を押す事位なものだ。
その後も公園の中を散歩しながら前以上に色々な話を聞いた。
父親が昔気質で頑固で困る事。母親がおっとり&うっかりで、よく追加の買い物に行かされる事。ちょっと生意気な二つ下の弟がいる事。部活で最近僕の事で部員にいじられそうになっている事。
前回はそれ程でも無かったけれど、今回は僕自身の事も随分と話した。
中学時代は今より更に無口で不愛想で、友達と呼べるような人が一人もいなかった事。親が小学校の時に離婚し、今は母と二人暮らしな事。そして今は母がデザイナーの仕事で忙しく、家では一人でいるのが多い事。
そこまで話した頃、ここに来る途中に聞かれた事が再び話題に上った。
「そう言えばさっき、次のモチーフが決まらないって言ってましたけど、あの海の絵で優秀賞取れたんですからまた海をモチーフにするんじゃないんですか?」
「どうだろう……」
あいまいな言葉を返して空を見上げる。
空の主役は橙から徐々に藍色へと移り変わり、それでも地平線へと消え行く最後の光が藍色とせめぎ合って境界に美しい薄紫の帯を作り出していた。
前回も自分の悩みに対して新しい見方を与えてくれた彼女にこの悩みも話してみたい気持ちもあったが、この靄の晴らし方を他人に聞くのでは結局意味が無いような気もして、話すかどうか迷っていた。
「枳殻は将来、何になりたい?」
「私ですか? もちろん先輩のお嫁さんですよ」
冗談とも本気とも取りづらい答えを、満面の笑みと共に返してくる。
苦笑しつつその答えはスルーして質問を変える。
「じゃあ仕事をするとしたら?」
「そうですね……。私今まで何かを本気でやった事って、ないんですよね。
高跳びだって本当は当時憧れてた先輩と一緒の幅跳びをやろうと思って中学二年から陸上部に入ったのに、気付いたら高跳びやっててそのまま高校でもって感じだし。
だから仕事として一生携わりたいと思えるものってないんですよね。
だから、働くとしたら普通にOLとかなのかな?」
「ちょっと意外だね。僕なんかと違ってもっとやりたい事とかたくさんあると思ってた」
「そんな事ないですよ。大体の人ってそうなんじゃないですか?
私の周りでも本気で打ち込めるようなものを持ってる人なんて、秋史先輩くらいしか知りませんよ。そういうの、羨ましいです」
そういう答えが返ってくるとは思っていなかった。
――結局はみんな、ないものねだりなのかもしれない。
彼女と出掛けるずっと以前からあった『普通』へのぼんやりとした憧れ。
友達と一緒に学校の帰りにどこかへ寄ったり、休日一日遊び回ったり、そうした普通の毎日を送りながらいずれ自分の好きな事を見つけてそれに向かって進んで行く。周りはみんなそういうものだと思っていた。
今まで人付き合いは苦手だからと逃げて、自分から勝手に思い描いた『普通』から遠ざかって、勝手に自分が普通とは違うと思っていた。
だからこんな当たり前の事が分からなかった。周りだって将来や色々なものに不安を感じながら毎日を過ごしているかもしれないと言う事。
僕みたいな人間を羨む人もいると言う事——。
そして悩むふりをしていても、本当は自分の進むべき道を知っている僕は、きっと恵まれているんだと言う事……。
「本当は宇宙を、描きたいんだ」
先程の枳殻の質問に今更ながら答える。
「宇宙を?」
「博物館で入った無重力体験のドーム。あそこで見た星空が忘れられないんだ」
「あれ、綺麗でしたよね。いいじゃないですか! そしたら私にも――」
そこまで口にして、やめる。改めて口を開いた時、彼女はもう笑顔ではなかった。
「どうして、描かないんですか?」
「……夏休みが明けて以来——正しくは職員室前のあの絵を仕上げて以来、絵を描くのが楽しくなくなったんだ。
そんな時あのドームの中で星を見て分かった。
自分にとって海っていうテーマはもう魅力的なものじゃなくなっていたんだって事。
——本物の宇宙を漂って、そこで感じたものを絵にしたい。それが自分の今描きたいものなんだって。
けどそれをするには多くのものを捨てなきゃいけない。
今来ている美大の推薦の話だって蹴る事になる。
顧問の亀井先生は何も言わないけど、僕に絵の道に進んで欲しいと思ってる。
先生のお蔭であの賞だって取れたのに、その期待を裏切ってまでしたい事なのかどうか、自分でも分からない。
それに母さんだって反対する。
今から宇宙に上がろうと思ったら専門の研究チームに所属するか、民間衛星の保守技術者になる位しか現実的な選択肢はない。
研究者として宇宙に上がるには大学を卒業してからも長い時間がかかるし、倍率も高くて上がれるのはほんの一握りだ。
技術者として行くのは未だに事故が多くて、ステーションの中で作業する研究者より、危険が伴う。
それに宇宙に上がる以上どっちにしたって危険は伴うし、長く家を空ける事にもなる。
母さんだって忙しい。だからこの仕事に就けば一緒にいられる時間も殆ど取れなくなると思う。
他にも一杯あると思う、僕が知らないだけで。
だから、本気になっていいのか分からない……。
宇宙は描きたい。けどそれを描くって事はそこを目指す事と僕にとっては同義なんだ。
止められないんだ、描いてしまったら。
だから……描くかどうか、悩んでる」
堰を切ったように溢れ出した言葉は、そこまで話してようやく止まった。
こんな話をしたのは彼女が初めてだった。上永や亀井先生にもこんな話をした事もしようと思った事もない。
本当はこの問いに対して、自分で答えを見つけなきゃいけないと今でも思ってる。
けれど今まで抱いて来た憧れや劣等感。それに恐らく、多少の嫉妬……。
みんなが歩く遥か後ろを、白いキャンバスを持って立ち尽くす——。そんな自分の姿にいつの間にか取り憑かれて、いつからか自分にとっての絵は劣等感からの逃避の材料に成り下がっていた。
その思い込みを彼女が少しだけ和らげてくれた。だから話せたんだと思う。
遥か前を歩いているんじゃなく、自分の近くで同じようにもがいているんだと思えて、不謹慎だけどその事実に少しだけ、救われた気がした。
そして最後まで聞いた彼女は、迷う様子も見せず僕の問いに答えてくれた。
「秋史先輩にとって絵を描く事は『特別』な事なんじゃないですか?
それがどういう特別でも、それがあったからあの絵が描けたんだって思うんです。
先輩にとって特別なら、それだけで他の何より優先する理由になる筈です。
例え
先輩はきっと描く事をやめられません。それが先輩にとっての特別だから。
先輩だって、本当は気付いているんじゃないですか?」
一つ一つの言葉にまるで色がついているように、入って来た言葉を頭で理解するより早く心が先に理解する。
その言葉を聞いて、先日仕上げたばかりの絵を思い出す。
背景が暗くなればなる程、その絵は憧れた星空に近付き、それを見る度一段と濃い色を流し込む。
それが僕の答えだった。
結局悩んでいる風を装っても、絵を描く事は辞められない。彼女はそんな心をいとも簡単に抉り出して見せた。
「そうだね……。僕から絵を取ったら何も残らない。
例え母さんや先生の為にならないとしても、僕は描きたいものを描く事をやめられない。そういう人間なんだ」
それに気付いて自覚するだけでよかった。今までそれが出来なかったのは、自分のエゴに抗えない弱い自分を認めるのが怖かったんだと思う。
「ありがとう、やっと何をするか決まったよ。だからごめん、学校に戻らないと」
「そうですか」
彼女はそれだけ言うと笑顔で僕の背中を押す。
「さ、やる事が決まったなら行きましょ」
「今日は本当にありがとう、美佳」
「先輩! 今名前!」
「感謝の気持ちだよ。今回だけね」
「じゃあもう一回! もう一回呼んで下さい!」
そう言って制服を引っ張る彼女と駐輪場まで戻り、彼女を引き剥がして学校へと戻った。
そして先日仕上げたばかりの絵を再びイーゼルに載せると――。
それをピーチブラックで塗り込めてしまった。
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