二〇二八年三月二一日(火)

 入社一年を目前に控えた三月、会社で先週の保守業務の報告書を作成していると近くにいる企画部の先輩から声をかけられた。

早寧さねい君、ちょっといい?」

「はい」

 連れられるまま空いている適当な会議室へと入り、先輩の向かいに座る。

「実は急で悪いんだけど、今年の新人研修に教官補佐として同行して貰えないかな?

 元々予定してた補佐役の内二人が急に出れなくなっちゃって」

 席に着くと先輩は早速本題を口にした。

 去年も若い先輩がいた事は覚えているが、まさか入社一年で声がかかるとは思わず、少し面食らってしまった。

「流石に……。まだ後輩に教えられる程仕事も覚えてませんし、ちょっとそれは……」

 仕事なのだから受けるのは勿論やぶさかではないが、身に余るとなると話は別だ。

 まだまだ自分の仕事も満足に覚えていないのに、宇宙空間で命を預かる立場など、入社一年では荷が重過ぎる。

「あーいや、補佐と言っても船外服の着脱補助や確認とか、いつも乗ってる小型艇での同乗支援とかそんなものだよ。

 それにこれはどちらかと言えば教官育成が目的だから、大体は教官と一緒にいて指導内容を見るのが主な内容になるから」

「そういう事なら……分かりました。お受けします」

 正直、人に何かを教えるなんて自分にはとても向いているとは思えないが、仕事であれば仕方ない。

「ありがと~、助かるよ。新規の衛星打ち上げが前倒しになってね。そっちに補佐役の二人を取られちゃったんだよ。

 流石に入社二年目から頼むのは稀なんだけど、早寧君は先輩からの評判も良かったしね。まだ慣れてない事もあると思うけど、お願いするよ。

 それじゃあすぐに新人の名簿とミーティングの日程、送っちゃうから目を通しておいてね」

 そう言うと先輩は席を立って早々に会議室を後にした。

 自分も席に戻ると、その後届いたメールに目を通し、ミーティングの日程をスケジューラーに入れていく。

 最後に添付されていた新人の名簿ファイルを開く。

 去年とほぼ変わらない人数の新入社員の中、見覚えのある名前が目に飛び込んで来て思わず声を上げそうになった。

 名簿の女性社員欄の真ん中辺り。そこには確かに”枳殻からたち美佳みか”と記載されていた。


 その日からは悶々とした日々が始まった。

 宇宙に上がっている時は命に係るので何とか頭の隅に追いやってはいるが、地上に戻るとあの中庭での出来事を思い出して自己嫌悪と『何故』という言葉が頭を埋め尽くす日々が続いた。

 こんな状態で上永の所に行けば悩んでいる事なんて容易に見抜かれるであろう事は想像出来たが、幸い年度末と言う事もあり新年度の新規案件等で忙しく、病室からは自然と足が遠のいた。


 そうやって迎えた打ち上げ前々日、種子島宇宙センターの職員との事前打ち合わせの為、僕達教官側は研修生達より一日早く現地入りした。その時も空港を出た所でバスを待ちながら枳殻が追って来た理由を考えていたら、危うく目の前のバスに乗り損ねそうになった。

 そして翌日、研修生達が前日研修を受ける為現地入りした。僕も立ち合いと言う形で同席し、そこで二年振りに僕達は再会した。


 最初会議室に入って来た枳殻は随分驚いている様だった。彼女からすれば僕が来ているなんて知る由もないのだから当然だろう。

 僕はと言えば今すぐここから逃げ出したいという情けない気持ちでいっぱいで、研修の間中枳殻が何か言いたそうにこちらへ視線を向けているのに気付きながら、視線を合わせないよう終始資料へ目を落とし、研修が終わると誰よりも早く会議室を後にした。

 そして研修当日、男子研修生の与圧服チェックを行いながら、枳殻の視線を幾度か感じた。けれど男女で離れていた事もあり、結局そのままロケットへと乗り込んだ。これで暫く枳殻と目を合わせなくても良くなる事につい安堵の溜息が漏れてしまう。


——彼女は何故僕の後を追いかけて来たんだろうか。

 もしかしたらそんなものは自意識過剰で、ただ単に僕の進路を知らずにたまたま同じ会社に入ってしまっただけかもしれない。

 けどそれならこんな男は無視していればいい。自分の事しか考えていない、僕の事なんて——。

 あの時は分からなかったけれど、中庭での出来事は自分のエゴを実現するための一種の儀式だったように思う。

 自分で自分を許せなくなれば、枳殻を諦められる。

 彼女に言葉を掛ける資格も、傍に居る資格も、全て失えば未練を断ち切れる——そう、思ったから。

 本当に……何て自分勝手な偽善者なのか——。

 けれどそれ以外に上永の恋人になると言った言葉を、嘘にしない方法が思いつかなかった。

 だからと言って枳殻を傷つけていい理由になる筈もないと分かっているのに、どうしていいか分からない。普通に枳殻と話す事も、傷付けないよう離れる事も出来ず、こうやって只々彼女を傷つけ続ける自分の愚かしさが今は只々憎かった。


 後ろでは研修生達が一年前の自分と同じように高鳴る胸を抑えきれずそわそわとして落ち着かない。そんな彼らと真逆、まるでシーソーの反対側に座っているかの様に彼らの気持ちが高まる程、自分の気持ちは水底深くへ沈んでいくのを感じた。

 普段の業務で使う小型ロケットでは見られない、ガラス越しの大気圏の景色。去年は後ろで全く見られなかったそれを目の当たりにしても、暗澹たる気分は全く晴れる気配を見せなかった。


 ステーションに到着すると、廊下でカメラを片手に興奮する後輩達の横を抜け、ミーティングルームに入ると去年とは反対側の教官側の席に向かう。

 しかしこのエリアの有用性は一年ここに勤めていても未だに理解に苦しむものだった。使う時といったらこういった研修の時か、重役や外部ゲストが訪問した時。後はまだ一度も見た事はないがステーション職員と地上管制との合同ミーティングが発生した時くらいだ。

 そんな存在理由も良く分からない部屋で自分を椅子へと縛り付ける。最も、縛り付ける生活はこの一年ですっかり慣れっこになっていたが。

 暫くすると移動に四苦八苦しながら研修生達が入って来て次々と僕の前を慣れない動きで席へと向かって行く。

 そうして枳殻も近付いて来たが、僕は思わずベルトを直す振りをして視線を逸らした。

 ミーティングが始まると去年と同じ挨拶が流れ、僕はただ黙って聞くともなしに聞いていた。教官役として座ってはいてもあくまで補佐なので現状特段やる事もない。

 ミーティングが終わると一時解散となり、自分の寝床へ荷物を置いたりして三十分程の休憩を挟む。

 僕は半ば逃げるように部屋を後にしようとしたが、

「あの、先輩!」

 聞き慣れた声に呼び止められる。

 途端に内蔵が軋み、自己嫌悪が吐き気の様にこみ上げる。

 必死に逃げそうになる体を抑え込み、何とか枳殻の方を振り向く。そこには他の研修生の様な浮かれた気配など微塵もない、ただ泣きそうな表情で必死に何かを訴えようとする彼女の姿があった。

 それを目にした途端、もう一人の僕が命令する。『それを見るな、ここから立ち去れ』と——。

 二律背反の命令に体が硬直し、暫く身動きが取れなくなる。

 その間も少し潤んだ様にも見える彼女の瞳を見つめながら、僕はほんの少しだけ——恐怖を感じていた。

「なんで……来たんだ」

 震えそうになるのを抑えて押し殺した様なトーンの声が漏れる。

「それは……だって先輩が……」

 必死に何かを伝えようとするのに言葉が出て来ないのか、彼女はもどかしそうに言葉を詰まらせる。

「僕を追いかけるのはやめな。そんなものは時間の無駄だから」

 自分の言葉の無神経さに耐えるように彼女から見えない左手を強く握り締め、爪を食い込ませる。

 まるで吐き捨てるようにそれだけ言うと、彼女の返事も聞かず再び逃げるようにしてミーティングルームを後にした。


               ◇


 翌日から始まる船外研修では男性の研修生を担当した事もあり、それから暫く枳殻と研修中に遭う事は避けられた。

 とは言っても大して広くもないステーション内では度々すれ違う機会は当然あったけれど、その度に何か言いたげな彼女に対し僕はすげない態度をとり続けた。

 しかし四日目になると小型艇での研修が始まり、僕はとうとう枳殻の教官役として同乗せざるを得なくなった。

 難しいステーションからの発進、及び帰還はこっちでやる上、地球周回軌道を一周するだけなので最初の目的地設定以外は殆どする事のない簡単な訓練だ。

 発進を前に横でマニュアルとコンソールとを見比べている彼女に、努めて普通に接しようとするのに、知らず知らずのうちに態度が冷たくなってしまう。

「学校での実習機との配置の違いが確認出来たら目的地の設定をして下さい。そこまで出来たらこちらで一度確認します」

 まるで録音した音声を流すように事務的に説明する。

「はい……」

 枳殻から力無い返事が返ってくる。

 数分後、提出された航路に問題無いか確認する。

「はい、問題ありません。では出発します」

 それだけ答えると時間を合わせて発進する。

「目的軌道と誤差無し。ではそちらに操縦を渡します。よろしいですか?」

「了解……」

 返事を確認してコンソールを操作する。

「ユーハブコントロール」

「アイハブ、コントロール……」

 そのまま手を放して枳殻の手元に注意を向ける。

 学校でもこのシュミレーションは何度もやっているし、多少配置が異なるとは言えパニックを起こすような難しい訓練でもない。

 予想通りの危なげない対応に、視線を自分のコンソールへ戻す。

 そのまま暫く無言で操縦を続けていた枳殻がおずおずと口を開いた。

「先輩……。少しお話ししても、いいですか?」

 返事をしようとして、またしても言葉に詰まる。


 今僕は彼女に返事をしてもいいんだろうか。するとしたら何が正解なのか。

——そもそも彼女と話す資格自体、僕は放棄したんじゃないのか。

——けどそれが彼女を傷つけていい理由にはならない。

——彼女の気持ちを都合のいい言い訳にしているんじゃないのか。

——それでもし彼女への想いがこれ以上募ってしまったら……僕は自分で決めたたった一つの約束さえ、守れなくなってしまうかもしれない。


 こうやって正解の出ない問題を考え続けて答えを先延ばししている時点で既に間違っていると分かっているのに、未だに返事をするかどうかすら——自分で決める事が出来ないでいた。

 それを見ていた彼女は無視されたと感じたのだろう。泣きそうになりながら、それでも前を向いたまま言葉を続けた。

「別に私……先輩に付き纏おうとか、そんな事思って追いかけて来た訳じゃ……ないです。

 確かに先輩の事、諦めきれないですけど……けど! 恋人になれなくても、好きな気持ちが忘れられなくても、あんな風に別れてそれっきりなんて、嫌なんです!

 だから後輩としてでも、友達としてでもいい。近くにいたら……駄目ですか? 

 先輩は私の事、邪魔ですか?」

 彼女が絞り出す様に伝えて来る言葉に、自己嫌悪で自分を殺したくなる。

 余計な事を延々考えて同じところをぐるぐる回っている僕なんかを置いて、ただひたすらまっすぐに自分の決めた道を突き進む彼女が、今はとても眩しく感じる。

 いつかの日の様に僕はまた彼女に救われて、僕はまた彼女に——。


 その時、不意に気が付いた。

 僕が必死になって彼女から目を逸らして来た理由——その行為に何の意味もなかったって事に。


 本当に信じられない程の間抜け振りだ。こんなにも彼女を傷付けて、それでもその先で上永の恋人になれるのであれば、その行為にも意味がある——本気でそう、思っていたんだから。

 自分がエゴの塊の様な人間だって分かっていたつもりだったのに、実は全然分かっていなかった。

 必死になって目を逸らそうとしている時点で、自分の中での答えはもうとっくに出ていたのに。

 そう——僕は彼女が怖かったんじゃなくて、彼女に引き込まれて行く自分自身が怖かったんだ。

 それなのに本気で上永の恋人になれると思っていたんだから、こんな間抜けな話はない。

「はは……」

 あまりの間抜けさに、自己嫌悪を通り越して何だか笑えてしまう。

――ほんと……自分の心ひとつ、ままならないなんてね。

 彼女に分からないよう口の中で小さく笑うと背もたれに深々と体を預け、今まで溜め込んできたものを吐き出すように大きく息をした。

「ありがとう。僕は枳殻の事、嫌いじゃないよ。

 ただどうしていいか分からなかったんだ。

 だから子供みたいに当たり散らして逃げ回って……。

 本当は枳殻が何をしに追い掛けて来たとしても、屋上での約束を最悪の形で破った僕に逃げる資格なんてある筈なかったのにね……。

 だからこんな僕を追いかけて来てくれた枳殻に、本当はまず何よりその事を……謝らなきゃいけなかったんだ」

 自分の愚かさを悔いても、もう遅い——。

 例え僕の気持ちが目の前の彼女に向いていたとしても、上永の恋人を降りる訳にはいかない。

 自分がそうすると決めて、愚かなりに進んで来たのだから。例え気持ちを偽ってでも、最後に悔いしか残らなかったとしても——僕は最後まで上永の恋人であり続ける。

――そう決めて、それに殉じればいい。

 今までそれが出来なかったのは、ただ自分に甘かったから……。


 これから掛ける言葉は枳殻に出来る『最大限』ではないけれど、僕に出来る『精一杯』だ。

 決して枳殻の為じゃなく、自分で決めた事の為に精一杯で彼女の言葉に応える。


 息を吸い、枳殻と向き合い――。

 僕は口を開く。


「屋上で約束したのに中庭ではあんな事を言ってごめん。

 必死に追い掛けて来てくれた君から逃げた事も……ごめん。

 そして僕には恋人がいて、君の想いには応えられないんだ。

 もっと早く、きちんとこの言葉を伝えなきゃいけなかったのに……。

 呪っても恨んでも、軽蔑したっていい。ただもし出来る事があるのなら償いたいんだ。

 それで許してくれなんて言わない。

 僕に言える事はこれだけだ。

 ごめん。本当に……ごめん」

 そう言って頭を下げた。

 頭を上げた時に僕に残ったのは――小さな棘に刺されたようなちくりとした痛みだけだった。

 彼女は寂しそうに笑って、

「その事は……いいんです。仕方ない事だと……思うから。

 けどそれを悪いと思っているなら、今まで通り友人として、一緒に居てくれますか?」

「それが君への償いの足しになるなら、喜んで」

 枳殻は溜めていた涙を零れ落とし、お互いに少しだけ——笑った。

 互いの胸に傷を残して、僕達の関係はこうして、友人へと帰結した。

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