二〇二八年九月一四日(木)

 そろそろ夏も終わりという九月の半ば。夕日にも燃えるような茜色より物寂しげな橙を多く感じるようになった気がする。

 保守業務のシフト明け、数日の連休を貰ったその中日。世間が平日の中、自分だけが何もしていない事に最初はなんとなく落ち着かない思いもしていたけれど、それも今ではすっかり慣れてしまった。

 上永には昨日会いに行き、今日は定期健診で一日面会謝絶。

 こんな日は大抵人物画の練習をしたり、気晴らしに本を読んだり散歩をして過ごしていた。

 しかし最近はようやく少し人物画がまともに描けるようになって来たのと、十一月の上永の誕生日に間に合わせたいのとで、専ら以前書いた上永のデッサンをキャンバスに起こす事に時間を費やしていた。

 今日も昼過ぎまで自室の一角に敷き詰めた新聞紙の上にキャンバスを立てて作業していたが、今は絵の具を乾かしながらベッドでパラパラと小説を読んでいた。

 しかし日が傾いて来たので早めに夕食の支度を始める事にして、夕飯の買い出しの為に冷蔵庫の中身を確認し始める。

 しかし自分のスマホが鳴り始めたのでその作業を一旦諦め、画面を確認する。

 相手は上永の父親——宗司そうじさんからだった。

 上永の両親とは付き合い始めてすぐの時に話す機会があり、その時に互いの連絡先を交換したのだ。

 それ以降もたまに病室で会った時等に、帰りにご飯をご馳走して貰ったりしながら僕や上永の話をしたりしていた。

「はい、もしもし」

早寧さねい君か。良かった、今日はお休みかい?」

「はい、今シフト明けで。どうかしましたか?」

 連絡先こそ交換していたが、記憶が正しければ電話を貰ったのはこれが初めての筈だ。

「少し――出て来れるかな?」

「夕食の支度がありますからあまり長くはあれですけど、二時間くらいまでであれば」

「分かった。では車で迎えに行こう。三十分程待っていて貰えるかな。

 なんなら夕食の買い物もお手伝いさせて貰うよ」

「それは助かります。ではお待ちしてますので」

 電話を切って冷蔵庫の中身の確認を再開する。

 電話口から聞こえて来る声からは切迫した雰囲気は感じられなかった。

 しかし電話で済ませたくない話、となるとあまり些事でもないのだろう。


 買い物リストをスマホに打ち込み、着替えて準備を整えても少し時間が余り、読書の続きを初めて十分弱。宗司さんから家の前に着いた旨、電話を受けた。

 階段を下りて車の助手席に乗り、軽く挨拶だけ済ませると宗司さんは車を走らせ始める。

「買い物はここの近くかい?」

「はい、話の後でスーパーの前で降ろして貰えれば結構です」

「帰りも送るよ。付き合わせてしまっているからね」

 そう言うと海方面に向かってハンドルを切った。

 暫く何も話さず走り続け、車は海沿いに出た。海は穏やかにさざ波を立て、砕けて砂浜をひと時濡らし、また元居た場所へと帰っていく。いくら走ってもその光景は変わらない。

 そんな様を暫く窓からぼんやりと眺めていたが、用件が気になって先に口を開いた。

「それで、ご用件って何ですか?」

 その質問と共に宗司さんの方を向いたが、それを聞いても宗司さんは口を開かなかった。しかしそれから暫くして唐突に話し始めた。

月々美つつみの……病気が、治りそうなんだ」

「え!? それは……おめでとうございます」

「いや、まあ。まだ治ると決まった訳じゃない。アメリカで別種の病原菌研究で行っていたマウス実験中、偶然効果が確認されたものでね。

 その薬の認可が、近々下りそうなんだ」

「勿論確実なんて事はないでしょうけど……。でも治る目途がついたって事ですよね?」

 そこでふと、疑問が降って湧いた。

「けど昨日話した時は、そんな事一言も……」

 それどころか、そもそも認可がもう下りそうと言う事は話自体はもっと前からあったと言う事だ。そしてずっと必死に治療法を探していたこの人がそれを知らない筈がない。

 そして知ったなら当然僕や、何より病気である上永本人に話すだろう。

 しかし彼女からそんな話を聞いた事は今まで一度もない。

「娘は……治療を拒んでいるんだ」

「え……?」

 全く予想もしていなかった言葉に、さっきまでの興奮と熱が吹き飛んだ。

「半年程前、治療法が見つかった事を話した時も娘は酷く取り乱してね。生まれて初めてまともに反発されたよ。あんなに語気を荒げるところも、初めて見た気がする……。

 そしてその時に、君には決して言うな、と……」

 何もかも理解が追い付かない。

 治療を拒む事も、それを僕に隠す事も、高校時代を含めても決して声など荒げた事のない彼女が両親にそこまでして反発する理由も。

「じゃあ用件って言うのは……」

「ああ——娘を説得して欲しい。私や妻では……駄目なんだ。

 本来ならばこんな事、君に頼める筋合いでない事は分かっている。

 私も妻も、早寧君には言葉では語り尽くせない程感謝している。

 娘が再発してからの三年、あれだけ体調も精神も安定していたのは、間違いなくずっと君が会いに来てくれていたお蔭だからね。

 けれど……その君にしかもう、頼める人がいないんだ。

 今の状態がいつまでもつかも分からないし、体力だって確実に落ちてきている。

 本当は無理矢理にでも渡米させたいが、あの娘を見た後ではそんな事をすれば何をするか分からなくて、正直……恐いんだ」

 気付いた時には車は路肩に止まり、宗司さんはハンドルに乗せた腕に顔を埋めていた。しかしその表情は助手席からは窺い知る事は出来ない。

「だからお願いだ! 娘の……月々美の首を縦に振らせて欲しい」

 ハンドルから顔を上げたその目には、薄らと涙が滲んでいた。

「気に病まないで下さい。そんなの、お願いされるまでもないです。

 僕は、上永月々美の恋人ですから」

 そう答えながら彼女の顔を思い出す。

 思えば初めて病室に訪れた時から、既におかしかったのかもしれない。

 性格の変わり様も、自分の病気を意にも介さない言動も――。

 けど今までの僕は、それら全てが自分には決して理解出来ない”死”という絶対的な恐怖に直面した故なのだと思っていた。

 それでも上永と付き合って数年。決して触れられない、癒せない部分はあっても、それなりに上永月々美という人間を理解したつもりでいた。

 けれどそれは全くの思い違いだったらしい。

 彼女が何を考え、何を思っているのか。恋人としてもう一度始めから問い直す必要があるのだと感じた。

「ありがとう。ありがとう。すまない……」

 そうして手を掴んだまま何度もお礼と謝罪を繰り返しながら、宗司さんは暫くの間固く閉じた眼から絞り出す様に涙を流していた。

 それを見ながら僕は、父親とはこんなにも子供を愛しているものなんだな――とぼんやり考えていた。

 自分の父親で覚えている事と言えば、母と喧嘩をしている姿と、朝玄関から出掛けて行く背中ばかりだった。

 思えば記憶の中の父親の姿と言えば去って行く背中ばかりで、今となっては顔を思い出す事も出来なかった。

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