二〇二七年五月二日(日)

 手を止め、溜めていた息をゆっくりと吐き出した。

 まだ五月になったばかりだというのに、少し蒸し暑い。

 下の庭では以前上永に教えて貰った芍薬しゃくやくの花が暑さからか既に色鮮やかに咲いていた。

 まるで自分の興奮が伝わったかのように時季外れの暑さの中、窓からの僅かな風を感じつつ、今までになく描く事にのめり込んでいる自分に気付く。

 それも今まで手を伸ばし続けてきた星空の一端に自分の指が触れ、今まさにその喜びを表現している事を思えば、当然な気もした。


 ずっと横にいたらしい上永は、一息ついたと見て車椅子を更にこちらへと寄せる。

「今日はすごい集中力ね。これは傑作の予感」

 まだ描き始めたばかりなのに、随分気の早い事を漏らす。

「ところで宇宙の話、もっと聞かせて。船外に出た時とか、ステーションでの生活とか」

 さっきまで黙って僕の横に居たであろう彼女は一転、寝る前に話をねだる子供の様に目を輝かせ、矢継ぎ早に質問を浴びせる。


 研修から戻って来たのが昨日。あの頭に焼き付いた景色を一刻も早くキャンバスに描きたくて、疲れも取れない内に病室に来ると、上永との話もそこそこに研修前に描いていた絵を脇に除け、新しく描き始めたのが十時過ぎ。

 そこから昼食もそっちのけで没頭し続け、今はもう五時を回ろうかというところだった。

 来た時の空は梅雨の前触れのように今にも溜め込んだ水を溢れさせそうな雲と湿った空気に覆われていたが、今は既に一雨来た後なのか窓には雨滴が付き、雲間からは沈む夕日が垣間見える。

 彼女に帰って来たら研修での事を話すと約束していたのに、これではまるっきり反故もいいところだった。

「ああ、ごめん。話すって約束だったのに」

「ううん、いいの。今描いている絵だって、間違いなく秋史君の見て来たものなんだから——。けどやっぱり、話も聞きたいものね。

 それで? どんなだったの、外の景色は」

「そうだね。月並みだけど、吸い込まれるような感じ、かな。

 どっちを見ても深い穴を覗き込んでるようで、それでいて何故か平面的にも感じられて。

 自分が溶けていくような気がして、とても怖かったけど、その感覚が、すごく……嬉しかった」

「そっか……。そんなに素敵な場所なんだ」

 言葉とは裏腹に、少し寂しそうに笑う。

「治れば上永だって行けるよ。宇宙旅行も最近は随分安くなって来てるし」

 すると彼女は一瞬不思議そうな顔をすると少し笑って、

「あ、ううん。そういう事じゃないの。

 ただ……遠くに行っちゃうなぁって思って。なんだか宇宙に秋史君を取られちゃうみたいな気がして。

 変だよね、宇宙の話が聞きたいって言ったの、私なのに」

そう言ってまた寂しそうな笑顔に戻る。

「僕はどこにも行ったりしないよ。僕は上永のものだ」

「ありがと」

 僕の言葉に彼女はまた、何もかも見透かした様な瞳で、いつかの様に深い想いを込めたお礼の言葉を口にした。

「それより、これは何を描こうとしてるの? 宇宙の景色にしては、色調が随分鮮やかかだけど」

「いや、外の景色を描くつもりだよ。

 ただ実際に見た星もだけど、同時にそれを見て自分が感じたものも描ければ、て思ってる。

 船外に出た時に感じた嬉しさとか不安とか。あと宇宙に触れた時に感じた孤独とか静寂とか……そういうものを」

「そっか――。

 それは楽しみね。それを見れば秋史君が感じた宇宙を少しは共有できるかしれない」

「どうだろう……。多分出来たとしても、それは実際の宇宙とは随分違うものになると思うし」

 実際その絵は黒に近い青を基調にしつつも、所々に紫や橙、黄や緑等様々な色が踊り、それらが混じりあって不可思議な雰囲気を醸し出していた。

 しかし彼女は首を振って、

「それがいいの。そのままが見たいなら写真をお願いするわ。

 私は秋史君が感じた景色が見たいの。それが写真で見るものと違うのなら、それがあなたが感じたものだって事でしょう?」

 そう口にして彼女は僕のすぐ横にまで寄せていた車椅子をベッドの横まで戻した。

「邪魔しちゃってごめんなさい。面会時間残ってるし、まだ描くでしょう?」

 その質問に頷く。

「そのつもり。明日も仕事休みだし、ぎりぎりまで描いておきたいかなって」

 彼女はその答えに嬉しそうに首を縦に振ると、

「そうこなくっちゃね。今の話を聞いたら益々完成した絵が早く見たくなっちゃった」

 そう言って僕に絵を進めるよう促し、彼女自身は僕が手を貸そうとするのを断って自力でベッドに戻ると、いつものように体を起こす事はせず、横になって僕の絵を眺めていた。

 その姿は気のせいか、以前よりか小さくなった様に感じられた。

 実際彼女は以前に比べれば確実に痩せ、体力も落ちていた。

 あれからもうすぐ二年が経とうとしているけれど、上永が最初に言っていた通り、適合するドナーは見つかっていない。

 僕も以前、藁にもすがる思いで登録してみたが、当然適合はしなかった。

 いくら薬で進行を抑えているとはいえ、止まっていない以上状態は少しずつ悪くなって行く。

 だと言うのに、彼女の表情だけは今も初めて病室を訪れた時のまま、子供の様に明るい笑顔を見せていた。

 それが逆に言いようのない不安感となって込み上げる。

 けれどそんな気持ちを持ってキャンバスに向かっても、まるで心配事など何一つなかったかの様に絵の中へと意識が吸い込まれて行く自分を感じて、意識が切り替わる瞬間――少し自分を嫌悪した。


               ◇


 研修が終わってから暫くは地上で雑務をこなしつつ、担当する衛星の資料を頭に叩き込むのが仕事となった。

 けれどその分病院に行く時間は作り易かったので、休みになれば病院へ行き、キャンバスや上永と一日を過ごした。


 夏になる頃にやっと資料が頭に入ると再び宇宙に上がり、今度は先輩技術者からのレクチャーが始まった。

 しかし教わる内容はまた膨大で、慣れない環境と相まって宇宙では常に疲労困憊といったていだった。

 ある程度ソフトウェアはプラットフォームが統一化されつつあるとはいえ、人工衛星自体はそれぞれが用途に応じた固有技術の塊で、正直ハード面は学校で学んだ事は殆ど役に立たなかった。

 そうして地上と宇宙を往復しながら、時間を見つけては病院を訪れ、日々はあっという間に過ぎていった。


 そして気付くと焼けつくような日差しは過ぎ去り、秋の穏やかな夕暮れが病室の中を満たしている事に気付く。

 けれど心の中はあの五月の蒸し暑い日曜日のまま――じりじりと照りつけ、むせ返る様な熱気に包まれて、その元凶たる脳に焼き付いた景色を目の前のキャンバスに写し出すべく、ひたすら手を動かし続けた。


 絵の中ではぽつぽつと雨が降り、宇宙という水面みなもに小さな波紋を漂わせている。

 その中で赤い傘を差した女性が画面の奥を向いて小さく描き込まれている。

 傘の隙間から見える肩口程の髪が背景に溶け込みそうになりながら、白い服や傘の赤に沿うようにひっそりとした存在感を保っていた。

 地の色は以前の下地からピーチブラックを更に塗り重ね、重苦しい様な暗さを増しつつ、けれど所々に様々な色が散りばめられ、それが宇宙を漂うガスの様に背景から浮き出し、暗い世界に色を添えていた。


 その後も一時間程手を動かし続け、女性と背景の濃淡がまとまったところで手を止めた。

 既に夕陽の橙も薄暗く霞む中、じっくりと絵を眺めて焼き付いた景色と頭の中で見比べる。

 そして満足のいく内容である事を実感すると、一つ大きなため息を漏らした。

「完成?」

 ベッドに横になっていた上永が小さく聞いて来る。

「うん、これでいいかな」

 そう答えると上永はゆっくりと体を起こした。すぐに彼女の傍に行き、体を支え車椅子へと座らせる。

 そのまま車椅子を押して絵の前まで連れて行くと、彼女は何も言わずゆっくりと絵を鑑賞し、僕は横で道具を片付け始めた。


 どの位経ったのか、彼女はゆっくりと口を開いた。

「秋史君には宇宙はこういう風に見えているのね。

 幻想的で物寂しくて。秋史君の言っていた孤独とか静寂とか、そういうものが少しだけ——分かる気がする」

 それを聞いて片付けを中断し、彼女の横に立って一緒に絵を眺める。

「ありがとう。気に入って貰えたなら良かった」

「ええ、とっても素敵だと思う」

 そして彼女は画面中央の女性を指差した。

「この女性は?」

「これは景色を見ている対象そのもの、かな。あの世界は見る人も含めて一つの景色だと思うから。

 だからある意味この女性は、僕自身でもあるんだ。

 それとこの景色の孤独さも同時に表現出来れば、て思って」

「じゃあ……この女性のモデルは秋史君自身?」

 そう聞かれて一瞬言葉に詰まる。

「……いや、特にモデルはいない……かな」

 この時、僕は病院を訪れるようになって初めて——上永に嘘をついた。

「——そっか」

 彼女はそれだけ言うと手を下した。

 終始絵の方を向いている上永の表情は斜め後ろの僕からでは伺い知る事は出来ない。

「この絵はどこかに出すの?」

 彼女は首をこちらに向けた。その表情や声音からはさっきまでの不思議な大人びた雰囲気は消えていた。

「どうしようか……。前は部活だったし色々な人に評価されたいって気持ちもあったけど、今は好きなものが描けて上永と病室に来る人に見て貰えれば、それでいいかなって思うんだけど」

「駄目よ、せっかくこんなに綺麗に描けたんだから。こんな病室の隅で眠らせておくなんて、勿体ないわ。それに他人から評価して貰うのも、大事な事よ」

「そっか……。そうしたらどこかに出してみようかな……」

「それがいいわ。けど今日の所は絵も乾かさなきゃいけないし、置いていくでしょ?

 そしたら後でまたゆっくり私一人で鑑賞させて貰うわ。恋人特権ってやつね」

 そう言って少し笑うと時計を見上げた。

「秋史君明日も仕事なんだし、今日はもう帰った方がいいんじゃない?」

 時刻は既に六時半を回っていた。いくら看護婦さん達と仲良くなって色々大目に見て貰っているからとは言え、あまり甘え過ぎるのも良くないだろう。

「そうだね。絵も完成したし今日はもう帰るよ。

 次また来れる日が分かったら連絡する」

 そう言いながら残った道具の片付けを再開する。

「うん、待ってる」

 彼女はそれだけ言うと再び絵の方へと目を向けた。


 それから十分程で帰り支度を済ませて鞄を背負う。最後に上永をベッドへ運ぼうと彼女の方を向くと、上永は絵を眺めたまま一筋の涙を流していた。

 既に沈んだ夕陽の残滓が僅かに雲を染める中、まるで絵のモデルの様に膝に手を置き身動きもせずにただ涙を流すその姿に、無性に胸がざわめいた。

 片付けたばかりの鞄を下し、そこからノートと炭を取り出すと、この情景を掬い取る様にスケッチを始めた。


 正直、彼女が何故涙を流しているのかは分からない。

 けれどそれが絵に感銘を受けているからではない事は、なんとなく分かった。

 そして恐らく、さっきの嘘に気付いている事も——。

 けれど今の僕には彼女の問に偽らず答える事も、上手に嘘をつき通す事も出来ない。

 だというのに、その結果として流れているであろうその涙を、何故だかとても美しいと感じてしまった。

そしてベッドの頭上にある小さな明りだけが点いた仄暗い病室で、僕は罪悪感も忘れて魅入られる様にその穏やかな顔を描き留めた。


  数分でスケッチを描き終えると、まるで止まっていた時間が動き出したかの様に、上永がこちらを向いた。

「描けた?」

「気付いてたのか」

「途中からね」

 そう言って笑みを見せる彼女の顔は、けれど先程の寂しさをまだ僅かに残していた。

「今度はそれを描いてくれるの?」

「いや、人物を描くのは苦手だから、まず練習してからかな」

「そう? 秋史君ならきっと描けると思うけど。

 まあいいわ。楽しみにしてる」

 そう言いいながらスケッチを見せてとジェスチャーしながら再び笑みを見せる。

 その彼女の表情は、いつもの見慣れたものになっていた。


 ひとしきりスケッチを鑑賞すると、それを僕に返し

ベッドの横まで車椅子を移動させる。

「手伝って貰える?」

 彼女は両手を前に出して僕を呼んだ。

 一つ頷いて彼女の左横に回り込んで肩を貸す。彼女は腕と肩を支えに立ち上がり、反対の肩に捕まって体を反転させベッドに腰掛ける。

 すっかり慣れたいつもの作業——けれど肩に手を回して反転すると、ベッドに腰掛けずに顔を僕の鎖骨辺りに埋めた。

「少し……このままで」

 それだけ言うと彼女は肩に回した手に少しだけ、力を込めた。

 このままでは彼女が辛そうなので両手で腰を支える。

「ありがと」

 まるで羽根の様に軽い。改めてそれを実感し、胸が痛んだ。

「なんでさっき、泣いてたの?」

「内緒」

 答えてはくれないだろうと思いつつ聞いてみたけれど、やはり彼女は顔を埋めるばかりで理由を教えてはくれなかった。


 けどなんでだろう――。

 泣いている彼女は確かに悲しんでいるように見えたのに、それでも何故か――嬉しそうにも見えたんだ。

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