二〇二四年九月二四日(火)

 気付けば、僕とキャンバスを照らしてくれていた日もすっかり傾き、今では後ろの石膏像と、過去の偉人の色褪せた肖像画だけにスポットが当たっていた。

 偉人達はまるでこの時間だけ主役に躍り出たかのように橙色に色付き、一時の輝きを謳歌していた。

三年の夏休みが終わり、同学年の部員達が受験の為に来なくなる中、僕はまだ部室に顔を出し続け、誰と話すでもなくひたすら絵を描き続けていた。

 いつも隣で描いていた上永も例外ではなく、受験勉強の為かいつの間にか部室に顔を出さなくなっていた。


 テーマを宇宙に変えてからの一年は、工学や天文学の勉強をしたり、宇宙の写真を探しては模写するばかりの日々だった。

 写真から得られる情報だけで描いても、満足する絵に仕上がる事はなく、当然自分が満足出来ない絵に色良い評価がつく筈もなかった。

 そのため去年の学展以来、賞らしい賞を受ける事もなくなっていたが、僕自身はそれを全く何とも思わなかった。

 自分の中にあるのはただ、満足する作品を描きたいという視界の色が変わる程の渇望と、その為に一刻も早く宇宙に上がりたいという想いでチリチリと心が焦げる音だけだった。

 しかし周りはそうはいかないらしく、先生達には度々何気ない風を装いながら、僕の調子を尋ねたり、前の様に海を描いてみては――等と遠回しに説得されたりもした。

 実際海は描き慣れていたし、技術も高校生の中では平均以上だという自負もある。それに比べて宇宙なんて描いた事もないテーマでは、試行錯誤の繰り返しだった。

 けれどそんな試行錯誤で賞も取れない絵を描き続ける事を若干悪いとは思いつつ、その説得を聞き入れる事はなかった。

 母からも渋々とはいえ了承を貰い、僕は満足する筈もない絵を仕上げ、心を焼く火にまた一本、薪をくべつつ空の上を夢想し続けた。


 どのくらい時間が経ったのか、不意に教室の電気が点いた。

「やはりまだ居たのですね」

 明るくなった部屋とその声で我に返ると、いつの間にか外はすっかり暗くなり、自分がグラウンドからの僅かな照明の明かりだけを頼りに描き続けていた事に気付いた。

 横には今来たばかりだろう亀井先生が、いつもの穏やかさで絵を見ていた。

 時計を見ると短針は7に辿り着こうかというところまで迫っていた。

「集中するのは結構ですが、電気も点けずにこんな遅くまで教室に居たら、閉じ込められてしまいますよ?」

 亀井先生はそう言って笑い、今度は横にあった出来上がったばかりの絵に目を向けた。

「これは……月ですね。宇宙を題材に描き始めてこれでもう何枚に目になりましたかね?」

「もう……忘れてしまいました」

 いつの間にか根を詰めてしまっていた事に気付き、深呼吸をして肩を回しつつ質問に答えた。

「確かにここ一年程今まで以上に精力的に描き続けていましたからね。

 今度は何を描いているのですか?」

「アンドロメダ星雲を描いてみようと思って」

「アンドロメダですか。けれど早寧さねい君、あれは星雲ではなく銀河ですよ」

 やんわりと訂正を受け、少し恥ずかしい想いをする。

「ところで海の絵を描いていた時は大抵何か別のモチーフを一緒に描き込んでいましたが、最近はやっていないようですね」

「まだ描き始めたばかりのテーマですから。今はそういう凝った事はしないで、題材を描き切る事に集中したいんです」

「真面目な貴方らしいですね」

 先生は笑顔のまま目を細め、まだ下地の段階の絵をまじまじと眺めていた。

 そんな様子を見ていて、不意に今まで聞けなかった事を先生に聞いてみようという気が起きた。

「先生はどうして、僕に一度も『海を描け』と言わなかったんですか?」

 色々な先生や、果ては同じ美術部員にまで――テーマを戻してはと助言されたのに、枳殻と亀井先生だけは、その事を一度も口にしなかった。

 きっと誰より僕の美大進学を望んでいたであろう先生がそれを口にしなかったのは、勿論僕の選択を尊重してくれたからだ。それをわざわざ蒸し返すなんて、無粋以外の何物でもない。

 それでも敢えて聞くのは、先生が本当はどう思っていたかを、きちんと聞きたかったからだ。


 先生はいつものように顎を撫でながら少し意外そうな顔でこちらを見ていたが、すぐに元の穏やかな顔に戻ると、とつとつと話し始めた。

「確かに周りの先生達には君が全く賞を取れなくなった事を気にして、私に海を描くよう説得して欲しいと頼まれた事もありましたが、君が海というテーマに悩んでいるのも見ていましたし、何より教師が生徒に賞を取る為に絵を描かせるなんてナンセンスな話です。

 貴方達は学校に賞状や盾を飾る為に、絵を描いているのではないのですから」

「だとしても先生個人はどうなんですか? 自意識過剰かもしれませんけど、先生も僕が美大へ進む事を期待してたんじゃないかと……思っていたんですけど……」

 それを感じていたからこそ、何も言われない事が逆に辛かった。

 先生は、再び出来たばかりの月の絵に視線を移しながら続けた。

「そうですね……。確かに私個人も、貴方に美大への進学と、画家への道を期待しています。

 貴方には才能も、意欲もある。昔の私に無かったものを貴方は持っています。

 けれど人は才能だけを道しるべにすべきではないと、私は思っています。

 そして今の貴方の絵も、それを雄弁に語っている。

 私が貴方に画家を目指して欲しいと思うのは、単なるエゴに過ぎません。 

 かつて私がどれだけ努力しても成し得なかった夢が、あなたになら叶えられる。そしてその夢を教え子が成し遂げてくれれば、自分の慰みにもなる。

 ただ——それだけの事です。

 貴方に進みたい道があるのであれば、それを止めるのはやはりナンセンスです。

 それは学校の意向だろうと、私のエゴだろうと変わりありません。

 それに画家に限らず芸術家と言うものは、とかく頑固なものですから。意見を聞く事はあっても、一度決めた道を他人の助言で変えるような人種ではありませんよ」

 相変わらず穏やかに笑いながら語る言葉に、僕はほんの少し……救われる。

「私はね、人の意志と言うものは、根源的には全てエゴで出来ていると思っています。

 自分の道を選ぶ事も、誰かの支えになる事も、身を挺して誰かの盾となる事も。そうしたいと思ったなら、その理由がどれ程崇高だろうと下卑ていようと、根源は皆——エゴだと思うのです。

 そういう意味では、私が貴方に画家を目指して欲しいと思うのも、貴方が宇宙を目指すのも、どちらも等しくエゴでしょう。

 けれどこれは貴方の将来です。貴方が決めるべき事です。

 なら私の意見を考慮はしても、それを理由にしてはいけません。

 例え私の言葉で道を決めるとしても、それを選ぶのは貴方のエゴなのですから。

 きっと貴方なら大丈夫でしょうけれど、もし道に迷うような事があれば参考にしてみてください。

 そう思っていればこの先、後悔する事も少なくて済むかもしれませんから」

 そこまで話すと改めて時計を確認し、

「さて、片付けてしまいましょうか。帰宅を促しに来たつもりが、すっかり年寄りの与太話に付き合わせてしまいましたね」

 そう言うと先生は慣れた手つきでパレットを取り上げ、ナイフで絵具を落としていった。

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