第5話 サウナーは仏教の夢を見るか
――なんでわたしはここにいるんだろうか。
なんて言う嘲りめいた自問自答を、胸のうちで呟いてみた。
わたしは今、上野にある『肉の大山』の立ち飲みスペースで飲んでいる。
メンチカツをつまみにレモンサワー。コートの襟を揺らす風が、すこしつめたい。
マイサウナの1つである御徒町・プレジデントに行く前は、ここで一杯引っかけることが多かった。そこに向かおうとしているのだから、いま『肉の大山』にいることは、私にとっては普通なことだ。
なのにこんな嘲りが出てきたのは、うら寂しい気持ちが胸のうちに潜んでいるから。なぜ寂しいのか。ここ最近、まったくと言っていいほど整えなくなってしまっているからだった。
「お悩みのようですね」
そんな声が聴こえてきた。隣の客が話しかけてきたみたいだった。
ちらと見れば、ハンチング帽を被る男。帽子の下は、どうやら剃髪しているようだった。
「お坊さんですか?」
わたしは訊ねる。彼も同じく、肉と酒を手にしていた。
「ええ、そうですよ」
そう言って笑い、両手に持つものを揺らした。生臭坊主のくせに、どこか愛嬌がある。
立ち飲み屋で隣あった気軽な縁だと思って、私は自分の気持ちを話してみようという気持ちになっていた。最近、整えないこと。サウナセンターやマルシンスパ、草加健康センターでもまったく駄目だったこと。足を伸ばして静岡・しきじまで、飛行機を伸ばして熊本・湯らっくすまで行ったが、徒労に終わったことまでを。
一通りの話を終えると、お坊さんはレモンサワーをぐびっと一口飲んだ。
「仏教でいう求不得苦ですね。求めるものが手に入らないという苦しみ。手に入ったとしても、それを失うんじゃないかと人間は苦しみ続けますし、手にした歓びにも慣れ、もっと欲しいという執着がわたしたちを苦しめる」
なるほど、とわたしはおもった。酒を飲みながら説法を交わすこのお坊さんを、少しずつ私は気に入りはじめていた…。
やがてお坊さんと別れた私は、予定よりも少し飲み過ぎた酔いを覚ますために上野恩賜公園を散歩していた。火照った体がまた冷え始めた頃合いで、私は歩く方角を変えて、御徒町へと向かった。いつもののれんをくぐる。
わたしはサウナ室でお坊さんの話を思い出す。2杯目のレモンサワーを口にしながら話していたことを。
「日本には古くから温浴文化、今日一般的な”温かい湯舟に浸かる”があったと思っている人が多いのですが、古代のお風呂は、”から風呂”という、蒸し風呂の一種だったという説があります。要は、サウナですね。この”から風呂”は近畿や瀬戸内海周辺にはちらほらと遺構が残っていて、未だに入れるところもいくつかありますが、そんな”から風呂”が修繕されつつ残っているところの1つが、『法華寺』という奈良のお寺だったらしいんですよ…」
この『法華寺』とは、8世紀に光明皇后という人が建てたお寺だ。
この人は聖武天皇の妃で、この聖武天皇とは東大寺の大仏(あの修学旅行で行く巨大大仏さん)を建立した人。さらにいえば、公明皇后は初めて天皇の臣下が天皇の后になった人で、この后は藤原家の人間だった。日本史に疎い人でも、「平安時代には藤原家が権力を握った」などの知識を持っている人は多いと思うが、要はその始まりになった人、と言ってもいいと思う。
で、この光明皇后だけど、けっこう良い人だったらしい。
飢饉や病気、災害などで苦しむ人を救うための施設をつくったのだ。なんとそこには、”から風呂”もあった。サウナは、古代から健康に良いとされてきたのだ。
そこで「私、千人の垢を取る!」と宣言をして、民衆のためのアカスリを始める光明皇后。これには側近も慌てふためき、高貴なお方がすることではありませんよと諫めるばかりだったが、もう気持ちが入っちゃっている后さんは、腕をぶんぶん振り回し、さあやるわよ、さあさあさあ、と息を巻く。
はああ、と深いため息を吐く側近たち。そんな彼らを横目に、民衆の中では評判が評判を呼んで、”から風呂”は、民衆に愛される場所になっていた。
そしてついに千人目が来た。この千人目の民というのがとてもやっかいな皮膚病を抱えていて、もう全身が膿だらけになっていた。この人に比べれば、ほかの999人なんて小指の先を切った程度の傷に過ぎないくらいだ。それを、光明皇后は口で吸った。そしてぺっと膿を吐く。これを何百と繰り返して、ようやっと最後の膿を吐き出した。
するときれいになった病人の体が光り始めて、その頭には螺髪(仏像で言うパンチパーマ)ができ、肉髻(パンチパーマの上のこんもり盛り上がったところ)もでき、みるみるうちに仏の姿に変わった。そう、千人目の病人は、実は御仏が姿を変えていたのである…という逸話が、この法華寺のから風呂には残っている。
実際に千年目が仏だったのかはさておき、要は民衆がこのようなストーリを求めたのだろう。高貴なお方の行いが仏のお眼鏡にかなった、という風に。では、なんで民衆はこのようなストーリーを求めたのだろうか。
から風呂=サウナの効能とともにそれを考えると、ちょっと頷ける。今日のように刺激に慣れていない民衆が、から風呂に入って、あの恍惚感と多幸感を味わって、その最中に普段は目にすることもできないような高貴なお方が、自分の垢を取ってくれるのである。
今日的に言えば、橋本環奈が私たちのアカスリをしてくれるのだ。森七菜ちゃんでも、浜辺美波ちゃんでもいい。とにかくアカスリを頼んだら、直接はお目に掛かれない有名でらべっぴんさんがやってくるのである。しかも、あなたはサウナに入るのが初めてだ。
「ちょっとアカスリでもやってもらおうカナ」
という気軽な気持ちでスーパー銭湯に行ってみる。すると受付で、
「アカスリ前にはサウナなどで身体をよく温めてくださいね、水風呂との交互浴も良きですよ」
などと促され、まあじゃあちょっと初挑戦してみるか。といった後の、あの私たちが通り過ぎて、もう二度とは味わうことのできない"整いの初体験"に包まれている最中。
おぼつかない足取りでアカスリコーナーに向かって、台の上にうつ伏せになる。
「はい、じゃあ今日は全身コースですね」と言う三助の声が、妙に酒焼けしている。ちらと顔をみれば、そこにはアカスリ用のミトンのような手袋をはめた橋本環奈…。
サウナ後の恍惚感と、橋本環奈がアカスリをしてくれる高揚感が混ざり合って、どちらがどちらの感情なのかわからなくなる。だけど、橋本環奈アカスリの方が後なわけで、かつサウナの高揚感なんて知らないビギナーからすれば、残る気持ちは「橋本環奈のアカスリ、マジで悟りなんですけど…」
という感想だけなのだ…。
なんていう馬鹿な妄想に耽りながら、私は3セット目にいる。
ふふ、と一人笑う私を、端に座っている若い男が怪しげににらんだ。
すでにサウナ室→水風呂→外気浴のセットを2回こなしていたが、
整いの予感は訪れない。たぶん、きょうも私は整うことができないのだろう。
馬鹿な妄想の中で思い出してしまった、"整いの初体験"の恍惚感が得られないのが、もどかしくてたまらない。
サウナに神はいない。もちろん仏もいない。
だが、民衆が生んだ逸話の私解釈では、サウナが民衆に仏を与えたのだ。
ということは私にだって、また整いが与えられるのかもしれない。
これは執着、というものだろう。あの坊さんが言う「求不得苦」なのだろう。
平安時代の人々が"から風呂"で仏を見たように、令和を生きるわたしたちも、サウナ室で仏を見ることは可能だろうか?
それをいつか確かめてみたいと想いながら、私は3度目の水風呂へと飛び込んだ。
サウナに焦がれて もりめろん @morimelon
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