一杯分の思考

愛に纏わる取り留め無き事



 今までの動作も何も関係ない話題が脳内に降ってくることはないか。自分はよくある。因みに丁度今だ。真冬の朝、時刻で言うなら午前七時前の事。魔物の如く身を束縛する蒲団から起きだして早々に寝巻のまま湯を沸かし、何となく紅茶の気分でなかった為にインスタントコーヒーを淹れながら突然……文字通り唐突に気になってしまった。恐らくは常になく甘い話を書きたいと思っていた所為かもしれないし、昨夜読み進めたゲームシナリオの所為かもしれない。八割がた後者だろう。兎にも角にも、愛だの恋だのと言った感情を何故人が持つに至ったのか、軽く考えてみたいと思う。猫舌故に時間はかかるが、朝食終わりの腹休めに珈琲を一杯飲む間、止め処ない思考に御付き合い願おう。

 先だって恋とは何ぞや。手元の辞書に曰く、一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うことであり、またそのこころ、特に、男女間の思慕の情だと言う。此処で肉と精神の性別の事に言及すべきだろうし、議論のし甲斐があるのはよく分かっているのだが、主題ではないので此処では割愛する。

 諸兄らに於いては、愛だ恋だに甘酸っぱいような苦いような思い出を持つ者もいよう。恋愛を発端に起こる事件も振り返れば幾らでもある。恋愛を発端としなくとも、下半身の事情で巻き起こされる悲劇も多い。基本他人に興味のない自分などからすれば末恐ろしく、是も非もなくしたくないと思ってしまうほどだ。

 何より恐ろしいのはこの厄介な愛だとか恋だとかというものが意図的に起こるものでなく、凡そ落ちるものと言われていることだ。そんな押し売りじみた、罠じみた感情なぞあってたまるか。感情であってたまるものか。などと言う俺の心の中など其処等にでも放って措くとして、今現在感情としてそういうものがあるというのは、人類史の長きに渡りこの厄介な感情が排除されずに今日まで来たということは、何か理由があるはずである。自由恋愛は近代からのものであるという議論はこの際措いておく。政略結婚の、因縁の悲劇は恋によって齎されるものだ。

 とある歌にあるように、恋とは心のバグだと言ってしまってもいいのだが、どうせなら動物的に考えてみたい。蓋し恋などというのは感情というよりも動物的本能、欲求に近いのだろう。動物界に於いて、種の存続の観点から強い個体が望まれる。人間社会のように医療が発達しているわけでもなく、社会保障が最低限敷かれるわけでもなく、常に狩られる危険が付き纏う以上当然ともいえる。無論、環境適合の意味から可能性は多くあった方がいいのだが。

 人なども結局は動物であるのだから種の存続という命題からは逃れられない(筈だ)。食欲や睡眠欲から逃れられないように。本能に抗うことを理性というのならば、確かに恋とは理性こころのバグなのだろう。ならば愛すらも理性の敗北なのだろう。愛も恋も動物的存続本能から分岐した感情なのだから。だから時に狂気的にもなるし、争う。行き過ぎれば病にすらなる。無論、だからと言って野放しにしていいものでもないだろう。本能の手綱を握るのが一つ人を人足らしめる所以の筈だ。

 ならば何故に、本能として恋があるのか。抑々感情とは何か。怒りとても領域を侵されたことへ対する焼け焦げた闘争本能だと、滲んだ支配欲だと言われたらそうだろう。欲と感情は紙一重だと思わないか。話が逸れた。人は何故恋をするのか、恋をするようになったのか。一因に人の繁殖形態があるのは確かだろう。赤子を取り上げる困難も、育てる困難も群れる必要性を帯びる。然しただそれだけなら(狼のような事例もあるが)伴侶と選ぶ理由にならない。ならば一つの必然として遺産の相続に際しそれが“誰の血か”はっきりさせなければならなかったのではないか。結果として欲を制御する必要が出、恋になった。なればなるほど、老年が若年を慕うのも、少年が中年に焦がれるのも一つ説明がつく気がする。

 ところでだ。此処からは完全な蛇足になるので、付き合ってやっても好いと言うような奇特な人のみ読み進めてくれればいいのだが、二十世紀最大の知性とも称されるフランスの詩人、 アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー(アンブロワズ・ヴァレリーでも好さそうだが、どうしてか我が国に於いてはポール・ヴァレリーで人口に膾炙している)に曰く、恋愛とは二人で愚かになることであり、我が国の誇る文豪たる夏目漱石に曰く「然し…然し君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」(。しかし夏目はこの後に「とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」とも書いている)。お国柄、時代柄であると言ってしまえばきっとそれまでなのだが、そういったものに押し込めてしまうには聊か惜しい。

 夏目漱石の心が書かれた当時、つまり大正は、明治期に今の愛とキリスト教的な愛の定義が輸入され、自由恋愛とは、人間とはを考え始めた頃だ。それまで日本に於いて愛とは慈悲であり、愛玩であり、仁であった。または執着であり、肉欲であった。然るに愛とは悪しき事であり、隔すべき、排除すべきであった。また物語も専らが説教的であり、予定調和であった。草紙等定型からの脱却をせんと題材文体共に実験手法を多く試みた、故に文豪なのだろう。

 話は尽きないが、珈琲をすっかり飲み干してしまった。先の宣言通り、この思考は此処までにしておこう。

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珈琲休憩 巡里恩琉 @kanataazuma

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