辛抱強い紙
詩は如何あるべきか、小説は如何詠うべきか、と言った持論語りをするのはあまり、好きではないのだが、何処かで一度くらい出しておいても好いだろう。兎も角、先日ふとした拍子に仲間内でそのような話になった。その折に詩については粗方吐き出してしまったので小説についてこの場を借りて少し言及しておこうと思う。
偉大なる先人、菊池寛の「小説家たらんとする青年に与う」と言う作品の冒頭に“僕は先ず、「二十五歳未満の者、小説を書くべからず」と言う規則を拵えたい。全く、十七、十八乃至二十歳で、小説を書いたって、しようがないと思う”とある。彼がそう思うに至った経緯も書いてあって、確かに生活の見えてこないぼんやりとした話は現実味がないだろう。異世界ものにしろ、何にしろ。然し、自分の感性を磨くという意味で、自分の表現を見つけるという意味で、詩人にしろ小説家にしろ十七でも志すには早過ぎないと思う。無論当時と今とでは色々と価値が異なっているから、彼の言う二十五歳は現代に於いては三十と幾許にもなるのだとは思うが。
斯く言う俺が筆をとったのは十と少しの頃で、小説の真似事を始めたのは十三になる前の事だった。当時の作品の大半は就職の為の引っ越しの折に可燃塵に出してしまったから証明するものは(ごく一部の電子データの物を除いて)ないのだが。兎にも角にも、彼が知ったら思い切り顔を顰めそうな年齢だ。だが俺にとっては此れが好かった。感情を詠むこと、出来事を詠むこと、こればかりは自分の感性をどう言葉に落とし込むかであるから、只管自分と向き合う必要があった。何せ、幼い時分より自分がどう思ったか、その感情がいまいち把握できない子供だった。いや、きっと今でも把握できていないのだろう。昔から親との会話は殆どが報告でしかなかったのだから。
少年は詩人たるべきだ、何れ作家になるにしろならぬにしろ。作家は誰しもが詩人であるべきだ。描かれる光景にしろ、心情にしろ、関係にしろ 詩的な美を以て彫り出されねばならない。絢爛華麗な言葉で飾り立てよというのではなく、生み出される幻想の色で以て、紡がれる言葉のリズムによって純朴に謳うべきだと思うのだ。そういう意味で商業としてではなく、内々で、趣味として年若く書き物をするのは悪いことだとは思わない。色んなものを書きつけている内に本当に自分が書きたいものが見えてくることだってある。年若いが故の斬新な表現もあるだろうし、自分が書きたいものと書ける物の差を知る機会にもなる。これが年を食ってからわかると中々悲劇だ。何せ自分が一番認めたがらない。
ところで、虚構を解さぬ無作法者が増えたように見える昨今だが、元々日本に於いては中世より不妄語戒の思想があり、源氏供養などがなされた。歴史物語や日記文学、説話ばかりであったが故に、作品鑑賞に関する作法を習慣としなかったのだろう。でなければ如何して此れ程迄虚構を危惧するものが大声を上げるのだろう。
ついでに言うならば記憶と言うのは本人にとって都合よく改竄されるものだ。学生物が綺羅綺羅しいのも、青春が常に甘酸っぱいのも(その方が大衆受けが良いと言う話もあるが)、回顧が素晴らしく語られるのも、本人にとって都合よく記憶が改竄されているからだ。何より真実がいつも事実と同じとは限らない。そしてその真実がお前に都合いいとも限らない。ならば、生々しい学校生活が書けるのもまた学生の内なのだと思う。無論、物語は現実ではないからこそ共感を得るのだと言うのも承知している。
小説は、なるほど、社会が分かるまで表に出さぬほうがいいのだろう。だが物を書くこと自体は幾つから始めたって好い。早すぎることも遅すぎることもないのだ、屹度、己を挑戦し続ける限り。
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