二十一の段 対決前夜

 5月に入ったある日。江戸えど菰野藩こものはん屋敷やしき


 ご隠居いんきょ雄年かつながさまは、昨夜さくや宴会えんかいを開き、昼頃ひるごろまでぐーすか寝ていました。


 そんな雄年さまのねむりをさまたげる大声が、屋敷中にひびわたったのでござる。


江戸えど勤務きんむこも藩士はんしのみなさーーーん‼ 全員ぜんいん義苗よしたねさまがいらっしゃる上屋敷かみやしきに集合してくださーーーい‼ 今日から、あなたたちの殿さまは雄年さまではなく、義苗さまですよーーー‼」


 屋敷のはしらがビリビリとふるえるほどの大騒音だいそうおん! ピョンピョン左衛門の怒鳴どなり声です!


「な、何事じゃ!」


 雄年さまは飛び起き、部屋の障子しょうじをガラリと開けました。その直後、


「ご隠居さまは、もうちょっと眠っていてくださいです」


 屋敷のにわかくれていたミヤが紙のヒモに火をつけて、雄年さまの足元あしもとにポイッとげたのでござる。

 すると、ヒモからもくもくとけむりが出てきて、その煙をった雄年さまは「う~ん」とうなりながらたおれてしまいました。


「こういう地味じみな忍術は好きじゃないんですが、任務にんむなので仕方しかたないです。イモリ・モグラ・ヘビの血とその他いくつかの薬をぜて紙ヒモにひたし、燃やすと眠たくなる煙が出るです」


 煙を吸わないように顔をぬのでおおっているミヤはそんなことをブツブツ言いながら、ぐーぐー眠っている雄年さまの体をひきずって布団ふとんに寝かせるのでした。







 江戸にもどった義苗さまは、今まで雄年さまと暮らしていた麻布あざぶ一本松いっぽんまつ(今の東京都港区元とうきょうとみなとくもと麻布あざぶ)の菰野藩「下屋敷しもやしき」には入らず、しば愛宕下あたごした(今の東京都港区とうきょうとみなとく西新橋にししんばし)の菰野藩「上屋敷かみやしき」に入りました。


 菰野藩が幕府からもらっている江戸の屋敷はふたつあり、藩主はんしゅが暮らすのが上屋敷、元藩主のご隠居が暮らすのが下屋敷だったのです。

 つまり、義苗さまは今まで殿さまなのに、「まだ子供だから」という理由でご隠居さまのお家にいたわけですな。


「たしかにオレはまだ子供だが、殿さまとしてひとり立ちすることを決めたからには上屋敷に入らなければ。いつまでも下屋敷にいたらご隠居さまの支配しはいからぬけ出せない」


 という決意けついのもと、義苗さまは上屋敷に入ったのでした。


 そして、菰野からついて来たドラぽん、ピョンピョン左衛門ざえもんに命令して、下屋敷にいる藩士たちを上屋敷に連れて来させたのです。


 あわてて上屋敷にやって来た藩士たちは、広間ひろま上座かみざすわる義苗さまを見ておどろき、一人がこう言いました。


「わ、若殿さま! これはどういうことですか⁉ 若殿さまは部屋にこもって南川どのとお勉強をしていたのではなかったのですか?

 毎日、お部屋から『せんせー、ここがわかりません!』『どれどれ、せんせーにみせてください!』という声が聞こえてきていたので、ヤル気のない若殿がやけに勉強をがんばっているなぁ~と不思議ふしぎに思っていたのですが……」


「あのからくり人形、まだ気づかれてなかったのかよ‼」


 もう一か月以上たつのに……。菰野藩士はぼんやりとした人が多いんでしょうか?


「オレは、この一か月ほど菰野こものにいた」


「ええ⁉ 勝手に江戸をぬけ出したのですか? ば、幕府に知られたら大変なことに……」


危険きけん承知しょうちで行った。オレは、自分の領地がどんなところかこの目で見たかったんだ。

 そして、菰野の民たちがまずしさにたえて田畑をたがやし、一生懸命いっしょうけんめいに生きている姿すがたを見てきた。彼らを幸せにするためには、ぜいたくな生活をやめないご隠居さまから菰野藩をうばい、オレが立派りっぱな殿さまになるしかない。そう決意し、江戸に戻ってきた。みんなにも力をしてほしい」


「ご、ご隠居さまから菰野藩を奪う⁉ む、無理無理無理! ご隠居さまに怒られます! よくて切腹せっぷく、悪くて切腹、どっちみち切腹……」


「切腹なんてさせない。みんなはオレの大切な家来けらいだ。殿さまであるオレが必ずおまえたちを守る。

 ……今までは自分には何の力もないと思って無気力な毎日を送っていたが、がんばって成長しようと自分から一歩み出さなければ何も始まらなかったんだ。そのことにようやく気づけた。オレも立派な殿さまになれるようにがんばるから、みんなも一歩を踏み出してくれ。新しい菰野藩を作るために!」


「新しい菰野藩……」


 藩士たちは目を大きく見開き、真剣しんけん眼差まなざしの義苗さまを見つめました。ぐーたら生活を送っていた頃の義苗さまとは明らかに顔つきがちがいます。自分たちの殿さまは本気なのだ、と直感ちょっかんでわかりました。


「新しい菰野藩だと⁉ ふざけるな! 菰野藩は絶対にわたさん! ひこきちに味方したヤツは全員ぜんいん切腹じゃ!」


 うわわ! 雄年さま⁉ もう目をましちゃったんですか?


 藩士たちは雄年さまが上屋敷にあらわれると、ギョッとおどろき、「あわわ……」とおびえました。


「おびえるな! 殿さまのオレがおまえたちを切腹させたりなんかしない!」


 義苗さまは上座からおりると、家来たちをうしろにかばい、雄年さまとにらみ合いました。

 ミヤ、南川みなみかわ先生、ドラぽん、ピョンピョン左衛門、ハギちゃんも義苗さまを守るため、義苗さまの左右に立ちます。


彦吉ひこきち。子供のおまえではまつだいら定信さだのぶ足元あしもとをすくわれる。菰野藩の政治はワシにまかせるのじゃ!」


 雄年さまは、大声で怒鳴ったら子供の義苗さまは大人しくなるだろうと思い、そうえました。

 しかし、雄年さまにビビっていた物語前半の義苗さまではもうありません。義苗さまは凛々りりしい声で「いやです」とハッキリ言いました。


初心しょしんわすれてしまったご隠居さまには、菰野藩をまかせることはできません」


 義苗さまの言葉に、雄年さまはピクリとまゆを動かして苦しげな表情になりました。


「……『初心忘るべからず』。それは弟が好きな言葉ではないか。そうか、おまえは義法よしのりと会ったのだな」


「はい。オレは馬公子まこうしさまからたくさんのことを教わりました。あの人は、ご隠居さまが菰野を守ろうとがんばっていた頃の初心を忘れて堕落だらくしてしまったことをとても悲しんでいましたよ」


「ぐ……うう」


 おやおや? 馬公子さまの名前が出たとたん、雄年さまの元気がなくなりましたよ?


「……あいつには悪いことをしたと思っている。他の弟たちが他家の養子ようしへ行く中、『兄上の政治を菰野からささえたい』と言って菰野藩に残ってくれた。

 そして、好きな女がいたにもかかわらず、『オレがよめさんをもらったら金がかかるから』と結婚すらあいつはあきらめたのだ。そこまで菰野藩のためにくしてくれたのに、ワシはぜいたくな生活からぬけ出せなくなってしまった……」


 どうやら、雄年さまにとって馬公子さまは弱点ウィークポイントだったようですな。心のそこでは自分が堕落だらくしてしまったという自覚もあったようです。


「本当はおまえに菰野藩を任せたほうがいいのかも知れない。……しかし! 菰野藩は松平定信に目をつけられている! ワシが定信めにきらわれても好き勝手やってこられたのは、ワシがあいつの『世間せけん暴露ばくろされたらこまる秘密』をにぎっているからだ。

 ワシだったら定信と戦えるが、逆に弱みをにぎられているおまえでは無理だ。定信はたくさんの隠密おんみつやとっているから、おまえが江戸を勝手にぬけ出したこともすでに知っているだろう。のこのこと江戸城に登城とじょうでもしてみろ、江戸えど脱走だっそうつみ将軍しょうぐんさまの前で追及ついきゅうされて菰野藩はお取りつぶしにされるぞ」


「それを覚悟かくごの上で初登城にいどむつもりです。こっちにも切りふだがありますから」


 義苗さまは、尾張の殿さま・チカじいが味方になってくれることを説明しました。


「弟のヤツ、温泉をエサに尾張の殿さまを味方にしたのか。なかなかやるではないか。……だが、それだけでは不安だ。定信という男を甘く見たらいかん。おまえも将軍さまの前であいつの秘密を暴露ばくろしてやれ」


「定信さまの秘密とは、何ですか?」


 義苗さまがそう聞くと、雄年さまはおどろくべきことを口にしたのでござる。


「定信は田沼意次さまのことを汚職おしょく政治家せいじかだと非難ひなんしているが……あいつも出世するためにワイロをおくったことがあるのだ。他ならぬ田沼さまにな。田沼さま本人から聞いた話だから、まちがいない」


 ええー⁉ それって、今だと内閣ないかく総理そうり大臣だいじん不祥事ふしょうじ発覚はっかくレベルのニュースでは?


「こうなったら対決たいけつだ。このネタを使って定信に勝て。おまえが定信に勝つことができたら、ワシはおまえに菰野藩の全てを任せる」

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