二十の段 初心を忘れるな

 いのしし騒動そうどう奇跡的きせきてきに一日で解決かいけつしました。義苗よしたねさまたちががんばったからですね。


 そして、翌日。大相撲おおずもう菰野こもの場所ばしょ庄部しょうべ神社じんじゃ盛大せいだいにおこなわれたのでござる。


 義苗さまがおどろいたのは、予想を大きく上回る見物客けんぶつきゃくが菰野にやって来たことでした。


 やはり、江戸相撲の大スターである谷風関たにかぜぜき小野川関おのがわぜきの活躍をみんな見たかったのでしょう。伊勢いせのずっと南の地方からも見物客が来てくれました。


 もちろん、菰野藩のおかかえ力士であるハギちゃんを応援おうえんするために、菰野の民たちもたくさんけつけ、大喜びで相撲を観戦かんせんしました。今日ばかりはつら農作業のうさぎょうもお休み、お祭りさわぎでござる。


「うわー! ハギちゃんが対戦相手たいせんあいてを投げ飛ばしましたよ! すごいです! ……あれ? 殿さま? 手を合わせて何をブツブツ言っているのですか?」


「相撲は神さまにささげる神事しんじだからな。菰野の民たちがえに苦しまず、生まれてくる子供たちを泣き泣き殺さなくてすむように、菰野の大地にゆたかな実りをおあたえくださいといのっていたんだ」


 義苗さまはそう言ってミヤにほほ笑みました。


(義苗さま。最初会った時よりも、ちょっと大人っぽくなったような気がしますです。知り合ってまだ一か月ぐらいしかたっていないのに、不思議ふしぎです。少しドキドキしちゃいます)


 きっと心が成長したから、顔つきも大人びてきたのでしょう。この一か月、本当にいろんなことがありましたものね。


「はーはっはっはっ! 見事な名試合じゃ! さすがは江戸相撲で一、二をあらそう谷風関と小野川関じゃな!」


 チカじいも、谷風関と小野川関の白熱はくねつのライバル対決たいけつに大満足のご様子ようすです。


 どっちが勝ったのかは、拙者せっしゃがおしっこをしている間に勝敗しょうはいが決したのでわかりません。

 痛い、痛い! 物を投げないでくだされ! ごめんなさい!


「殿さま! こんなにもたくさんのお客さんが菰野に来てくれたのは初めてです! きっと、相撲が終わったら陣屋じんやまちや湯の山の温泉街おんせんがいで遊んでお金を落としていってくれるにちがいありません! これで菰野の町も少しはうるおいますぞ!」


 ドラぽんは胃の痛みも忘れて、大はしゃぎしています。


 でも、ドラぽん。とーっても大事なことを忘れていませんか?


「……隠密おんみつたちに破壊はかいされたシシ垣を修理しゅうりしないといけないからな。かなりの出費しゅっぴを覚悟せねば」


 馬公子まこうしさまが苦笑しながらそう言いました。つまり、かせぎはプラスマイナスゼロ。


 ドラぽんは「そ、そんなぁ~! ……また胃が痛くなってきた」とがっかりするのでした。


 たぶん、菰野藩の借金問題は一朝一夕いっちょういっせきでは解決できないでしょう。これから、義苗さまと菰野藩の仲間たちが協力して何とかしなければ。そうですよね、義苗さま?


「そうだな。オレは菰野の民と家来たちを必ず守ってみせる。……ただ、そのためにはどうしてもやらなければいけないことがある」


 え? それは何ですか?


「オレはご隠居いんきょさまから――」







 大相撲の興行こうぎょうが無事に終わったその日の夜。


 義苗さまと馬公子さまは、二人きりで湯の山の温泉につかりながら、語り合っていました。


「チカじいさまは明後日あさっての朝に菰野を出て、江戸へ向かうそうです。オレもチカじいさまの一行にくわえてもらって、江戸に帰ろうと思います」


「そのほうがいいな。尾張のお殿さまの家来けらいのふりをしていたら、道中どうちゅうも安全だろう。まつだいら定信さだのぶさまの隠密たちも手が出せないはずだ。

 ……定信さまが義苗どのの江戸えど脱走だっそうつみ追及ついきゅうしてきた時は、チカじいさまと話し合った作戦通りにするんだぞ。あの方は義理ぎりがたい殿さまだから、必ず力をしてくれる」


「はい、わかりました」


 義苗さまが力強くうなずくと、二人はしばらくだまりこみました。しかし、沈黙ちんもくが流れている間、二人は同じことを考えていたのでござる。


 十秒ほどの沈黙の後、二人はほぼ同時に言いました。


「オレ、ご隠居さまから菰野藩をうばい取ります」


「義苗どの、兄上から菰野藩を奪い取ってくれ」


 馬公子さまは、義苗さまが自分と同じ考えだったことに一瞬いっしゅんおどろいた後、フッと笑いました。


「とうとう、殿さまとして覚醒かくせいしてくれたのだな。菰野をみずからの手で守る覚悟かくごをしてくれて、ワシはうれしいよ」


「今のまま菰野藩をご隠居さまにまかせていたら、菰野藩は借金まみれで破産はさんします。それは、菰野の人々に大きな苦しみをあたえてしまう……。

 オレは、江戸にもどったら将軍さまに拝謁はいえつ(身分の高い人に会うこと)して、菰野藩の大名だと正式にみとめてもらいます」


 大名には、毎月決まった日に江戸城えどじょう登城とじょうして将軍さまにあいさつをする決まりがあります。


 しかし、義苗さまは今まで「まだ子供だから」という理由で免除めんじょしてもらっていました。参勤さんきん交代こうたいも、同じ理由で免除されていました。言ってみたら、半人前はんにんまえあつかいをされていたのです。


 ご隠居の雄年かつながさまは、


彦吉ひこきちはまだ江戸城への初登城も、初めての参勤交代もすましていない半人前だから、ワシが菰野藩の政治をやる!」


 と言い張っているのです。


 だったら、将軍さまに拝謁して「一人前の殿さま」だと認めてもらえばいい。義苗さまはそう考えたのでした。

 一人前の殿さまあつかいされたら、参勤交代の義務ぎむしょうじ、将軍さまのために色々と働かされることになりますが、雄年さまに菰野藩の政治をやらせるよりはマシです。


「なるほどな。そうすれば、兄上から政治の実権じっけんを奪うことができるだろう。……ただ、ひとつだけ義苗どのにおぼえておいてもらいたい言葉があるんだ」


「何でしょうか」


「『初心しょしんわするべからず』だ。室町むろまち時代じだい能楽のうがく大成たいせいさせた世阿弥ぜあみの言葉で、『何事なにごと初心者しょしんしゃだったころの自分の未熟みじゅくな姿を忘れてはならない』という意味だ。

 人間はちょっと成長できたと思うと、学び始めた頃の未熟だった自分の姿を忘れてしまう。すると、だんだん調子ちょうしに乗り、それ以上いじょう成長しようという気持ちを失ってしまうものなんだ。

 だから、義苗どのも『立派な殿さまになろう』と決心した今の自分を忘れず、未熟だったあの頃にくらべて自分はどれだけ成長できただろうかと時々ときどきり返ってくれ。そうしたら、義苗どのは大人になっても人間的に成長でき、菰野藩をすく名君めいくんになれるだろう」


「はい、わかりました」


「……兄上も初心さえ忘れていなければな。あの人も、昔は菰野藩のためにがんばっていたんだ」


 馬公子さまは悲しげに目をふせ、雄年さまの過去かこかたりました。


「兄上は、たった5歳で殿さまになった義苗どのと同じように、8歳で菰野藩主はんしゅになった。あのころも菰野藩にはたくさんの借金があってな……。しかも、藩主がまだおさないことをいいことに藩の政治を好き勝手する悪い家来けらいたちがいたんだ。

 大人になった兄上は悪い家来たちを追放ついほうした。そして、菰野の民たちの暮らしを少しでもよくしようとがんばった。そこで考えた作戦が、幕府ばくふ最高さいこう権力者けんりょくしゃ田沼たぬま意次おきつぐさまと仲良くなることだった」


「あっ、その話は知っています。ご隠居さまはある目的があって、後継あとつぎだった自分の息子を見捨みすてて、田沼さまの三男を養子ようしむかえたと聞きました」


「……見捨てたわけではない。父と子の仲はとてもよかったのだ。しかし、どうしても田沼さまと仲良くなり、そのコネで幕府から命令される課役かえき免除めんじょしてもらいたかったんだ。借金だらけの菰野藩には、幕府にしつけられる仕事をこなす金なんてないからな」


 課役とは、大名たちが将軍さまのために色々とお仕事をさせられることです。

 川が洪水こうずいにならないように工事をしたり、どこか重要な場所を守ったりなど、ぜんぶ大名たちの自己負担じこふたんでやらされました。だから、課役をやらされると、すごくお金がかかったのです。


 雄年さまは、田沼意次さまと仲良しになってその課役を免除してもらおうとしたわけです。

 江戸屋敷の家来けらいが義苗さまに「ご隠居さまはある目的のためにご子息しそく廃嫡はいちゃくした」と言っていたのは、このことだったのですな。


「それが、ご隠居さまの目的だったんですか……」


「兄上は泣く泣く息子を後継ぎ候補こうほからはずし、田沼さまの三男・雄貞かつさだどのを菰野藩主にした。そこまでして菰野藩を守ろうとしたのに……その後で兄上は変わってしまったのだ。

 田沼さまと友達づきあいをするために、兄上は田沼さまが開く豪華ごうか宴会えんかい参加さんかするようになった。そこで田沼家のぜいたくな生活を知り、自分までぜいたくにおぼれるようになってしまったんだよ。初心を忘れてな……」


 ああ~……。そういう事情じじょうがあったのですか。田舎いなかの小大名が幕府の最高権力者のぜいたくな暮らしを見て、あこがれちゃったわけですねぇ~。


「だから、義苗どのには初心を忘れてほしくないんだ。お願いだから、今の気持ちをなくさないでくれ」


「わかりました。絶対ぜったいに、忘れません」


 馬公子さまにそうちかったこの時から、土方ひじかた義苗さまが名君を目指めざ努力どりょくの人生が始まったのでした。

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