04_MECEの取引
もし秘密のファイルを道端で落としてしまっても、たとえ誰かに取られてしまっても、この錠前を外せるのは事前に“合鍵”を渡したあなただけ。私と同じ形の鍵を持つ者だけが開けられる。『共通鍵暗号』は古典的だが、暗号化技術自体が進化して鍵の精度が向上したことで今でも通用する方式になっている。では一級のハッカーがその鍵をかけたなら? ドアの向こうでも宝箱の中身でも、繋がりの無い者がそれを覗き見ることは不可能となる。復号してそれに触れるのはハッカーから精巧な合鍵を渡された者だけだ。
——あるいは、そのオリジナルを手にした者か。
「エスティ—、何故あなたは自分の作ったプログラムに名前を付けるの? しかも外国の女王様の名前よね」
彼は答えた。キミは子どもの頃に“工作”をしたことがないかも知れないが、大人から見ればかなりお粗末なものでも、その少年が自分で作り上げたそれは彼にとっては世界で一番かっこいいロボットでありスペースシャトルだったのだ、とか。……というのは少々子供騙しで、具体的には愛着と責任だという。AIにまで至らずとも、『0』と『1』を一つ入れ替えるだけのロジックでもいい、何かを実行する使命を持って生まれた存在。その作り手として使命の完遂を見届けるということ。彼の創意にも技術にも何度も驚かされたが、私が一番気に入っていたのは彼のそんな少し変わった感性だったのかもしれない。
無罪の厄災『HUGE-SIZE』を相手にした凄腕のハッカーは、その後に新たな女王『エリザベス』を作り上げた。
* * * *
『——以上。ハッカーXの調査は続けてもらうが、一先ず心配は要らないと考えて良いだろう。波島、後藤は後でこちらに繋げ。広域の——』
枝梨カオルの身体に入り直してターミナル室を出た私は、原田と一緒にメインモニタに映った上司の状況連絡を聞いていた。要旨をまとめると『犯人は掴めないままだが、乗っ取られてリフレクターに向けてミサイルを発射するかもしれない自軍の砲台は既に完全停止させたから安心しろ』とのこと。ミサイルで白い犬を狙うと犯行声明を出した者にはやっと“ハッカーX”なるコードネームが付いた。メインモニタから偉い上司の顔が消えて元のトラフィックグラフと数値群が映ると、立ち聞きしていた数名の職員が持ち場に戻り始める。自席で視聴した職員たちも無表情で枠を一つ閉じた。原田も素直に気を抜くのかと思ったが、何やら複雑な顔をしている。
「何か気になることでも? 砲台を暗号化して隔離するのは良い判断だと思うけどな」
「いや、単純に犯人の技量が分からないから安心しきれなくてさ。それに……」
言葉が途切れて、彼はツンツンとした短髪に手を触れた。
「それに?」
「部長の台詞が妙に何か起きそうな気がして。いや、古いネットスラングで“フラグを立てる”ってやつ……。気にしないでくれ」
「“それでも何か起きるんじゃないか”と思える方がセキュリティ省の職員としては優秀だよ。まあ気合を入れて調査を続けよう。ハッカーXの正体が分からないのは俺も納得できないからね」
「ありがとう……よし」
気合の入った原田は自席に戻った。
原田の勘には賛成で、あれでは安心材料として少々心許無い。セキュリティ省自慢のミサイル——対脅威因子ソフトウェア『JST-02』は確かに凍結でも暗号化でもして無害化した上で隠せるだろうが、それにしても犯人の尻尾が掴めないのは気になる。原田の言う通り「自分たちの物は良く知っている“けれど、”」と後に続きそうなのだ。その“自分たち”というのも一癖あって、JST-02の元々の設計は民間会社だったような気がする。
今セキュリティ省内でこのハッカーXの対応に当たっている要員は全体の一割にも満たないだろう。全世界の人口が減少へ向かってからある程度の時間が経って、重要度の増すこの分野でさえ生身の人間の人手不足は否めない。黒い都市に敷き詰め張り巡らされたシステムの運用保守がAIを味方に付けた上でも大きな負担になっている。JST-02が停止できたのは単に幸運だっただけで、直近の脅威や国同士、国内での揉め事が懸念事項に挙がらないからだ。このところの話題をさらう宙に浮いた水滴は今のところ誰の敵でもない。
(ん?)
やっと自席に戻ったところでハンディがメッセージ受信を示した。セキュリティ省支給のものではなく私物の方。差出人はイトマだが、彼の“手動封蝋”が付いていない。忘れたのは最初の頃の一回だけだったはず。件名は『一人になってから開封せよ』となっている。
「あれ、コーヒーでも買いに行くのか?」
「俺がリモート義体なの知ってるだろ。ちょっと別アプローチ」
声を掛けてくれる原田に礼を言ってフロアを出た。
灰色と紺色の廊下を少し進んで、無人サーバルームの奥の階段手前で周囲を探って他にヒトがいないことを確認した。赤い板状のデバイスを取り出してメッセージを開く。
『クロイト・カズマは無力化した。見ての通り彼のハンディデバイスから発信している』
イトマの本名か。誰だか知らないけれど画面の向こうに黒マントの男でもイメージしておけばいいかな。
『エダナシ・カオル、お前に話がある。取引と言ったほうがそれらしいだろう。私はミーシー・ストームチェイサー。ハッカーだ』
一通目はここで途切れる。こちらの反応待ち。イトマに接触して『枝梨カオル』を突き止めたのならハッカー宣言に嘘は無さそうだ。ハッカーXが名指しでコンタクトを取りに来たのかと一瞬考えたがその可能性は低い。枝梨カオルはセキュリティ省の要人でも何でもないから。
『私の所属は知っていますね。私個人の判断では動けないものと思われますが。貴方の求めているものと、その対価は何ですか』
意図的にお堅いお役所の人間のイメージが描けるような返事をして相手の出方を窺う。それにしても“竜巻の追跡者”か。まさかね。
『お前が持っている無罪の厄災の情報を提供しろ。対価はリフレクターを狙うハッカーの情報だ。先に“貸し”を作っておく。JST-02は既に複製された。お前たちはハッカーXに侵入を許している』
「嘘……」
そのまさか以上、最悪のカードが二枚。どこで枝がついた? 咄嗟に私情を優先しようとした『井沢アヤ』を制して取るべき次の手を考える。侵入と複製は考えたくないが事実なのだろう。こいつがわざわざ私にそれを伝えてきたのは、ここで私が被害を確認しに動いても間に合わないからだ。——それでも何か起こると考えろ、か。これは流石に冗談としか。
『いつもの自販機の前に今すぐ来てくれ』
もうひとつの青いハンディを左手に、まず原田に協力を仰ぐ。私……俺はコーヒーは飲まないが原田と立ち話ならする。こいつの言うことがもし事実なら大問題どころではない。だがJST-02近辺の防壁が破られるなんて——
「……バックドア」
突然自分が“当事者”の枠に突き落とされたような感覚になる。JST-02のオリジナル製造元、関係者を洗い出せるか? それにミーシーなるハッカーが要求した情報は井沢アヤの持ち物だ。セキュリティ省の枝梨カオルとスクール先生の井沢アヤを結び付けるのは絶対に避ける。では、例えばそれで片方を捨てることになるとしたら?
私は——厄災を選ぶかもしれない。
* * * *
「身元不明の野良ハッカーから情報提供を受けたことにするのは?」
「信頼できる情報として報告するだけの材料が無い」
「じゃあ俺が偶然突き止めたってのは……あまりにも出来過ぎか」
ハッカーXの侵入とJST-02の複製は事実だった。ログデータから通信経路と通信量を追い始めてすぐに“明らかにこちらに宛てたメッセージ”を見つけたのだ。『セキュリティ省の諸君、私はリフレクターを狙うハッカーである。JST-02はコピーした』と、そう書かれている。ログ自動解析プログラムが並べ始めた結果とアラートが全てこれを裏付けていく様子を呆然と眺めていた原田がついに声を上げた。
個室に彼の叫びを押し込んだ私は二人の脳で次の一手を考えていた。無様に焦っているのは事実なのだ。確証は得た、だが報告には一つ足りない。“何故下っ端の枝梨カオルがそれを知り得たのか”。製造元の共犯者が摘発を恐れて最初に翻った? いや、身元は作り込んである製造元とは関係が……
「分かった、俺が情報提供を受けたことにしよう」
「だからそれじゃ……」
「違う、枝梨じゃなくて俺が報告するんだ。野良ハッカーのメッセージを見て30秒考えて、ログを3分調べて頭が真っ白になってとりあえず報告した、それでいけそうじゃないかな? 冷静な枝梨が報告するより短気で直感タイプの俺の方が違和感が無い。俺が最初に枝梨に相談したから枝梨も同席する、正常性担保のオブザーバとして、ってのもできる。手柄がどうって考えじゃもちろんない」
「……いいのか?」
「だって知っちゃったんだぞ。これで皆が動くにしても動かないにしても一刻も早く事実を突き付けるべきだと思う」
あまりにも正論だ。原田が恐ろしく頼りになる男に見える。それと対照的に“隠し事”に手を付けられそうになった私はこんなにも脆く危ういのか。私が今まで冷静を演じ切れていたのなら今こそ冷静にならなくては。
「申し訳ない。せめて原田の評価にマイナスの影響が出ないように手を尽くすよ」
「いいって、この前も野暮用頼んじゃっただろ。よし、決まったなら手早く動かないと。……これってやっぱりマズい状態なんだよな」
「恐らく……かなり」
ハッカーX自身が公言していない情報の中に極めて重要なものがある。決行のタイミングだ。現実に聳え立つ鉄壁の城塞に攻め込もうものなら軍隊なり戦車なりをどこかに隠しながらでも準備する必要があるだろう。電子の世界でも準備が必要なことには変わりないが、その探知や兵力の把握は極めて難しい。リフレクターはあくまで一般ネットワーク上に存在するが、故に突貫工事で壁は作れても道路や通路やチューブやらを完全には遮断できないというリスクがある。もう一つ、秘密裏に造られた隠し扉は空間の位置座標に突然現れてしまう。恐らくJST-02とリフレクターがお互いの空間から向かい合う形になる最悪の扉が。
セキュリティ省側はそれなりに急いで壁の建設を進めているが、実際のところハッカーX側の次の動きを罠を作って待っているような状態だ。JST-02は封じたつもりでいるから余計に危ない。原田とはどの事実を見せてどこまでどう伝えるのかを急いで確認し、一人でメインルームに戻ってもらった。枝梨カオルのやることは二つ。JST-02の仕組みとこれに繋がり得る『コード』をなるべく短時間で頭に入れることと、ハッカーXから情報を聞き出すことだ。
「私を庇っていられる余裕はあるかな」
一人予備ターミナル室に取り残された義体が呟く。
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