第08話 いつものように来る、世界の終り

 次の日、会社に来ていくコートのボタンが一つないことに気付かず出社したのだが、それに気づかせてくれたのは吾忍辺あしのべさんだった。


「すいません! どうやら多楽多たらくたさんのコートを掴んだ時にボタン千切っちゃったみたいで」


 ダブルのトレンチコートの内側のボタン。言われて見てみないと気付かない場所であった。何しろ最近暖かく、ボタンを嵌める機会がない。


「ああ、大丈夫ですよ」


 ボタンを受け取ろうと手を出すが、吾忍辺さんからボタンが出てくる気配がない。


「差し出がましいかもしれませんが、私に直させてもらえませんか?」


 実際僕自身裁縫の経験がないのでそうしてくれると助かる。が、どうやって直すのだろう。まさか仕事中にというわけにはいかない。駅のホームで直しているシュールな光景が思い浮かんだが、なぜだか彼女がやっていると思うと別に違和感はなく寧ろ微笑ましくさえあった。


「どこで直す気ですか?」

「家で直してくるので貸してください」


 バイトが終わり、二人で外に出た時、予想外の冷気に二人は身を縮こめた。

 昨日とは全く違い、寒く、とてもコートが手放せるような状態ではなかった。


「すいませんが、今日は無理そうです」


 久しぶりにコートのボタンをめながら言う。


「こちらこそすいません。予想していませんでした」


 恥ずかしそうに申し訳なさそうに言う。


「そういえば、夕飯ってもう食べました? 良かったらご一緒しませんか」

「え!?」


 そんなにびっくりしなくても。嫌だったのかな。いや、待て。考えても見れば当たり前だ。二人はまだ出会って二日。常識的に考えたらまだご飯に誘うような親近感など湧かないはずだし、湧いていたとしても誘わないのが普通だ。僕が勝手に打ち解けられたと思っているだけで、向こうがそうだとは限らない。


 恥ずかしい事をした。


「すいません。なんか」

「いえこちらこそすいません! 男の人にご飯に誘われるのは初めてで取り乱してしまって!」


 吾忍辺さんは顔を真っ赤にしながらグシグシと髪の毛をかき乱した。


 そう言えば僕自身内向的なタイプなので、人をご飯に誘ったこともあまりない。そういうことに言われてから気付く。気付くとなぜだか遅れて自分も顔が熱くなる。熱くなった顔に冷たい夜風がちょうどよかった。


 二人で夕食を食べながら、会話を楽しんだ。

 今日は結構筆が乗ってたくさん書けたと吾忍辺さんは自分の功績を語った。僕はというと5つほど考えた設定の4つが既製品に似すぎという指摘を受けたということを話した。1つが通ったからまだしばらくこの会社に居られそうだと伝えると、まるで自分の事のように喜んでくれた。その姿が堪らなく嬉しかった。


 今日は昨日より時間が遅いせいか、昨日より電車は空いていた。

 おかげで座ることができ、また会話することができた。


 電車内には暖房が掛かっており、少しお酒を飲んだこともあり、彼女が眠そうにしていたので、僕は話すのをやめた。程無くして彼女は眠りに落ち、僕は肩を貸した。

 安心したようにスヤスヤと眠る彼女の横顔を見ていると、昨日会ったばかりの人だとは到底思えなかった。まるでずっと昔から付き合っている恋人のようだ、と考えているのは僕だけだろうか。生まれてきた場所も進んできた道も全く違うのだが、それでも二人はどこかで繋がっていたのかもしれない。夢に焦がれ困難に立ち向かいながらも堕落し、あざ笑われるのが怖くて逃げ込んで隠れても見透かされて。逃げたことも、臆病なことも、諦めたことも、諦めきれなかったことも、何もかも知っている誰かが居る。そいつに脅かされ、襲いくる日常に吐き気を催しながら、だけれどもそれにもいつしか順化していって、そいつの視線を気にしないように生きていけるようになった。それなのにそいつは僕が鏡の前に立った時現れて、このままでいいのかと問い掛けてくる。簡単に堕落する癖に堕落した自分には厳しい自分。そんな監視者が毎日傍にいるという日常。そういう点で繋がっているのだ。まあ、彼女は自分自身が監視者とは一言も口にしていないので、勝手な妄想になるのだけれども。


 車内のアナウンスが次の停車駅を伝える。


 ああ、あと一駅で彼女が降りる駅だ。

 そろそろ起こさないと。


 でもそうするとこの肩の温かさも消えてなくなる。

 二人の世界が音もなく終わる。


 きっと本当の世界の終りもこんな感じで、じゃあまた明日ねという具合にその時が来るような気がした。

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