第07話 白詰草と出会う

 残念ながら鎌富かまとみさんに認められた僕は、そのまま2時間ほどレッスンを受けて執筆の部屋の方に戻った。どうやら四週間後に歌のコンテストがあるらしい。研修が終わるちょうどその時に実力を試せるようだ。チラシに書いてあった試験とは多分これのことであろう。ならば小説は四週間後に書き上げた作品をどこかに応募するということになるのであろうか。


「その通りだよ」


 部屋に帰った時にその疑問を投げかけたところまさにそうだということだった。


「だからうちの場合は他の部署よりも時間が掛かる。結果が出るまでにね。でも基本的には研修後も同じことを続けていくことになるわけだから、実質やることに変わりはないよ。ただ働きに来る時間の自由度が増すから、今より多少楽になるかもしれないけれどね」


 それから、と付け足すように続ける。


「応募する際にはペンネームの欄に必ず社名であるCTHPをカッコ書きで入れるように。あと、この会社で書いた小説を独自に応募するのはやめてね。この会社からの応募であることが分からないとこの会社の存在意義がなくなってしまうから」


 なるほど。そういうことか。


 この会社はいったいどういったところで利益を出しているのかと疑問だったが、これならば合点がいく。要は、自分たちは広告になるのだ。プロデビューしたら当然ペンネームが公開され、そこに社名が記載されている。そうなれば企業の名前が至る所に張り出されることになる。本屋で、テレビで、電車内で。またこの会社自体が有名になれば、各地から同じような人間が集まり、今よりも一層多くの才能が花開くことになるのだ。わざわざチラシを投函とうかんする必要もなく、テレビCMに多額の費用をつぎ込む必要もない。従業員の名前がそのままチラシになるのだから。

 とても遠回りではあるが、とても効果的な手段である。


 あとは印税の何%かが会社に入るのかもしれない。そうでなければ、本当にこの会社はただの慈善事業になってしまう。斡旋あっせんする代わりに給料の何%が企業側に入るという仕組みはさながら派遣会社のようでもあり、そう考えればますます納得がいった。その所の説明がなかったが、まだ受賞もしていないうちからというか、そもそも書いていない状態から聞くのも恥ずかしかったので、せめて作品を送る状態になってから聞くことにした。


 その日はほとんどの時間を歌の方で費やした為、設定作りなどは次回へ持越しとなった。


 帰りのエレベーターで吾忍辺あしのべさんと一緒になった。


 二人きりのエレベーターというのは驚くほど静かで、お互いに話すことがないので一層それが際立った。密室内での静寂はなぜか人を落ち着かなくさせる。別に何かを話さなくてもいいはずなのに、何か話さなくてはいけないという使命感に駆られる。目の端で彼女を捉える。横から見る彼女は正面から見た時とはまた印象が違っていた。トップスの起毛された白いニットがぴったりと体にフィットし、グラマラスな体のラインを強調している。紺色でピッチの太いプリーツが施されたロングスカートが脛の下辺りまでカバーしており、そのボリューム感はトップスと対極を成し、Aラインという名の均衡を綺麗に保っていた。また、紺色のパンプスから伸びた白い足が、長いスカートから僅かばかり覗くのがやけに艶めかしいと感じるのは、極限にまで抑えられた露出度のせいであろう。


 と、いつまでも横目にチラチラ見ているだけではただの変質者になってしまうので、意を決して声をかけることにした。


「あの」

「えふぁい!?」


 返ってきた反応があまりに想定と違いびっくりして笑ってしまった。


「すいません。びっくりさせてしまって」

「あ、いえ、何か話さなきゃって思ってたら逆に話かけられたので勝手に驚いてしまっただけで。こちらこそ変な声出してしまってすいません」

「あ、やっぱり。僕もなんか話さなきゃって思っていたんですよ。密室の中で無言になると、変な使命感に駆られますよね」


 コクコクと一生懸命に頷く彼女がなぜだか妙に可笑しくて、ふふっと笑ってしまう。


「な、なんでしょう? 何かおかしいですか?」

「あ、いえ、気にしないでください。バイト初日でずっと張っていた緊張の糸が、きっと今ので切れたんです」


 などというやり取りの間にエレベーターのドアが開いた。

 ビルを出ると外には夜の帳が落ちていた。見上げた夜空には白い月がふわりと浮かんでおり、辺りを温かく包んでいた。


「今夜は冷えないですね」


 見上げたままに呟いたが、反応がない。ふと見下ろすとそこには彼女の目があった。

 メガネの奥の大きな瞳が辺りの湿気を吸って潤い、一つの池になっていた。水面に浮かぶ月がゆらゆらと揺れて時折光を弾く。鯉でも泳いでいまいかと覗き込んでしまいたくなるほどにそれは幻想的だった。もっと近くで見ていたい。そんな思いが胸を過り、知らず、身を乗り出した。

 刹那に月は消えた。僕の影が彼女の瞳を黒く染めたからだ。同時に目の前で泡がパチッと弾けた様に我へと返った。


 彼女はどうやら月に見蕩れていたようで同じように我に返って目を逸らした。


「あ、すいません。何か?」

「いえ、今日は寒くないと言ったんですけど、返事がないから」

「そうだったんですか。すみませんぼっとしていて」

「月がきれいですもんね」

「え!?」

「え?」

「あ、そうか、だから……。なるほどなるほど」


 吾忍辺さんは驚いた後に何か納得したような表情でいた。何に納得したのかよくわからなかったが、あまり深く突っ込まない方が良いような気もして言及しなかった。


「帰り道は?」


 指さした方向が自分と同じ方向だった為、一緒に帰ることにした。


「そういえば、多楽多たらくたさん。先程エレベーターでは何を言おうとしていたんですか」

「ああ、今日はほとんどそっちに居なかったので、どういう内容だったのか聞いておきたくて。設定作りとは言っていましたけど、具体的に何をしたのかなあと」

「私の場合は、最初からある程度書きたいものが決まっていたので、それをそのまま書いて瓦来さんに見せました」

「どうでした?」

「OKでした」

「凄いな……」

「え?」

「いや、瓦来さんは僕がもし才能の片鱗すら感じない設定出ししかできなかったら、辞めてもらうようなことを言っていたから、一発OKなんて凄いなって」

「そんな……。辞めないでくださいね」

「いや僕も辞めたくないですよ。辞めるってことは自分の才能が無いってことだし。でも決めるのは瓦来さんですから」

「そう、ですよね」


 それからお互いこのバイトを始めたきっかけや、どういう小説が好きかなどを語り合いながら駅へと向かって歩いて行った。


 時折心地良い風が吹いて彼女の長いスカートを揺らした。

 一緒なのは駅までかと思ったが、どうやら電車の進行方向も同じようだった。


「水、木、金、土曜日の18時半から21時半まで、ですか。私は毎日ですが、終わる時間が一緒でよかったです」

「そうですね。というか毎日って凄いですね」

「筆が遅いので毎日でも足りないくらいです。それに仕事が事務関係でいつも定時上がりなので。残業もないですし。お金の為にもできるだけ多くバイト入れたいなと思って。コンビニとか忙しそうなところは無理ですけど、今のところなら続けられそうです」


 白詰草の花のようにほわっとした控えめの笑顔だった。彼女が穏やかに笑う姿は人を安心させる。恐らく心を包むこの柔らかいムースのようなものは、春の夜がくれたものではなく、彼女がもたらしたものだろう。


 アナウンスから数秒遅れで電車がホームに入ってきて、隣の花が風に揺れた。


 電車の扉が開き、二人は乗車した。


 中は大変込み合っており、二人が入っただけでもういっぱいなのではないか、中にバッファゾーンなど存在しないのではないかと思われたが、それでも次々に人が入ってきて、どんどん中に押し込まれていく。案外入るものである。


 僕は吊革になんとか掴まれたが、背の低い吾忍辺さんは掴む場所がなく困っていた。

 彼女を抱きかかえるわけにも、手を握るわけにもいかないので、腕に持っていたスプリングコートを前に差し出す。彼女はそれを掴むかどうか逡巡したが、意を決するより前に電車が動き出し、その揺れに押し負けるようにして掴んだ。実際腕を掴ませているわけになるのだが、吾忍辺さん的にはコートを掴んでいるだけだから問題ない。はず。

 とはいえ吾忍辺さんは俯いた状態で一言も発しなかったので、彼女的にセーフなのかどうか、真偽はわからない。


 本当は電車の中でも話して帰りたかった。今まで自分のこんな中途半端な夢を語れる相手など居なかった。こんなにボロボロで汚く、チクチクと痒い夢など、きっと笑われる。皆は成功者の言うことならお金を出してまで聞きたがるが、上手くいかなかったうえ陸すっぽう努力もしなかった人間の言うことなど聞きたくはないのだ。お金を払ったらそういう話も興味があるふりをして聞いてくれるきれいなおねえさんがいるのだということを社会に出てから知ったが、話せば話すほど虚しくなることに気付き、そういうことは二度としなくなった。

 だから、打算なく興味を持って聞いてくれるのも、共感してくれるのも、彼女が初めての存在と言えた。彼女と話していると、かくあらねばならぬという社会から押し付けられる難問には答えなくていいんだよと言われているような気さえしてきて、とても開放的な気持ちになれたのだ。自分如きがエラそうにしていてはいけないという、背中の上からはめ込まれたプラスチック製の殻が、彼女と話すその時だけは外れてくれるのだ。彼女も彼女ならではの堕落があり、僕ほどではないにしてもできないことに言い訳をして甘えて過ごしていた日々があり、そういったものが分かり合えるから、世間の事だとか成功者の努力だとかを置き去りにして、二人の間だけで話ができる。

 この人だけは笑わない。その安心感が心地よかった。


 しばらく電車に揺られて、何駅かを通り過ぎ、人が少なくなってきて、また話せるかなと思った時にはどうやら彼女の降りる駅らしく、


「ありがとうございました」


 と小さな声で言われた。

 ここからあと3駅で僕が降りる駅なのだが、彼女がいなくなってからの3駅がやけに長く感じた。長いと感じたと同時に空腹が襲ってきて、そういえば夕ご飯をまだ食べていなかったことに今更ながら気付いた。吾忍辺さんは夕飯を食べてから来ていたのだろうか。明日誘ってみようかな、などと考えていたら、あっという間に降りる駅についていた。降車駅にあった箱根はこねそばで温そばを食べた。ざるそばに比べて千切れやすい温そばの麺に、普段は内心文句を言いながら食べるのだが、その日の温そばは千切れても全く気にならず美味しく食べることができた。またセットの天ぷらを汁に浸して食べた時あふれ出る出汁と油が大変美味いのだが、いつもよりも更に美味く感じた。こんなにも満足感のあるそばを食べたのは生まれて初めての事だった。

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