第22話 登山
静岡県富士宮市。
静岡県の東部に位置し、北に雄大な富士山が聳え立つ人口約13万人の都市であり、滋賀県の近江八幡市とは姉妹都市ならぬ夫婦都市という不思議な提携を結んでいる。これははるか昔、ダイダラボッチが近江にて土を掘り、その土で作られたのが富士山、掘った跡が琵琶湖になったという伝説が所以である。
「それじゃー、行ってくるねぇ、おかーさん」
その街にある小さな神社から、登山ルックに身を包んだ美富士が出てきた。
そう、ここ富士宮市は美富士の故郷でもある。彼女がニンニンドーランドの開園セレモニーに出席していなかったのは、これからあることをするために帰省していたからだった。
「今年はいつもより多くの水を運んでるんだから気をつけなさいねぇ」
「分かってるよぅ。大丈夫、心配しないでー」
「やることやったら早々に下山しなさいよぅ」
子供同様、語尾を伸ばす甘ったるい口調の母親に見送られて、美富士は大量のペットボトルを詰め込んだリュックを背に、まずは富士登山道の一つである富士宮口を目指す。
目的は言うまでもなく、富士山への登頂であった。
美富士が初めて富士山に登ったのは、彼女が十歳の時のことだ。
実家の神社には毎年夏になると何故か滋賀県からお客さんがやってきて、富士山に登るのが常であった。
どうやら何かの儀式らしい。
正直、儀式には何の関心もない美富士だったが、富士山への登頂には興味があった。と言うのも彼女の周りでは子供ながらも年々富士登山経験者が増えており、その経験の有無は何かと上下関係を作りたがる年頃にとっては大きな指針のひとつだったからだ。
だから両親が忙しく、いつ富士山に連れて行ってくれるか分からない美富士にとって、年に一度滋賀県からやってくる客に期待せずにはいられなかった。
「まぁなんかあったらワイが背負ってやるからええか」
そして十歳の時にやってきた客が、ついに美富士の同行を引き受けてくれた。
大きな背丈に、まるで岩のように頑丈な体つきをした男だ。そのくせ愛嬌がよく、常に漫才みたいな話し方をする。美富士の両親は早々に苦笑を浮かべるようになったが、彼女は面白いおっちゃんだととても気に入った。
事実、初めての富士登山もこの男が終始面白い話をし続けてくれたおかげで、美富士は苦も無く山頂へ上ることが出来た。
まぁ、道中一緒になった登山者たちが数分もしないうちに「すみません、ちょっと疲れたので先に行ってください」と別れてしまうのは不思議ではあったが。
とにかく富士山初登頂に成功した美富士は、これまで見たこともない景色に圧倒された。
登っている最中に見た、背後に広がる駿河湾もまた絶景だったが、山頂から見る雲海のパノラマは言葉を失うほど神秘的な光景だった。普段は見上げている雲を見下ろすなんて、まるで天国にでも来たような気分だ。
「あれ、おっちゃん、なにやってるのー!?」
そんな感動を噛みしめている美富士の隣で滋賀県から来たおもしろおっちゃんは背負っていたリュックを下すと、中からペットボトルを取り出した。
当然飲むのだろうなと思っていたら、なんと蓋を取って中身を山頂に降り注ぎ始めた。しかも一本だけではなく、何本も。やばいぞ。おもしろおっちゃんの頭がおかしくなった、と美富士は焦った。
「これな、琵琶湖の水やねん」
「え?」
「琵琶湖の水をな、こうして富士山のてっぺんに撒くためにおっちゃんは来たんやで」
詳しく聞けば、ダイダラボッチが富士山と琵琶湖を作ったという伝説にちなんだ行事なのだそうだ。
「ダイダラボッチさんは琵琶湖の水が大好物で力の源なんや。だからこうして一年に一回、富士山で琵琶湖のお水を飲んでもらって力を蓄えてもらうわけやな」
「ふーん、そうなんだー」
「嬢ちゃんとこの神社ではないけど、秋ごろにはお水返しって言って神社の水を逆に琵琶湖へ返す儀式もあるんやで」
「へぇー」
でも、だったらどうしてうちの神社に寄るんやろう、と幼い美富士は疑問に思ったが、別に尋ねたりはしなかった。
それよりも毎年どうして滋賀県なんて遠くの人がやってくるんだろうと不思議に感じていたけれど、まさかそんな繋がりがあったなんてと面白く思った。
これがきっかけになって、美富士は滋賀県や琵琶湖に興味を持つようになる。そして滋賀県の大学に進学し、そこでの研究が認められて美富士はホタル・コウヨウの秘書となり、十数年前に自分を富士山に連れて行ってくれた恩人と再会することになるのだ。
「ふぅ。ダイダラボッチさまー、今年も琵琶湖の水をお届けに参りましたよー」
富士山の山頂に立ち、変わらぬ絶景を堪能すると美富士はリュックに詰めるだけ詰め込んだペットボトルを取り出した。
「ふっふっふ。今年のはですねー、まさに過去最高! ドロリ濃厚琵琶湖水が生み出した豊満な味わいとなっておりますよぅ」
よーく味わってくださいねーと中身を注ぐ美富士。周りからちょっと変な目で見られても、まったく気にしないのであった。
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