美しい河(ショート)
わたなべ りえ
美しい河
長い時間、本当に長い時間が過ぎました。
その大地に流れていた雨水は、初めは小さな川に過ぎませんでした。岩で出来た大地の上を、ちょろちょろ流れていただけなのです。
しかし、千年・二千年と時間をかけて、川は美しい大きな流れになりました。
土も流してしまう河でした。豊かさを求める人々は、河を去っていきました。美しさを求める人は、この河へ観光にきました。
少女は毎朝、大きな籠を背負って河へ出かけます。薬草をとりに、何キロも何キロも歩きます。黒い岩肌に白い小花が咲き乱れ、ヴェールのようでした。
ポッポッポッと、音を立てて、観光船がやってきました。甲板に立つ観光客の感動の声が、少女にも届きます。
しかし、少女は観光客が嫌いでした。薬草は花をつけてしまうと、役に立たないので白い花も嫌いでした。
蒸気船の音が小さくなって、少女はそっと河を見下ろしました。観光蒸気船の間を縫って、小さなイカダが見えました。
少年は、うを飼って魚を捕っていました。
最近、一人前になったばかりで、魚をとったら、母が隣町の市まで売りにいきます。
蒸気船の作り出す波が、少年のイカダを揺らしました。黄色い髪をした青い目の若者たちが、楽しそうに手をふっていましたが、少年は面白くありません。
蒸気船に置いていかれて、少年は空を見上げました。
二人は、いつもお互いが見えるほどの近くで、仕事をしていました。二人にとって、この河は生活の場であり、美しくもなんでもありませんでした。
その日は、風の強い寒い日でした。白い花も震えました。岩の間を風が渡って、ビュルル……と鳴きました。水も濁って白波が立っています。
観光船も、今日は甲板に誰もいません。観光客は、窓から見える景色を見ながら、贅沢な料理を食べていました。おそらく、少年と少女の何日分かの食事をしながらも、天気のひどさに、運の悪さを嘆くのでしょう。
そのような中、少女は足を滑らせて、まっさかさまに河に落ちてしまいました。
少女を助けようと、少年は水に飛び込みました。ゆったりと見える河の流れですが、意外に水は早く流れます。
少年は、少女をやっとの思いで助けました。
二人はこうして出会いました。
でも、だから何だというのでしょう? 暖をとるための焚き火を挟んで、二人は口も開きませんでした。
商売のための魚を、少女のために少年はあぶり、ぶっきらぼうに差出すだけでした。少女も、借りた蓑をはおって震えるだけでした。
居心地の悪い空気のように、二人の横で河は流れていくばかりです。
薬草のシーズンは終わりました。少女は母の帽子作りを手伝い、そして今日は売りに行くのです。
でも、どうしてでしょう? 船着場に向うはずの足は、自然と岩場に向いました。
日が照る中、白い花が一斉に咲いています。少女は帽子を籠代わりにして、一銭にもならない花を摘みました。
あの日以来、少年は岩場をよく見あげました。しかし、少女の姿はなく、やがて見るのをやめました。
その時、緑の水面に白い花が咲きました。
それも一輪ではありません。ひらりひらりと舞い降りて、河の流れに乗りました。
少年は驚いて岸壁を見上げました。
少女が花を降らせていたのです。荒れた岩のような少女の心に、小さな花が咲いていました。少年は笑顔になって手をふりました。
お互いのいる場所が、とても美しいところだと、二人は生まれてはじめて知ったのです。
白い小さな花たちは、大河を下流まで流れていきました。それは、観光船に乗っている人の目にも入りました。
「おや? 花が流れていくよ……」
「まぁ……。きれい……」
老夫婦は、緑の河も、黒の岸壁も、流れゆく白い花も、さらに通り越した風景を見ていました。
「ねぇ、あなた。私たち、今までいろいろ辛いこともありましたが、本当にここまでこれてよかったですねぇ」
小さな一滴からはじまった河の流れに比べたら、老夫婦の人生は、白い花のように、小さなことかもしれません。それでも夫に身を寄せ、老婦人はつぶやきました。
「……美しい河……。私たち、生きてこの景色の中にいることができて、本当に幸せ」
=美しい河/終わり=
美しい河(ショート) わたなべ りえ @riehime
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