極彩花

黒弐 仁

極彩花

その日、村井悟は大学で出された課題レポートを仕上げるため夜遅くまで自室の机に向かっていた。

提出は明日の十五時まで。手書きという指定はあるものの、課題そのものは二週間ほど前から与えられており、計画的に取り組んでいればさほど時間はかからない量である。

しかしながら、彼は「まだ大丈夫」「まだ間に合う」そう自分に言い聞かせ続け、レポートに手を出し始めたのは結局締め切りギリギリになってからだった。

面倒なこと、自分にとって都合の悪いことを先延ばしにするのは彼の悪い癖だった。

「あぁもう。ダメだ。終わりそうにない。ていうか、なんでこのご時世に手書きなんかでレポートを書かせるんだよ。」

午前三時を回った頃、彼は部屋の中で呟いた。時計を見ては焦り、課題を少し進めては愚痴をこぼす。そういったことをひたすら繰り返していた。

机の上のレポート用紙とにらみ合っていると、何かがゆっくりと舞い降りてきて、彼の視界の中に入った。

「んん?」

彼はその落ちてきたものを指で掴んで拾い上げ、目の前でじっと観察した。

それは花びらだった。大きさは大体5~6㎝程。普段よく目にする花に比べると、やや大きい印象を持った。掴んでいる指先から花弁独特の感触が伝わってくる。そのことから、これが作り物ではないことが分かった。また、その花びらの持つ湿り気は、本体から離れてからまだあまり時間が経過していないことを意味していた。

「花びら・・・?一体どこから?」

周りを見渡してみる。そこにはいつも通りの見慣れた自室の姿があるだけだ。そして季節は11月。流石に窓を開けっぱなしにしているということもない。

悟はもう一度、花弁を観察してみた。角度を変えてみてみると、不思議なことにその花びらは、赤、青、黄、緑、紫と次々と色を変えていった。

悟は植物や物理に関する知識は無いに等しかったが、花びらの色が見る角度によって変わることなどありえないことだというのは何となく分かる。しかしながら、実際に今こうして目の前にそれは確かに存在している。

「寝ぼけているのか?」

両頬を軽く叩いてみる。わずかな痛みが走り、自分の目は覚めていることを自覚した。

彼はもう一度、花びらを見てみた。やはり角度を変えるたび、様々な色に変化する。どうやら見間違えでも、寝ぼけているわけでもないらしい。

何の気なしに、悟は花びらの香りを嗅いでみた。その香りが悟の中に入ってきた瞬間、彼の脳内に不思議な感覚が広がった。

嬉しさ、切なさ、楽しさ。そう言った様々な感情が次々に沸いては消えていき、彼の頭の中をかき回していった。

その感覚から、悟はその花びらから香るのは匀いではなく感情なのだとさえ思った。

その香りを十分に堪能した後の彼の頭は、今まで生きてきた中で一番澄んでいるようであった。

「明日、図書室で調べてみるか・・・。」

そう呟いた後、悟は花びらを財布にしまい、途中だった課題レポートに取り掛かった。

その花びらから発せられる香りのおかげか、さっきまであれほど苦戦していたのが嘘のように、悟は矢次に考えが浮かび、自分でも驚くくらいの速さでレポートを仕上げたのだった。


翌日、完成させたレポートを提出し終えた彼は授業の空き時間を利用し、大学の図書室で昨夜の花について調べ始めた。しかし、どの図書にも角度によって花弁の色が変わるなどと書かれた花は載っていなかった。また、インターネットを使っての検索もしてみたものの、結果は同じであった。

調べ始めて一時間ほどが経過した頃、昨夜のレポート作成の疲れからか、悟は植物図鑑を開いたままついうたた寝をしてしまっていた。そんな彼の肩を誰かが後ろからたたき声をかけた。

「よっ、悟。なにしてるの?」

「うぁっ!?」

浅い眠りの中、いきなり至近距離で声をかけられた彼はつい大声を出してしまった。

「なんだ、美智子か。驚かすなよ。」

「普通に声をかけただけじゃない。ていうか声でかいよ。ここ図書室なんだから、もっと周りに気を付けなよ。」

本間美智子は少し呆れ気味に言った。彼女は悟が入学当初からの交際相手だった。手には何冊かの書籍があることから、彼女も何か調べものでもしに来たのだろうなと悟は思った。

「レポートまだ終わってないの?いつも面倒なことは先送りにするんだから。全く。」

「馬鹿にするなよ。レポートのほうは既に終わらせたよ。」

「どうせまたギリギリになって徹夜で終わらせたんでしょ。目に隈ができてるし。」

全て見透かされ何も言い返せない悟に対し勝ち誇った顔をした美智子は悟の前に開かれている図書を覗き込んだ。

「植物図鑑?悟って、植物学とか履修してたっけ?」

「いや、これは、個人的にちょっと調べてただけ。」

悟は自分が昨夜見た花びらのことを話した。

「そんな変な花本当に存在するの?聞いたことないんだけど。寝ぼけてたんじゃない?」

「いや、確かに見たんだよ。ていうか、今持ってるよ。その花びら。」

そう言って、悟は自分の財布を開けた。

が、

「あ、あれ?」

昨夜、確かに財布に入れておいたはずの花びらがなくなっていた。彼はどこかへ持っていく必要があったり、無くしたくないものの内、大きさが比較的小さいものは財布へ入れておく癖があった。そういった癖があるためか、彼は忘れ物はほとんどしないほうだった。

「おかしいなぁ。確かに財布の中に入れておいたはずなんだけどなぁ・・・。」

「やっぱり寝ぼけてたんじゃない?大体、部屋の中にいきなり花びらなんて落ちてこないでしょ。それに今の季節、花なんてあまり咲いてないと思うよ?」

「う~ん、いや、しかしなぁ・・・。」

「それよりさ、この後暇ならちょっと買い物付き合ってよ。今日はもう講義ないでしょ?」

「まぁ、いいけど。」

悟は釈然としない気持ちのまま、美智子とともに図書室を後にした。


その数日後、大学での講議中のことである。

教授が自分の世界に入り込み、だらだらと語り続ける中、集中力を切らした悟は椅子にもたれかかり、スマートフォンをいじっていた。

そのスマートフォンの画面の上に何かが落ちてきた。それが視界に入った瞬間、悟は自分の心拍数が上がったのを感じた。

その目の前にある、角度によって色が変わるもの。あの日花びらと同じものだということに悟はすぐに気が付いた。

周りを見渡してみる。真面目に教授の話を聞く者、先ほどまでの彼と同じようにスマートフォンをいじっている者、別の講義で出された課題レポートを作成する者、それぞれがそれぞれのことを行っている。

しかし、この花弁がいきなり現れたことに気づいているのはどうやら悟だけのようだった。すぐ隣に座る学生でさえも全く気になる様子を見せていない。

流石に悟もこの時ばかりは不気味に思えた。講義室の窓は全て締め切っている。天井にも外と繋がっているような箇所はない。それなのに花びらは現れた。それも、悟のいる場所にピンポイントに。

また、どうやらこの花弁は悟にしか見えていないのである。こんなにも派手な色をしたものがたとえ視界の端にでも入れば、だれしも思わずそちらに目を向けてしまうだろう。しかし、周りの人間がこの花弁に気づいた様子は一切見られない。むしろ、一人キョロキョロしている悟を不審な目で見ているくらいである。

悟の頭に様々な疑問がよぎる。やはり夢ではなかったのか?一体どこからやってくるんだ?なんで俺の目の前に落ちてくるんだ?これはもしかしたら、何かヤバいものなんじゃないか?

呼吸が荒くなってのを悟は感じた。隣に座る学生が不審な顔つきで悟の顔を見る。その視線は悟のみに注がれている。やはりこの花弁は見えていないらしい。

呼吸が荒くなると、自然と花弁の匂いも鼻の中へと入ってきた。

あの不思議な匂いがまた体内に入り込んだ。気のせいか、悟は前の時よりも強く感じているような気がした。

「香り」という概念では説明できないあの奇妙な感覚を悟は感じた。様々な感情のようなものが一瞬にして脳内を駆け巡る。そしてその一瞬の間に悟は言いようのない満足感で満たされた。

その「香り」を堪能し終えると、さっきまでの恐怖感は跡形もなく消え、頭に浮かんでいた疑問なくなり、どうでもよくなってしまった。

そして授業が終わる頃には例の花弁はいつの間にかまたなくなっていた。


その後も悟はその花弁に頻繁に遭遇した。それは場所、時間を問わず現れた。家で朝食を摂っている時、大学で講義を受けている時、喫茶店で美智子と話している時、便所で用を足している時、ベッドの上でゴロゴロしている時、必ず悟の前に落ちてきた。

そして、最初のほうこそ恐れ多かったものの、次第にそれが当たり前のこととなっていった。それどころか、すっかりその不思議な香りの虜となり、むしろ現れるのを待っているようにさえなった。


ある日、悟が大学の廊下を歩いていた時のことである。

いつものようにあの花びらが悟の目の前に現れた。ただ、その時はいつもと様子が違った。というのも、普段は上方から舞い降りてくるのだが、この時は右側からゆっくりと流れるように現れたのだ。

悟は花びらが流れてきた方に目を向けてみた。そこにあったのは清掃用具入れだった。扉は少し開いている。


(…ここから出てきたのか?)


悟はその扉を開けてみた。そこで悟が見たものは、にわかには信じがたいものだった。

その扉の先に広がっていたのは真っ暗闇だった。一寸先も見えないとはきっとこのことを言うのだろうと悟は思った。

不思議なことに、こんな非現実な出来事を前にしても悟は不気味なほど落ち着いていた。

恐らく、あの花びらという非現実的なものの存在のせいで悟の感覚は少しおかしくなっていたのだろう。

悟がしばらくその暗闇に顔を向けていると、その奥から風が吹いてきた。その風は、悟が虜になっているあの花びらの香りがした。

そして悟は、まるで吸い込まれるかのようにその暗闇の奥へと入っていった。

(もしかしたら、この先にあの花びらを持つ花があるのか?)

今の悟の頭にはその考えしかない。悟はただひたすら暗闇の中を進んでいった。


10分程が経っただろうか。悟の前方に小さな光が見えてきた。その光を目指し、さらに進み続けた。

近づくにつれて、どうやらそこには外へと続く穴があり、光は外から漏れているものだということが分かった。

悟はその穴から外へと出た。するとそこには異様な光景が広がっていた。

目の前にあったのは、円形の野原だった。広さは、大体一般的な小学校の校庭程といったところか。その周囲はぐるっと高い崖に囲まれており、ちょうど地面との境目辺りに一定の間隔で人が入れそうな洞窟のような穴がいくつもあった。後ろを振り返ってみると、どうやら悟はその穴の内の一つから出てきたようだった。きっと、あの穴がこの場所と悟のいる世界をつないでいるのだろう。

悟は上を見上げた。そこから見えるのはどんよりとした曇り空であるが、その色は薄い紫色をしていた。

野原の中心は少し盛り上がっており、小さな丘となっていた。その丘の上に、いくつもの花があるのが見えた。

悟はその花畑にゆっくりと近づいてみた。近づくたびに、花の見える角度が少しづつ変わる。その度に色が変わっていくのが見えた。

(間違いない。あれが本体だ…)

丘にたどり着き、悟は間近でその花を見た。

茎は太く長い。その先には握りこぶしほどの大きさの花が開いている。その形状は蓮の花に似ていた。

悟がその花を見ていると風が吹いた。そこまで強い風というわけでもないが、花たちは大きく揺れだした。そしてそのそれぞれがその動きに合わせ、赤、青、黄、紫と次々に色が変わっていった。

それらの中からいくつか花びらが取れた。とれた花びらはそのまま吸い込まれるかのように崖の穴の中へと入っていき、暗闇の中へと消えていった。

悟は鼻で軽く息を吸い込んでみた。すると、あの不思議な匂いがいつもよりも強めに感じられ、あの言いようのない感覚が現れた。

(もっと近くで、大きく吸い込んでみたらどうなるのだろう…)

悟は花畑に寝転がり、今度はできる限り大きく息を吸い込んでみた。

その時、その瞬間。悟の脳内で様々な感情が交錯した。今まで花びらを嗅いでいた時とは比べ物にならないほどの強い感情だ。

喜び、怒り、悲しみ、憎しみ、困惑、切なさ、可笑しさ、嬉しさ。その全てが絶えず脳を刺激し続け、凄まじい勢いで脳内麻薬が分泌されていき、そこから生み出される快楽に悟は溺れていった。

その感覚は、悟が今までに感じたことのない最高のものだった。

ずっと欲しかったものが手に入った時にも、どんなに旨いものを食べている時にも、暖かい布団で寝ている時にも、美智子とセックスをしている時にもこんな快楽を感じたことはなかった。

そんな快楽に沈んでいきながら悟は目を閉じ、眠りについてしまった。


「ううん…」

どのくらい時間が経っただろうか。悟は眠りから覚めた。体のだるさから結構な時間が経っているのが分かった。

(まずいな…。早く家に帰らないと…)

そう思いながら目を開けて起き上がってみると、悟は目の前に広がる光景に違和感を覚えた。

おしゃれな家具屋で買った少し高めの机、お気に入りのバンドのポスター。大学の参考書が入った本棚。

そこに広がっていたのは見慣れた自分の部屋であった。

(???いつの間に帰ってきたんだ?)

困惑しながらベッドから降り立つと、悟は別の違和感を覚えた。

自分の足を見てみると靴を履いていたのだ。

そのことが、自力で帰ってきたのではないことを意味していた。

一体誰が、どうやって家まで運んできたのか。普通だったらそんな疑問が頭の中を支配するものであるが、悟はそんなことなど全くと言っていいほど気にならなかった。むしろ、最高の気分を味わえた上に自動的に家に帰ってこられるようになれるなんてラッキーとさえ思っていた。

これまで、散々非現実的なことに直面してきたこともあり、今回のこともまた何か不思議な力でも働いていたのだろうと軽く考えていた。


それからも悟は何度もその場所へと足を運んだ。

その場所への道が現れるのに場所も時間も決まってはおらずランダムだった。

ある時は教室のドアを、ある時は自宅の自室のドアを、ある時は個室トイレの扉を開けるとその場所へとつながっていた。

そのたびに悟は花畑に寝転び、その香りを堪能し、至福の時を過ごした。

初めの内こそ、現れればラッキー程度にしか思っていなかったが、自分から探すようになるまでにそう時間はかからなかった。



「ねぇ、最近なんか、変だよ?」

食堂で昼食を摂っている時、美智子は悟に聞いた。

目の前に座る悟の顔の色は病的なまでに白く、頬はこけ、それなのに目だけはギョロリとしてぎらついていた。

「変って…何がだい?」

「だって、ここの所大学に来ているのに全然授業には出てないみたいだし、見かけるといつも何かを探しているようにずっとキョロキョロしているし。それなのに私が話しかけてもどこか上の空でぼーっとしてる。なんか見た目も不健康そうだし、はっきり言って今の悟は不気味だよ」

「あはははっはははははっはははははっははっはははははははははは」

今の会話に笑うところなど全くなかったはずなのに、悟は唐突に爆笑し始め、美智子をギョッとさせた。

一通り笑い終えると、悟はようやく話しだした。

「俺が不気味だって!?とんでもない!俺は今、とても輝いているよ。信じられないくらい夢中になれるものを見つけたんだ!間違いなく今までの人生で一番充実しているよ!!」

悟は前のめりになって一気に語った。興奮しすぎているのか、何度も何度も唾を飛ばし、それらが美智子の顔に付くたびに彼女を不愉快にさせていった。

「そんなわけだ。きっと、美智子もあれを知ったら俺と同じように夢中になれるはずさ。」

「『あれ』って何?何のことなの?」

美智子はわざといら立っている風な声を出した。が、悟にはそれが伝わらない。

「花だよ。以前、図書室で少し話したことがあっただろ?俺は花の本体を見つけたんだよ。この世のものとは思えない、最高の香りを持つ素晴らしい花さ」

「あなた…、もしかしてクスリでもやっているの?」


バァン!!!!!


美智子が恐る恐る質問した瞬間、悟は両手を机に叩きつけ、食堂全体に響き渡るような音を立てた。

「あの花を!!!!!!覚せい剤や麻薬と同じだというのか!!!!???いくら美智子でも!!!!!馬鹿にするようなら許さないぞ!!!!」

そう叫ぶ悟の目は血走っており、顔のあらゆる部分は小刻みに震えていた。その様子から彼が心の底から激怒していることは容易に美智子には伝わった。

「あ、あなたやっぱり異常よ!今のあなたにまともな思考回路があるとは到底思えない!!少し、距離を置きましょう。頭冷やした方がいいわ。」

「嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!!!そんなこと言わないでくれよぉ…」

さっきまですさまじい勢いで起こっていたかと思えば、今度はうなだれ涙を流し泣きだしてしまった。

その異常な様子に恐怖心を覚えた美智子は悟を置いて颯爽とその場を後にした。


ある程度時間が経ち、落ち着きを取り戻した悟は一人でキャンパス内を歩きながらさっきの自分の異常な行動を思い返していた。

(さっきの美智子との会話の中で、自分の感情を抑えることができなかった…。いや、次から次へと感情が湧いてきたというべきか…。)

そのようにして考えを巡らせているうち、悟はある結論に行きついた。いや、厳密には初めから結論は出ていたのだろうが、ようやく認めただけだ。


(花だ。やっぱり、あの花には何か中毒性のある成分が含まれているに違いない。きっと、香りを嗅いだ際に頭の中に広がる感情がそのまま残って、表に出てきてしまうんだ。)


その考えに行きついた瞬間、悟は美智子に対する申し訳なさと恥ずかしさで頭の中が満たされた。

自分を思い心配をしてくれていたにもかかわらず、感情に支配され彼女を罵倒し、怖がらせ、傷つけてしまった。

彼女に謝ろう。そして、もうあの場所へ行くのはやめよう。

そう思ってスマートフォンを手に取り、スイッチを入れようとしたその時だった。

彼の目の前を、あの花びらが横切った。

悟は花びらが流れてきた方に目を向けた。そこには、わずかに開いた消火用ホース入れがある。

悟がその扉を開けてみると、いつものようにその中は一寸先も見えない闇が広がっていた。

たった十数秒前の決意がもう揺らいでいた。花の誘惑と美智子への想い。その二つがしばらくの間悟の中で戦っていた。

だが、


(最後…。これで最後だ…。)


結局、悟は己の欲望に負けたのだった。物事を先延ばしにするのは彼の悪い癖だった。

そして、あの場所へとたどり着いた悟はいつものように花畑の真ん中へと寝転がり、その香りを十分に堪能した。いつもと同じような言いようのない幸福感に包まれてくうち、悟は眠りについた。


(ん…、あ、あれ?)

悟はいつも通りに幸福感に包まれた浅い眠りから目覚めた。

…はずだった。

目覚めると同時に悟はいくつもの違和感を感じた。

まず第一に感じた違和感は、目覚めの瞬間だった。いつもであれば眠りから覚めてもしばらくは瞼を開けず、十分ほどは寝転がったままでいた後にゆっくりと起き上がるのだが、この時は急に瞼が開いたのである。

というよりも、寝ていたら急に視界が現れたといった方が正しかった。

その次に体を全く動かすことができないことに気が付いた。腕、足、首。あらゆる箇所に力を加えようとするも、どうにもすることができないのである。

また、見えている視界も異常であった。寝転がっていたはずなのに、見えているそれは正常なものであった。つまり、普通に立っている状態で見えるものである。そしてそこに映ったものは自室ではなく、悟がいたあの場所のままであった。

それだけではない。自分の視界とほぼ同じ高さに無数のあの花が見える。それも、大きさは明らかに大きくなっており、自分の頭くらいはあるのではないかというほどだった。


(!?!?!?一体…どうなっているんだ!?)


混乱している悟に、少し強めの風が吹きつけた。それと同時に悟は自分の頭部が揺れるのを感じ、視界が揺れた。

その少し変化した視界に映ったものは、かなり近い位置にある地面と、自分の頭部とつながっている緑色の茎だった。

そして悟は、すべてを理解した。


(は…、は…、花に…。花になってる!?!?!?!?)


悟はそう叫んだつもりだった。しかし、声にはならなかった。

今の悟には、人間としてできていたことなど全くできない。できることといえば、目の前の光景を見ることだけなのである。

…いや、それすらも悟の意志ではない。悟は瞼を閉じることさえもできず、ただただ目の前の現実を無理やりに見させられているだけなのだ。


(も、もしかして…。この花は…、全部…。い、嫌だ!嫌だぁ!!!誰か、誰か助けてくれ!!!父さん!!!母さん!!!美智子!!!誰か!!!誰かぁあぁぁぁ!!!!!!)


悟は声にならない叫びをあげた。その声の代わりに、悟の頭部から一枚花びらが取れ、吹いている風と共に飛んでいき、その先にある崖に空いている穴の一つに吸い込まれるようにして入っていった。




その日、本間美智子は夜遅くまで自室でスマートフォンを眺めていた。

一週間ほど前から交際相手である悟と連絡が取れないのである。電話を掛けても必ず電波の届かない場所にいると返ってくる。また、SNSで連絡を取ろうにも、メッセージを読んだ形跡は全く現れない。

大学には姿を現さず、自宅にも帰っていないようであり、悟の両親からは居場所を知らないかという連絡が来る。どうやら警察も動いているようだ。

美智子は最後に会った時の悟の姿を思い出した。あの異様な顔つき。そして、異常な感情の現れ方。

彼は間違いなく、何かクスリの類の中毒になっていたのだと美智子は確信していた。そして、今行方不明なのはきっとそれ関連の組織につかまってしまったのではないかと推測していた。

(なんであの時もっと必死になって止めなかったんだろ。なんであのまま放っといて逃げちゃったんだろ…)

そういった後悔の念が美智子の頭の中を支配するたびに、ぎゅうっと胸を締め付けた。

美智子がスマートフォンとにらみ合っていると、何かがゆっくりと舞い降りてきて、彼女の視界に入った。

「んん?」

美智子はその落ちてきたものを指で摘まみ、拾い上げてみてみた。




それは見る角度によって色が変わる、美智子が今までに見たことのない不思議な花びらだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

極彩花 黒弐 仁 @Clonidine

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る