第3目 メイクユアネイム

「先ほどの転人さんあなたの呼びかけは、私の心にとても強くひびきました。あまりにも突然でしたので、混乱こんらんしてしまったのは事実ではあります。誰だって、いきなり『メイクユアネイム』だなんて言われたら、狼狽ろうばいしてしまうものです。唐突とうとつに、そんな大胆だいたんなことを言われて、冷静れいせいでいられるはずがありません。おつき合いをしたいという告白ならまだしも、まさかプロポーズをされるなんて思ってもみませんでした」


 そんな……私の名前を変えたいだなんて。

 彼女は恥ずかしそうに、そんなことを言う。

 転人をちらちらと見ながら、もじもじと体をくねらせている。


 転人は、彼女の突然のまくし立てについていけず、口を開けたまま少し停止していた。頭の中には、彼女の言った「メイクユアネイム」「おつき合い」「プロポーズ」などの単語が、ただぼやっと浮かんでいた。

 そんな彼女の単語たちは、時間をかけてゆっくりとむすびついていき、一つのつながりとなってようやく脳に到達する。そして、その理解が進んでいくにつれて、転人は、彼女が口にした言葉の大きな違和感いわかんに気がついた。


 待って。

 俺はプロポーズなんてしていない。


「どうしても私とちぎりをわしたいとおっしゃるのでしたら、私もやぶさかではないのです。今までたくさんの殿方とのがたから告白を受けてきましたが、出会いがしらにプロポーズをするなんていう、情熱的じょうねつてき魅力的みりょくてきな男性は初めてです」


 だからちょっと待って。


「ですので、私も心を決めて、はしたない言葉を飲みこんで、はじ承知しょうちで告白したのです。……どうか『私の犬になっていただけませんでしょうか』と」


 彼女の顔は火照ほてるようにあかく染まっていた。転人に向けられた瞳も、夕日を受けてなのか、赤くみ切っていた。


 転人は彼女の言葉を聞き、肩で息をする様子を見て、嫌な汗をかいていた。


「一つだけ……いいかな」


「はい、なんでしょうか」


 続く言葉を思ってなのか、彼女の言い方には期待と不安が滲んでいた。


「その……大変失礼なことを言ってしまうかもしれないんだけど、どうか聞いてほしいんだ」


 転人は、彼女のその目の意味を噛みしめつつ、遠慮えんりょがちに切り出した。


「はい、なんなりと」


 視線だけじゃなく、彼女の姿勢そのものがまぶしい。

 だが、づくわけにはいかない。

 転人もある意味では、彼女と同じくらいの覚悟をしていた。


「どうか冷静に聞いてほしい」


 転人は、『メイクユアネイム』は『巻菜』の聞き間違えである、という推測をできるかぎり端的たんてきに説明した。

 オブラートに包むようなことはできなかった。

 転人はそんなに器用きようではなかった。

 

 彼女は、聞きのがしてなるものかという気位きぐらいを見せながら、転人の説明を聞いていた。聞いて、その内容を頭の中で咀嚼そしゃくするかのように、数秒の間、固まったままでいた。


 彼女の動きがとまり、世界の時間がとまった。


 そして、引きしぼられた弓のようにりつめた空気は、その力をおさえ切れなくなり、強い反動をもって彼女をおそった。

 彼女の顔は、さっきよりも真っ赤になり、口があわあわと動き始めた。

 声は出ていない。出したくても、出せないのだろう。


誤解ごかいかないことのほうが、失礼にあたると思ったんだ。だから、俺にできることならなんでもするから、どうかここは……」


「わわわ」


「わわわ?」


「わわわたし……は……」


 彼女は、ぐぐっと全身に力をこめ、歯を食いしばる。

 目元が潤んでいるようにも見えたが、涙は流れていない。

 一見いっけんすると不細工ぶさいくなその顔からは、必死になにかをおさえようとしている彼女の意志が見てとれた。


「あの……ですね……そうではない……なくて……ええと……」


 彼女は自覚的な息に合わせて、つぶやくように口を動かしていた。かろうじて開いたすき間から、漏れるように言葉が聞こえてくる。


 彼女は必死な様子で身体を動かし、ゆっくりと転人の横に座った。

 転人は、そんな彼女になにを言えばいいのかわからなかった。


「大丈夫だよ、よくあることだから、ね」


 そうは言ったものの、続く言葉は見つけられそうになかった。

 そもそも、今にもくずれ落ちそうな彼女を支える言葉など、転人は持ち合わせていなかった。


「でも……いぬとはたしかにいっちゃったし……、いぬ――そうだ、そう、ですよ!」


 ぶつぶつとなにかを口にしていた彼女が、突然顔をあげた。


「なん、でしょうか?」


 おそるおそる聞いてみる。


「転人さんは『まけいぬ』と呼ばれている、とお聞きしました。だから、犬が……、転人さんは犬がお好きなのかなって、そう思っちゃったんですよ。だから『私の犬』という言葉を使ってしまったといいますか……」


 彼女はひきつった笑顔を、さらに無理むり矢理やりに引きばしていた。がけっぷちの抵抗だった。


「『まけいぬ』がどういう意味なのかは……知ってる?」


 転人は思わずそう聞いてしまっていた。

 聞いてしまってから、後悔こうかいした。

 不器用ぶきようを通り越したバカな自分を呪っていた。


「それはその……『犬を育てる』とか『犬におしゃれさせる』とかそういう……」


 彼女の言葉は段々と小さくなっていった。

 自分の間違いに気がついたのか、それとも転人の表情に気がついてしまったのか。

 もしかしたら、本当は最初からわかっていて、転人に助けを求めていただけだったのかもしれない。そう思うと、余計よけいに転人は自分を呪わざるをえなくなった。


「……どういういみか、おしえて、いただけませんか」


 彼女の声は、消え入りそうなほど弱々しくなっていた。


 転人が『負け犬DOG』のなんたるかを説明している間の彼女は、とても筆舌ひつぜつくしがたい様子だった。

 だが、それでもなんとか自分を保とうとし、一度も崩れ落ちることはなかった。

 だからここは、そんな彼女をたたえる意味でも、あえて一つだけ言及げんきゅうしておこうと思う。

 転人と出会ってからここ今にいたるまで、彼女は一雫ひとしずくたりとも涙を流すことはなかった。

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