壁の外
キィ(ツッパリ)
壁の外
気づけば僕は壁の中にいた。壁は僕がいるこの場所を高く高く囲っていた。それは何か生物の肉で出来ているのか、健康的で生命的な赤をしていて、ぶよぶよと弾力があって少し気持ち悪い。この壁は人肌程の熱を持っているから、生物の肉で出来ているというよりはこの壁自体が何かの生き物なのかもしれない。僕はこの壁の中にいた。
この世界で初めて僕の意識がはっきりした時、僕の前に立っていたのはこの壁と門番を名乗る男だった。門番というよりは彼自身が門その物であると言ってもいい程の巨漢で、腕も足も腹も筋肉で覆われ、津波が来ても直立したままやり過ごしそうな風貌だった。
「ここはどこですか」
僕が門番に聞くと、彼は答えた。
「壁の中だよ」
野太いが、決して威圧的ではない、むしろ安心感を覚える声で門番は答えた。
「壁とはなんでしょうか」
また僕が聞く。
門番が毛だらけの太い指で壁を何度かつついた。壁は力を加えればその分沈み、それをやめるとまた元の形に戻った。
僕と門番のこうした問答が何度か続いた。僕がこの世界について手に入れた情報は三つ。
一つは、この壁の外に出るためには門番の許可がいるという事。
ニつは、門番は絶対に外にでる許可を出さないという事。
三つは、この世界は僕にとってとても優しいので、壁の外に出る必要は無いという事。
この三つを肝に命じていれば僕はここでの安全な暮らしを門番や街の人々に保証されるらしい。そこに「なぜ」は存在しない、と門番は説明した。
「どうしてでしょうか。なぜ僕はここにいて、皆が守ってくれるのでしょうか」
僕は早速前提を無視して門番に尋ねた。
「そういうものだからだよ」
門番は答えた。
「僕はまず何をすべきでしょう」
質問を変えた。目下、僕が解決すべき問題は自分の存在理由やこの世界の存在理由ではない。今何をすべきかなのだ。
「街へ行きなさい。そこには君の求める全てがあるはずだよ」
門番が目の前の森を指さした。
「あの森を抜ければ街に出られるよ。木に目印を括り付けてあるから、それを辿りなさい」
***
門番の勧めに従い、街を訪ねた。壁から街に行くためには森を抜ける必要があった。殆ど人の気配が無い道で、一応道らしき物はある。しかし木の根や伸びて道側にその葉を進入させている雑草のせいで酷く歩きにくい。門番が木に括り付けていた赤い紐の目印が無ければ街へ抜けるのは不可能だったに違いない。とにかく僕は門番の指示通り森を抜けることに成功した。
街に対して僕は「活気があるとは言えないが、とても落ち着いていて、とても優しい」という印象を持った。
道には森の時とは打って変わって赤茶色のレンガが敷き詰められており、歩きやすい。靴の下にしっかりと堅い接地感を感じる事が出来る。
たくさんの店が並んでいた。服屋、レストラン、土産物屋。普通の人間が思いつくであろう色んな店が並んでいた。
しばらく歩いていると、1人の女性がやってきて、僕に声をかけてきた。優しい声と顔立ちをしていて、僕は無条件で安堵感を覚えた。
「寝泊まりする場所を用意しているので付いてきてください」
一体どういう魔法を使ったのか知らないが、女性は僕の目的を理解していた。僕は女性に着いていく事にした。
着いていった先には、やはりレンガ造りのホテルがあった。僕はそのホテルの一室に通された。6畳程の部屋だが、無駄な物が無く簡素なので広く感じる。壁紙は赤茶色をしていた。やはり外の街と同じように暖かみが感じられた。
「ここなら快適に暮らせそうです。ありがとう」
僕は女性に礼を言った。
「今日はもうお休みになられるのでしょう?」
女性の問いかけで僕は自分が思ったよりもずっと疲労している事に気づいた。あの森を抜けてきたのだ。窓からはやはり赤茶色の優しい夕日がこの部屋に向かって真っ直ぐ差し込んでいた。
「そうですね。今日はもう寝ようと思います」
「お休みなさい」
女性を見送ってからすぐ僕はベッドに入った。心地よい疲労感が心地よい睡魔を連れてきていた。
***
それから一ヶ月、この街は僕の望みを叶え続けた。僕が「あれを食べたい」と思って街へ出ると丁度レストランがその料理を新メニューとして出した。僕が「あれが着たい」と思うと服屋がそれを商品化し店頭に並べていた。僕が「あのホテルに案内してくれた女の子と寝たい」と思うと寝ることが出来た。門番の言うとおりになった。この街は、この壁の中の世界は僕に都合良く回っていた。
そんな世界に対して僕が違和感をはっきりと覚えたのはホテルの女の子と寝た時だった。彼女を抱きしめると暖かい。それは認める。そして僕はそれを気持ちいいと思う。しかし彼女の体をいくら抱きしめても何か欠けているような感覚が拭えないのだ。例えば、自分で自分の手を握って暖をとっているような、そんな感覚なのだ。
僕は彼女と寝ることを望まなくなった。レストランで食事をしなくなった。服屋に通わなくなった。
僕は1日の大半を森で過ごすようになった。木の実や山菜を採って食べた。それすらやはり僕のためにあつらえた物のように感じる。でもレストランで食べるよりはマシだった。夜も森の中で野宿した。
壁の中の世界は全てが優しい。けど、ただそれだけだ。
僕は壁の外に出してもらえないか門番に交渉する事にした。
門番は相変わらず肉の壁の前で堂々と立っていた。どんな災害も猛獣も彼の肉体を動かすことは出来ないかもしれない。
「僕を壁の外に出してもらえませんか」
門番は険しい顔をして言った。
「それはだめだ」
門番はとても外の世界に関する僕の交渉を聞いてくれそうになかった。僕は踵を返し、再び森の中へ入った。既に辺りは暗くなっていた。かろうじて門番の印を見つけることは出来たが、油断すれば二度と森から出られなくなるかもしれない。
ふと、僕の中に馬鹿げた考えが浮かんだ。それは門番の印を無視して全く違う、僕自身が決めた方向に真っ直ぐ進むという考えだ。本来ならば、それは命の危険さえ伴う危険な行動なのだが、この世界で初めて自分の望みが叶えられなかった僕は酷く苛ついていた。森とはいえ、ある方向にずっと進んでいれば必ずどこかに抜けるはずなのだ。壁と、門番と、街以外のものを僕は知らない。もっと知らなければならない。
僕はつま先を門番の目印から丁度右に九十度ずらした。このまま真っ直ぐ進めば僕は門番の想定外へたどり着く事が出来るだろう。
僕はその九十度へ一歩足を踏み出した。木の根や雑草が激しくなった。僕も、或いは門番さえもまだ一度も足を着けていない場所なのだ。この九十度の先には何があるのだろうう。
***
目を覚ますと、そこには灰色の天井があった。木材にされてからかなりの時間が経っているのだ。天井に使われている木は酷く色褪せていた。僕はその天井が赤茶色のレンガではなかった事に安堵していた。
「気がついたかい」
声の方を向くと、五十代ぐらいだろうか。少しくたびれた感じの老人が立っていた。作業着を着ていて、それには所々土や泥が付着している。古い泥もあれば、今さっき付いたばかりのような泥もあった。
「森の外で倒れていたんだよ。覚えてるかい?」
昨晩、僕は全身の痛みと睡魔と、その他諸々の苦しみの末、森の終点を見つけたところで意識を失ったのだ。
「大丈夫かい」
僕がぼーっとしたまま何も物を言わないので、老人は心配している。老人の声には例の「自分で自分の腕を掴んでいる」感じは無い。それでいてとても心地の良い、掠れた声。
「僕は倒れていたんですね」
「そうだよ。君は街から来たんだろう?」
「帰りません。気持ち悪いんですよ。あの街は」
「そうは言ってもなぁ」
心配されつつ叱られるのは初めての体験だった。悪い気持ちはしない。
「少し外に出てみようか。立てるかい」
まだ少し足が痛んではいたが、立ったり歩いたりするのに支障は無い。僕は老人に連れられて小屋の外に出た。僕が眠っていた建物は1人分の生活を詰め込むのが精一杯の灰色の小屋だった。さっき視界に入った天井の色と全く同じ色でその小屋は出来ていた。
小屋の外は森とは全く違っていた。上品な伸び方をした花や草だ。そんな野原のなかに何度も掘ったり埋めたりしているような穴の跡がいくつかあった。
「好きなんだよ。よく分からないが、穴を掘るのが好きなんだ」
穴に対する僕の視線に老人が答えた。
「僕も掘ってみていいですか」
彼の気持ちを僕は知りたかった。いいとも、と老人は優しく答えると穴に刺さっていたシャベルを僕に渡した。シャベルは老人の服と同じように新旧の土が付着していて、年季を感じさせた。どっしりとした象のような鉄の重みは、長い長い時の重みでもあった。
穴の中に入ってみると、地面の線が僕の膝ぐらいまで来た。思ったよりも深い。
ざくっ。
ぎゅっ、ぎゅっ。
シャベルをしっかり地面に突き刺す。
ぐいっ。
シャベルの棒部分に体重をかける。てこの原理で土が盛り上がる。
僕はその土を掬い、持ち上げた。持ち上げきれなかった土がシャベルからこぼれ落ちて僕の靴にかかった。
「うまいね。そのまま穴の外に土を出してごらん」
僕は老人の言うとおり穴の外に土を掬ったシャベルを持って行った。先程まで老人が掬い上げていた土で出来た小さな山があった。僕はその山の上に土をひっくり返した。
「うんうん。とてもうまい。一緒に働きたいくらいだよ」
「僕もそう思います」
「それは自分がうまいって事かい」
「一緒に働きたい、の方です」
僕はこの仕事が気に入った。僕が進んで何か仕事をしたいと思ったのは、この世界に来て初めてだった。
「本当かい?嬉しいなぁ」
「どうせ、他に当てもありませんしね」
「街へ戻る気はもう無いのかい」
「はい」
老人が手を差し出して来た。僕はその手を握った。それはちゃんと他人の手の温かさだった。その手を上下に数回振ってから、僕と老人は再び穴掘りを再会した。
***
結局、僕と老人は陽が完全に傾き、強いオレンジ色になるまで穴を掘り続けた。
老人が「今日はもう上がりにしよう」と言ったので僕らは小屋に戻った。
小屋の隣にある井戸の水で体と服を洗った。街では知らないうちに誰かが僕の服を洗い、干し、畳んで部屋に用意しておいてくれていたので新鮮だった。
手ぶらで森を抜けてきた僕には替えの服がなかったので、老人の服を借りた。僕には少し大きかった。
「あの門番が守っている壁は、どこまで続いているのでしょう。抜け道はあるんでしょうか」
自己流で拙く服を洗いながら僕は老人に聞いた。
「無い。あの壁はこの世界をぐるりと円形に囲っていて、しかも一切の隙間がない」
「あの壁を壊したり、掘ったりする事は出来るのでしょうか」
「昔、試した事がある。掘ること自体は可能だった。とても気持ち悪いけれどね。掘る度にあの壁は出血するんだ。掘り進んでいくと、まばゆい光が壁から漏れてくる。目を焼くような強い光だ。私はその光を浴びて気を失ってしまった。気がついた時には街の病院のベッドの中だった。それがきっかけで私は街を出て行かねばならなくなった。壁を脅かすような危険人物は街にふさわしくない、と門番に言われたよ」
「僕も、あの壁の外が見たい」
老人は少し驚いたような表情をした。
「どうしてだい」
「ここは僕のいるべき場所ではない気がする」
「ここでの生活は不満かい?」
「そうではないんです。ここでの生活は嫌いではない。特に、あなたと過ごした今日はね。でも、僕にとってこの場所は通過点であって、永住すべき場所ではない気がする」
「私も壁を掘ろうとした時そう思っていた。もしあの時光に気を失っていなければ、壁の外に出ていたかもしれない」
老人はどこか遠くを見ているようだった。しかし老人の視線の先には灰色の壁があるだけだ。蝋燭で照らされた今にも朽ちてしまいそうな木の壁が。
「あのシャベル、僕に譲ってくれませんか」
「君も壁を掘るのかい」
「ええ」
「でも、掘っていけばあの光にやられてしまうよ」
「そうですね。何か対策を考えましょう。例えば、壁の下を掘って外に出るというのはどうでしょうか」
「あれだけ強い光源ならばどのみち光は避けられないだろうさ」
「目隠しをしてみてはどうでしょうか」
「それはいいかもしれない。でも真っ直ぐ掘るのは難しいんじゃないか」
そうかもしれない。
「私にいい考えがある」
しばらくの沈黙の後、老人が切り出した。
「どんな?」
「その時になったら話すよ。ところで、本当にこの世界に未練はないんだね」
僕は少しこの世界の事について考えてみた。ホテルに案内してくれた女の子の事を思い出してみた。僕が会いたくないと念じた途端、姿を見せなくなったあの女の子の事。それから今日の老人との事を思った。ここで永遠に老人と仕事を続けていくのも悪くないかもしれない。それでもこの世界に対する違和感とこの世界で得た物を天秤にかけてみると、やはり僕はここにいるべきではない気がした。
「そうですね。未練はありません。あなたとの生活には少し憧れますが」
老人は少し嬉しそうな、でも寂しそうな顔をした。
「わかった。じゃあ明日にでも壁の外に出ようじゃないか」
「ありがとうございます」
「大丈夫だ。とびきりの名案があるんだ」
老人は手のひらをパン、と鳴らした。長い長い力仕事で鍛えられた小麦色の、少ししわが目立ってきた手のひらだ。
「明日はハードな日になるだろう。今日はお互い早く寝ようじゃないか」
「そうですね」
布団は老人が普段使っているものしか無かった。僕が朝寝ていたものだ。老人は僕が看病している間どこで休んでいたのだろう。或いは寝ずに看病していたのかもしれない。
僕と老人は1つの布団に身を寄せて眠った。老人の背中は大きかった。抱きついてみると、とてもあたたかい。僕は抱きついた記憶を最後に意識を失った。
***
翌日、僕は老人の案内に従って最寄りの壁に向かった。森の中を、老人は僕の知らないルートで進んでいった。老人の足に殆ど迷いは無い。
「もしかして、あの場所に追いやられてからも時々壁のところへ行っていたんですか」
老人は首を横に振った。
「記憶力がいいんですね」
老人はまた首を横に振った。
「違うよ。忘れられないのさ。あの光が恐ろしくてね」
老人は振り返って僕の方を見た。老人の全身は震えていた。移動していた時は気づかなかったが、こうして止まってみるとよくわかる。目元も弱々しく潤んでいる気がする。
「私が以前、壁に手をつけた時、そこに門番はいなかった。つまり、門番はおそらくあの1人しかいない」
「それでは簡単に壁を傷つけられてしまうように思います」
「その通りだ。実際、私はすんなりと誰の咎めも受けないままあの光で気を失うまで掘り続けていたんだからな」
「でも光を見てから何かが変わってしまったんですね」
そうだ、と老人は頷いた。
「恐怖があの壁を守っているんだ。もし外に出ようと思ったら最初の一回目、恐怖を知らない時でないと無理だろう」
「じゃあ、僕は一人で掘り進まなければ」
「いや、私にも出来る事はあるさ」
「それは今こうして案内してくれる事ですか」
「シャベルを持てなくても私に手伝える事はある。私が君の目になるんだ。君が目隠しをして掘る。私が掘る場所を指示する。そういうことだ」
僕は驚いた。立って指示を出すくらいは本人が言うのだから可能なのかもしれない。しかしそれにしたって彼にかなりの負担がかかるのは間違いない。
「なぜそこまで僕に良くしてくれるのでしょうか」
「わからない。ただそれが私にとって最も自然であるような気がするんだ。私が特に意味もなく穴を掘ったり埋めたりするように、君を助けることは私にとって自然な事のように思えるんだ。それに、私は君の事が気に入っているしね」
「よくわかりません」
「わからなくてもいい。君だって、この世界からでいく理由をそういう何か目に見えない自然な物に任せているだろう。それと同じだ」
***
森を抜けると、やはり門番のところにあるのと同じように壁が鎮座していた。壁がこの世界をぐるりと囲っているというのはどうやら本当であるらしい。
「どれくらいの厚さがあるんだろう」
「とても厚いよ」
それじゃ答えにならないだろう、という視線を僕は老人に向けた。老人はにやにやしていた。だが冗談を言い合う間にもその手はやはり震えていた。
老人が壁へと足を進めたので、僕もそれに着いていった。壁に一歩近づくたびに視界をピンクのグロテスクが満たしていく。壁の目の前まで来たとき、僕の視界はそのグロテスクに満たされていた。
「これを巻きたまえ」
老人は黒い布を取り出して僕に渡した。僕はその布をちょうど僕の目が隠れるように頭に巻いて、しっかり縛った。
「さぁ、掘ってみようじゃないか」
僕らは光への掘削を始めた。
***
ぶよぶよした壁を掘削するのは骨が折れた。シャベルを突き立て、肉を抉る度に何かぬるぬるした、温かい液体が顔にかかった。多分、血液か何かだろう。僕は老人に壁の下の地面を掘ることを提案してみた。
「だめだ。一度、下を掘った事もあるが結局は肉の壁にぶち当たる。地中のどこまで壁が続いているのか調べたことはないが、相当下まで続いてると思う。これだけ大きい壁を地面にしっかり立てなきゃいけないんだ。基礎だって相当な物だろう」
確かにそうかもしれない。僕は地面を掘るという考えをどこかへ追いやり、壁を直接掘る作業に戻った。しばらくの間、老人の指示する声と、僕が振るうシャベルの音だけがあった。老人の声はやはり震えていた。
五時間くらい掘っただろうか。多分、外はもう暗い。僕のいる穴を除いて。僕のいる穴から少し光が漏れている。外の世界の光が。
最初は老人の声のトーンが少し変わった。その後、しばらく掘り続けているとその声の理由がわかった。僕も目も布越しにわずかだがその光を感じ取れたのだ。
そして今、老人の声は掘り始めた時よりも明らかに恐怖心を強く含んだ物になっていた。
「大丈夫ですか」
僕が話しかけると、老人は僕の少し後ろ、穴の入り口からゆっくりとこちらに近づいてきた。そして僕の耳元に口を持ってきた。
「こうしていればどれだけ声が震えようと、小さくなろうと、よく聞こえるだろう」
「でも、光を直に浴びなくてならない」
「かまうものかよ。一番大切な事は君が外の世界へ出て行く事なんだから」
「あなたの事も、僕は大切だ」
「ありがとう」
老人はそのまま僕の耳に指示を続けた。老人の気持ちは変えられないらしい。僕はそのまま掘り続けた。老人の体温が耳から伝わってくる。僕は老人の声に従い、光に向かってシャベルを振り続けた。もうゴールは近いと思う。
「もしも」
老人が囁く。
「私の声が聞こえなくなっても、君は掘り続けるんだ。ちょうど補助輪なしの自転車のようなものだ。時が来たとき、君にはもう自転車を掴んでいてくれる誰かは必要なくなっている。私が手を離したとき、君の自転車は軽やかに君を外の世界に連れて行くだろう」
僕は光へ掘り進み続けた。シャベルと肉体が一体化しているみたいだ。老人の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。それは僕が作業に集中しているからかもしれないし、老人が既に手を離してしまったからかもしれないし、或いはその両方かもしれなかった。
もはや僕の瞼を覆う黒い布は白一色になりそうだった。全身を焼くような強い光が体中にぶつかって弾けている。熱い。
光の熱と僕自身の運動で汗が一層だらだらと全身をつたう。或いはその汗は壁が流した血液かもしれない。どこまでが肉体で、どこまでがシャベルで、どこまでが壁で、どこまでが光なのか。全てが曖昧になっていく。
曖昧に。光と。僕と。老人と。
***
大きな手のひらが僕の全身を包んで支えていた。視界には僕の数倍はある巨人の顔があった。今僕の体を支えているのは得体の知れない巨人の手のひらだ。数人の巨人が僕の周囲を囲んでいた。巨人たちは皆一様に怪しげな装束を纏っていた。顔もその装束で覆われているので、表情はよくわからない。僕は壁の外に出ることが出来たのだろうか。老人はどこへ行ったのだろう。僕はどうなってしまったのだろう。急に僕は叫び出したくなった。僕の意志でどうにでもなった街とは違う場所にいるのは明らかだった。
僕は大声を出して叫んだ。が、上手く声が出ない。肺の中にあったわずかな空気が声帯を軽く揺らしただけだ。僕は呼吸をする事すらこの瞬間まで忘れていたらしい。
もう一度しっかり空気を肺で捉え、体内に取り込んでみる。肺の中を空気が満たしていくのを感じる。そして最大にまで膨らんだところで一気に空気を声帯にぶつける。
こんどはちゃんと声が出た。それから一瞬遅れて笑い声が聞こえた。僕を取り囲む巨人達の笑い声だった。
僕は元いた世界の事を思い出そうとしてみた。けれど多くの事がかすんで思い出せなくなっていた。ついさっきまで覚えていた事が次々と頭の中からぬぐい去られていく。
僕を手の平で包んでいる巨人と、その周囲にいる巨人達の祝福と歓喜の声だけが脳に響いて他は何もわからなくなっていく。
消えていく記憶の中で僕は老人の事をもう一度思い出そうとした。僕を外の世界に連れてきてくれたあの人の事を。でもダメだった。もう彼の輪郭さえぼやけている。
僕はもう一度肺いっぱいに空気を吸い込んで叫んだ。僕はその叫び声でずっと泣き続けた。それは何に向けられた泣き声なのか今の僕にはもうわからなくなっていた。ただ僕は魂が指し示す方向に従いどこかから脱出し、また魂が指し示す方向に向かって泣いていた。
意識が無くなるまで僕は泣き続けた。巨人達はそんな僕に祝福するような笑顔を向けていた。
壁の外 キィ(ツッパリ) @kii8508110
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます