像皮疹書

安良巻祐介

 

 雨だれが屋根に何を穿つかと考えて椅子に座れば、そう苦労もせずに一日が過ぎていく。

 私はもう何年も掃除をしない埃だらけの書斎に一人居座って、曇りきった窓から、枯れた月の色を眺めていた。

 胸に感慨はない。驚くほど、頭の中に何もない。ふっくらと羽毛の詰まった真っ黒なコートが私の体を包んでいる。暖かい。しかし満たされてはいない。私の為に死んだこれらの鳥たちが何の種類なのだか、私はそれを知らない。

 机の上に積まれた本のうちから一冊を手に取る。ほんの少し、部屋の薄さびた空気がきらきらと光った。

 ふうと息をつくと、椅子に埋めた、ただ重たいだけの身体の重みがいっそう増すような気持ちがする。私はその皮表紙の本の、最初のページをゆっくりと開いた。

 扉絵には一匹の獣が書かれてある。色は黒い。角や歯らしき形がギザギザと生えて、手足は四方に狂おしく躍っている。悪魔デマンを模したものでもあろうか、しかし意匠は御世辞にも成功しているとは言えず、つまり、この悪魔の姿態はあまりに人間に近すぎる。黒い皮膚の一枚下に不格好なだけの姿を懸命に隠そうとする哀れな男の骨格が透けて見える気がする。絵師の失敗だ。私は嗤った。椅子に埋まった体をひくひくと震わしながら。そしてページをめくった。旧字体の文章がずらずらと書かれてあった。『これは私の不幸な物語です。私の告白を聞いて下さい。私は山羊の仔になりたかつた。あの醜い月を是が非でも愛したかつた……』私は幾分の興味を覚えてさらにページを繰った。セピヤ色にくすんだ紙の感触はざらざらと指に障った。

 ボン、ボン、と時計が鳴っている。物語は良家の嫡男として生まれた人間の男が魔術に狂うていくありさまを執拗に描き出していった。『理性といふ狂気の元に魔魅は生ずるとかや』――異形と成り果てることへの願望と葛藤。星の光と、粘つく血と、煙の臭い。

 しかし語り部の舌が滑らかに湿されていくにつれて、私の心はどんどんと乾いていった。蒼然のインキに酔っ払った旧字体が、ひどく脆弱なものに思われてくる。デモーニッシュだとか、背徳主義だとかという言葉が出るたびに、溜息の相の手を入れるようになった。まるで意味がない。辞典に蒐集された呪文の如く、これでは、かたちをなぞっているだけである。私は再び嘲笑を浮かべた。あの絵は絵師の失敗でなく諧謔であったか。とんだ一幕だ。骨の覗いた悲喜劇ほど悲しく滑稽なものはない。

 椅子にのめり込んだ体を震わしながら、しかしふと、字の上を滑っていた筈の眼が浮遊して、そろりそろりと蝿の如く、本の重みを支える右手にとまった。埃の光る空気に響く嘲笑に、骨ばった、毛だらけの私の右手もまた、耐えかねるように震えている。

 猿の手、という脈絡のない言葉がふいに脳裏に浮かんだ。それはいつか読んだ寂しく悲しい因果の物語ではなく、ただその語感を以て、私の心を突き刺した。身を苛む本当の寒風も、焼け溶けるような愛の体温も未だ知らずに、ただいたずらに歳を経てきた、この右手。心臓のどくどく鳴りだしたのを聞きながら、私の目玉はページの上をいつしかふらふらと彷徨った。『……さうしてかの取引に失敗した私は、衰弱した体に黒い皮を被り、嘗ての子供部屋に閉ぢこもつたのです。そこには窓はなく、月の形と色とをさも景色の如く描き出した油絵一枚ばかりが汚れた壁に掛けられてゐました。……』

 私は愕然として、本を取り落した。ぎし、と首が軋む。その首を回して、窓を見る。相も変わらず、灰色に曇った硝子にぼんやりと月が滲んでいる。時計がボーンと鳴り響く。床の上でばらばらと本のページがめくれている。椅子の上から、私は手を伸ばした。

 物語は巻き戻り、扉絵が再び現れていた。不格好に踊る黒い獣。その顔が何かに似ている気がして、震える手でめくったその裏に、一言の献辞――『お前に』と。

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像皮疹書 安良巻祐介 @aramaki88

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