三日月の弔い

桜枝 巧

三日月の弔い

 少女に出会ったのは、退院後の検査を受けた後の事だった。

 当時中学二年生だった僕は虫垂炎、いわゆる盲腸になり入院したのだ。手術は特に何事もなく終了し、後は通院で経過を見ましょう、と医者には言われていた。

 僕が入院していたのはそれなりに大きな病院で、敷地内の中心には中庭があった。誰かが種を拾ってきてばらまいたのだろうか、梅雨だというのにタンポポがいくつも咲いていたのを覚えている。


 少女はその脇で、必死に穴を掘っていた。


 年齢は小学校低学年、といったところだろうか。明るい色をした髪は、しゃがんでいるせいで先の方に泥が付いていた。

 この年代にしては肌が白い、のは恐らく彼女が入院用らしきパジャマを着ているからだろう。

 少女の手には一回り程小さい玩具のスコップを柄の根本からひっつかんで、何かにとり憑かれたかのように穴を掘り続けていた。昨日の雨で土は柔らかくなっていて、掘るにはおあつらえ向きと言えた。

 大きさとしては彼女の頭が入りそうなくらいだろうか。


「……何してるんだろ、あの子」


 ぽつり、と僕が呟いたところで、ふと少女が手を止めた。

 しまった聞かれたか? そう思ったが、どうやら違ったらしい。彼女はひとつ汗をぬぐうと、近くにあった水道でどろどろになってしまった手を洗った。

 よく見ると、少女が掘った穴の近くに何かが置いてある。


 メロンパン、だった。


 購買でよく売られているような代物で、実際それは病院内の売店で売られていた、と思う。量産品らしく、安っぽいビニルの袋に入っていた。

 少女が戻ってくる。手にはピンク色のタオルが握られている。

「……そっか、そろそろおやつの時間か」

 納得して頷く僕の前で、彼女は予想通りメロンパンの袋に手を伸ばす。


 そこで、流石に視線に気が付いたのか、少女と目が合った。


 あ、と言う前に、彼女がぺこりと頭を下げる。

 正面から見ると、そばかすが目立つものの瞳の大きな少女だった。焦げ茶色の瞳孔が、こちらを検分するかのようにじいっと見つめている。

 僕は苦笑して、気にしないで、と手を振った。何だかこちらが恥かしいところを見られてしまったような、そんな気分になる。

 あまり長居してもよいことはないと判断して、僕はその場を去ろうと、した。

 去ろうとしていた。


 唐突に少女がメロンパンを半分に割り、残りの半分を直に地面に置くまでは。


「へっ?」

 思わず変な声が出た。

 僕のジェスチャーをきちんと汲みとったのか、もう彼女が止まることはなかった。

 あっという間に手に持った、まだ無事なほうのメロンパンを食べてしまう。それから無事ではないほう、ぬかるんだ泥で汚れてしまったほうをむんずと掴む。

 よくよく見ればそれは正確に半分、というわけではなく、どちらかと言えば三日月に近い形をしていた。黄色い、カリカリになった皮の部分がいくらか剥がれ落ちる。

 

 そして少女は、三日月型のメロンパンを穴の中に差し入れた。

 

「えっ……うん?」

 僕の戸惑いを完全に無視して、少女は穴を埋め直しにかかる。数秒と立たずそれは周りの地面と区別がつかなくなった。ふう、と満足げに彼女は息を吐く。

 顔を上げたところで、再び僕と視線がぶつかった。まだ去っていなかったのか、とでも言いたげに、少女の首が傾く。僕が何も言えずに数秒固まっていたところで、彼女の赤い唇が開いた。


「あ、もしかしてメロンパン食べたかったんですか?」


 訳が分からなかった。




 一週間後、再び中庭を訪れると、少女はやはりそこで穴を掘っていた。前回メロンパンを弔った場所から、一メートルほど離れた場所だった。

 弔い。

 そう、彼女は「弔い」だと言っていた。


『死んでしまった月の、弔いをしていたんです』


 思った以上に、少女ははきはきと話した。中学生の僕相手に口調は丁寧で、しかし遠慮はなさそうだった。あまり崩れない表情のまま、彼女は歌うように話す。

『月が徐々に崩れていく、というのを学校のプリントで読んだんです、私。ううん、友達が持ってきてくれたそれには太陽の光がどうのこうの、って書いてあったけれど、私はそうは思いません。だって望遠鏡で見たんです、月は穴だらけでした。きっと、時間ごとに崩れていって、何も無くなってしまったらもう一度少しずつ、少しずつ作り直されていくんです。また壊れていくことも知らずに』

 少女は泥だらけのスコップを持って、ごめんなさい、気づかなくって、と謝った。


『だから毎日、食べきれない分のおやつを崩れてしまった月の欠片の代わりに埋めているんですけれど、しまった、お兄さんにあげれば良かったです』

 

 話を聞けば、なるほど、彼女はここに長いこと入院しているらしい。あまり物を食べないことを母親が心配しているらしく、毎日おやつをひとつ持ってくるのだそうだ(果たしてそれが良いのかは分からないが)。しかしそうは言っても最後まで食べきることは難しく、母親にそれを伝えるのは申し訳ない。

 そこで、中庭に食べきれない分を埋めているらしかった。

 理解できる、と言えば嘘になるけれど、小学生にしては大人びた、しかし子供っぽい発想だと言えた。


「……はろー」

「あ、お兄さん」

 

 僕の声に、五歳程年下の少女が反応する。すでに弔いのための穴は完成していて、しかしここ数日は晴れていたからだろう、前回見た時よりもそれは浅くなっていた。

「今日はクロワッサンです。……一緒に食べますか?」

 穴は掘っちゃいましたけど、と彼女は笑った。僕は黙って頷いた。


 少女は最後まで、自身の病名を明かすことはしなかった。言いたくなかったのかもしれないし、単に知らないだけかもしれなかった。僕も聞こうとはしなかった。

 お互い、偶然にも居合わせてしまってなぜか存在してしまっているクロワッサンを口に運んでいるところなんです、そんな空気を作り出していた。


 今日の死体になるはずだったものの端っこを千切りながら、少女は様々なことを話した。

「事典が好きなんです、そう、百科事典。百、っていうくらいだから、世界の全てが載っています。ホメオスタシスも、上田秋成も、メソポタミア文明も、みんな、みーんな一緒くたになって、でもきちんと整列して並んでいるんです。図書ルームに十五巻分揃っているのを見ると、何だか地球を丸ごと飲み込めてしまいそうな、そんな気分になります」


 そうでしょう? とでも言いたげに、少女は僕を見た。

 ぶっちゃけた話をしてしまえば、百科事典なんて学校の図書館で埃をかぶっているところしか目にしたことがなく、まして触れたことなどなかった。

 それでも僕はにっこりと笑って「ああ、そうだね、まったくもってその通りだ」と言った。その癖、口内の上の方に、クロワッサンの欠片がべったりとくっついているのをずっと気にしていた。




 その次の日から、僕は頻繁に病院の中庭を訪れた。

 検査はとっくに終わっていて、学校に行くようにもなった。その少女以外、全てが元通りになっていた。時計が秒を刻むようにまた進み始めた日常の中で、少女だけが未だ特別だった。

 名前を交換することもなかった。必要がなかったからだ。

 僕らの周りには死体のない穴ばかりがぼこぼこと増えていった。




「ねえ、お兄さん。知ってますか、土葬って世界から見たら、むしろ火葬より一般的だそうですよ」


 ある日はそんな話をした。

 日本で14年間生きてきた僕はそんなことを知っているわけがなく、間抜けた顔を見事に晒してしまったのを覚えている。

 「そうなの?」と僕は聞いた。最早彼女に格好つけることなんて馬鹿馬鹿しくなっていた時期だった。

 百科事典を平気で開く女の子に、僕が叶うわけがなかった。


 ぴんっと人差し指を立てて彼女は笑った。僕はその時の少女の表情がいっとう好きだった。

「中国と韓国、この二つは儒教からですね。タマシイは死後にコンとハクに分かれるんです。コンは天に昇り、ハクは地に潜る――つまり土葬ですね。火葬しちゃうとこいつが破壊されちゃうんで、いけないこととされています」

 暗記した文章を読み上げるように、少女は話した。

 魂と魄、という漢字を知ったのは随分と後のことだ。

「親不孝らしいのです。まあ、最近は割と火葬も多いらしいそうですがね」と、薄ピンクのパジャマを着た彼女は言う。


「次に欧米、ざっくり言えばキリスト教圏です。ここは死後の復活に躰が必要なので、基本的に土葬です。ただ、やっぱり土地問題とかあるそうなんですが」

 そんな感じで日本は火葬率第一位らしいですよ、と少女は話し終えた。少々舌ったらずな言葉たちは、しかしすんなりと僕の耳に入って来た。


 その日の死体はロールパンが5つ、だった。中にはバターが入っていた。

 僕が3つ食べ、彼女が2つ食べた。


「へえ、じゃあ本当に月の修正をしていたんだね、君は」

 穴の開いた中庭を見ながら、僕は言った。少女が目を輝かせて頷く。

 言いながら、既に胃の中に入ってしまったロールパンのことを思い浮かべていた。食べてしまった月の欠片は、一体どこにいくのだろう。

 食葬、なんて言葉が浮かび、慌てて首を振る。いい加減、彼女に毒されすぎだ。


「そう、そうです。土に埋めることは即ち、再生のための儀式なんです。私がこうやって少しずつ落ちた破片を埋葬することで、月はああやってまた輝くことができるんですよ」

 少女が指さした先には、うっすらと白く光る月があった。満月だった。

 彼女は膝にわずかながら残ったロールパンの滓を、大切そうに土の中へ葬った。




 月が満ちれば次は欠けるだけであることを、僕はすっかり失念していた。

 当たり前のこと過ぎて、忘れていたのだ。学校生活が忙しくなったこともあって、月を見上げることさえ、なかなかなかった。

 そして当然の如く、少女も知っているはず、だった。


「どうしましょう、お兄さん」


 彼女はそう言った。心から心配している、どうにかしなければいけなくて居ても立っても居られない、そんな表情だった。

 僕は驚いて、「どうしましょうって、そりゃ、二週間も経てばまた修復されているだろう」と言った。

 月の満ち欠けの周期なんかは理科の授業で既に習っていた。僕よりも賢い少女のことだから、それくらい知っているはずだ。埋葬だのなんだの言っていながら、その辺の世界の原理は理解しているはずだと、勝手に決めつけていた。

 否、実際知っていたのだろう。それでも彼女は不安げな表情をしたままだった。


「嫌、嫌です。困りました、お兄さん。私達は落ちた月の欠片をみぃんな食べてしまったんです。このまま月が欠けて行って、元に戻らなかったらどうしましょう? ああ、月が、月が」


 狂ったように少女は頭を抱えた。目はくっきりと見開かれていた。震えていた。

 傍には今日の死体が、奇しくもメロンパンが袋に入ったままひとつ、置かれていた。綺麗な満月の形をしていて、なるほど月の欠片と言うには最も適していると言えた。

 既に消化されたはずなのに、胃の中で今まで食べたものたちが帰りたい、帰りたいと蠢いている気がした。気持ちが悪かった。罪悪感と現実離れした浮遊感が混ざり合って、初夏の日差しとともに向かってくる。梅雨はとっくの昔に明けていた。ぼこぼことした穴を数えるのも馬鹿馬鹿しかった。

 僕は何となく、終わりを悟っていたのだと思う。

 

 少女に近づいた僕は、しゃがみ込んでメロンパンの袋をつまんだ。それはいつかのように少し土で汚れていた。散々土を掘り返していたのだ、この辺の地面は随分と柔らかくなっていたことだろう。

 僕は袋を開けた。あっさりと口を開いたそこから、満月を取り出す。これじゃあだめだ、と呟いた。完璧なものは欠片に成り得ない。欠けていなければ、それは本当の月を元に戻すことはできない。

 ぶつぶつと口走っていた少女はいつの間にか黙ってこちらを見ていた。なんだよ、現金な奴め。

 

 僕はメロンパンを半分より小さめに千切った。彼女がどれくらい食べられるのかはここ数週間ですっかり把握していた。

 「ん」とだけ音を発して、彼女に差し出す。恐る恐るそれを受け取った彼女は、パンにかぶりついた。一口ごとに少女の歯型が生まれていく。

 時折上のビスケット生地からぽろぽろと破片が零れ落ちた。僕はそれも、彼女の膝から丁寧に拾い取った。暫くの間、少女が食べ、僕が欠片を拾い集めるという作業が繰り返された。食べ終えたころには、手のひらには滓の小さな山ができていた。


「お兄さんの、分」


 彼女はそう言いかけて、口をつぐんだ。土の上に直接置かれたもう半分は、食べられたものじゃあないだろう。それは最早、僕の物ではなかった。彼女の月のものだった。

「埋めようか」

 僕は言った。


 実際に何かを埋葬するのはこれが初めてだった。虫も動物も飼ったことがなかった僕は、穴を掘るのに少々手間取った。雀の死骸を見つけて母に相談したら「まさか触っていないでしょうね。念のため早く手を洗ってきなさい」と言われたことを、ぼんやりと思いだす。

 少女は僕の作業をじっくりと見ていた。彼女が手伝うことはなかった。僕にやらせてくれ、と頼んだからだ。柔らかいとは言えそこそこ重さのある土を、僕は彼女に借りたスコップで除けていった。爪の先はいつの間にか茶色くなっていた。


「そろそろ」

良いと思います、と少女は言った。僕は手を止めて、じんわり滲んだ汗をぬぐう。なるほど、確かに月の欠片を埋めるには丁度いい大きさだった。優しくそれを持ち上げ、穴の底に横たえた。

 一部分が千切られたそれは三日月のようだった。なあ、これでいいんだろ、これが正しい答なんだろ? 声には出さず語りかけてみる。応えは当然のように返ってこなかった。


 土をかぶせる作業は掘る作業より楽だった。労わるようにそっと欠片を埋めていく。すっかり見えなくなった時、僕は全てが終わったのだ、と思った。

 二人で手を合わせ、どうか月が元に戻りますように、と願う。

 どうか少女の月が、永遠に存在し続けますように。




 この日を境に、僕がこの病院を訪れることはなくなった。風邪を引いた時も、違う病院に行った。その内、父の転勤によって町自体を離れることになった。


 きっと、今も彼女は月の欠片を弔い続けているのだろう。

 僕は今夜も、三日月を見上げている。

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