305.Libera me
リディアはただ白の中にいた。眩しいほどの白、立っている地面は真白の大理石のようなもの。
霧なのか光の中なのか、おぼろげにリディアの左右に円柱が並んでいるのが見える。
(……ここは、過去じゃない)
あのあと、白木蓮がリディアに契約をするか問いかけるはずだった。
けれど、それは起こらなかった。
子どものリディアが持っていた花と、リディアが運んできた白木蓮の残滓。
それが共鳴しあい、そして――。
ディアンも、悪魔も、番犬もいない。魔界でもない。その禍々しさよりも、むしろ反対の世界。
リディアが両手を回しても届かないほどの太い柱。
首を伸ばし見上げても、白の中に溶けて
いつのまにか、子どもの姿から本来の自分の姿に戻っていた。
(……これはどういうこと?)
過去に戻ったはずだが、全く別の世界にきてしまったようだ。
何しろ、過去に意図的に戻ること自体が初の試みだ。
(どこに、来てしまったの?)
戸惑いながら柱廊を進みながら気づく、どこからか物悲しいような音が響いている。
優しくて郷愁を誘うメロディに、時折シャン、と金属でリズムを取るような音が鳴り響く。
不意に冷たい水混じりの風が吹いて、霧を吹き飛ばす。ちらりと見えたのは、円柱廊の左右に配置された長方形の池。
白の中に透き通るような水色の水面は床と同じ高さなのに、強い風でも床零れることがない。
その上で濃緑色の葉と桃色の花を持つ睡蓮が揺れている。途方にくれるほど広く傷や汚れひとつない白い大理石の床に、巨大な池。
空は靄で見えない。
視線を前に戻したリディアは、いきなり目の前に巨大な建物がそびえ立つことに気がついた。
(……宮殿?)
いや、そういう華美さはない。円柱はなめらかな表面で柱頭は装飾もなく簡素だ。
――まるで神殿のようだ。
円柱の間を通り、リディアは招かれるように内部へと進んでいった。
何本もの大きな柱が複雑に立ち並んでいる。支柱同士は尖頭のアーチを描き、それぞれが傘のように広がっている。まるで枝のようだ。
そして、その奥にひとつの存在がいた。
真白の中に、光り輝く存在。以前会ったときには、全身が黒い瘴気に覆われていて、もとの姿はわからないほどだった。
けれど、今その瘴気は欠片さえもない。
「――白木……蓮? 呪いは消えたのね!?」
走り寄ろうとして、リディアは足を止めた。何かが、違う。
白木蓮はリディアのせいで、呪いを全身に受けた。けれどリディアは彼と呪いを交換し、身に引き受けた。そして呪いはディアンが吹き飛ばした。
でも、花弁は枯れかけたまま。
だから白木蓮の呪いは消えていない、そう思っていた。
存在を包む眩しい光が消え去り、姿が視認できる。
それは――リディアと同じ人間の姿だった。
“――ようやく、私のもとに来たね"
彼が腕を開き、尊大にリディアを迎え入れる。
それは神と呼ばれるもの、なのだろうか。
彼はリディアを見て、うっとりとした眼差しを浮かべている。
けれどリディアは、動けなかった。
「……お、にい、さま」
内側から光を放つほどの美しいプラチナブロンド。端麗でいながら、冷ややかな容姿は、更に磨きがかかっている。
確かに目の前のものは、兄だった。
けれど――放つ気配も、存在も違う。次元が違う、とでもいうのか。
人ではない。人の世界にはいられない。人とは相容れない。
――最後にシルビスで会った時の兄とは、様相が違っていた。
あの時ディアンの剣に刺されて、地に伏した彼は憔悴していた。
恨みを募らせ、叶わぬ相手に憎しみを吐き、それでももう抗う力は残されていなかったはず。
だが今の彼は、この存在は違う。
放つ気配、力、存在感、何もかもが違う存在だとリディアに訴えてくる。
「……あなたは、誰?」
リディアは、震える声で問いかけた。兄の姿には、まだ怯える。けれどこの存在には畏怖さえ覚えるのだ。リディアが相対していいものではない。
「白木蓮……ではないのね?」
彼はただ微笑みを浮かべる。そんな笑みを兄は浮かべたことがない。彼の顔なのに、中身は違う。
兄の姿は器だ。
(どうして、そんなことが……)
“――それは、これのことかな”
兄が――兄の姿をしたものが掌を差し出す。
茶色い一枚の花弁は、確かに白木蓮の残滓。だが、その畏敬の存在の中で、その花弁は黒ずみ、まるで炭のように縮まり、そして風に流されていった。
「――白木蓮!!」
嫌! とリディアは叫んだ。
「待って、白木蓮っ、どうして……」
“――これはもう、終わったモノ”
まるで物のように、この存在は言い放つ。
リディアは目を閉じる。ぎゅっと、閉じて深く、長く吐いた。
やはりこの存在は――そうなのか。
白木蓮は、彼にとってはただの代わり。彼のかけらの一つ。
「あなたは――太陽の主?」
――間に合わなかった。
蘇ってしまった。
“――私の闇の姫、ようやくひとつになる時がきた”
リディアは目の前の存在の彼は、喋っていない事に気がつく。
声が聞こえるのに、響いているのに。
思わず、一歩下がろうとして、なのに足が固まったように動けなくなっているのを自覚した。
この存在は、なんだろう。
――神、なのだろうか。白木蓮はリディアの主で、太陽の主の欠片。上位の存在、神と呼ばれるものの一部。
でもこの存在は、あまりにも違う。
会話をすることが恐ろしい。
「その姿は、あなたのもの、ですか?」
彼は口を開かない。
「お教えください。私は人間です。その姿のものの、身内です」
彼はようやくその下位の存在、リディアを不思議そうに見やる。
「その人間は、私の兄、でした。器の中身は――消えたのでしょうか」
(……おにいさま……!!)
兄はずっと、誰かを、何かを操ることに固執していた。
最初は虫の死体。死霊術を始めとする禁術や禁止魔法を習得していたのは、何のためだったのだろう。
おそらく彼は、太陽の主を、乗っ取ろうとしたのだろう。
そしてその結末が――今のこれだ。
自分の中に取り込もうとして失敗した。
リディアは愕然として兄であったものを、見つめ続ける。
“――この身は私のためのもの。私がまたこの世界に現れるためのもの”
シルビスにいた彼はなんだったのだろう、兄だとリディアが信じていた存在は。
そして、ディアンが漏らした兄に対しての“獣”の意味が頭に繰り返される。
あれは――、あの意味は。
「あなたはその器を模したものを、人間界に置いたのですね――。あなたの配下の獣を入れて」
『光の主は、自分の姿を模したリュミナール種族をつくりたもうた』
創世記の一節だ。
光の主――太陽の主は、自分の姿を模したものを作ることができる。
シルビスでの彼は、兄そのものの振る舞いだった。
だが、リディアは兄のことをしらない。彼が何を望み、いつから何の野望を抱いていたのかを。
兄が望んだのか、それとも獣が望んだのか。
グレイスランドの四獣は封印を成していなかった。一匹は盟友に、一匹は人に、一匹は地下で復讐を誓い、そして一匹は行方不明。
人間となり生まれ変わるもの、姿を分散して世界に欠片として散るもの、噂は様々でその秘密は師団の団長しかしらない。
太陽の主の四獣の一つ。
行方不明だった獣が、いつから兄と入れ替えられていたのかわからない。
シルビスでは、兄は確かに何らかの野望を抱いていた。
その時点では、まだ兄であったのか、それともすでに獣だったのか。
もしかしたら兄の器に宿された獣が、その主に反逆を抱いたとしてもおかしくはない。
「お兄様――あなたは、そこにいますか?」
リディアが問いかけても、目の前の存在は答えない。
兄の魂は、兄はどこかへ消えてしまったのか。
兄の姿をした神は、リディアを見ているが、見ていない。その存在は神々しく、あまりも汚れがない。
悪びれないどころか、微笑みなのかさえわからない表情を浮かべている。
彼は獣など、自分の従属するものなどどうでもいいのだ。
“――さあ。私の君。一緒になろう”
リディアは彼を見上げ、後ろに下がろうとした。首を振ったかもしれない。でも動けない。
「……嫌です。私は、人間です。そのような方ではありません」
太陽の主が求めている存在じゃない。
彼は黙ってリディアを見て、そして無表情になる。
「あなただって、代わりは嫌でしょう?」
“――君が、来ないのはこのためかな”
彼が手を振るうと、ぼんやりとした映像が浮かぶ。
グレイスランドの地が俯瞰された景色のように浮かび、だんだんと近づいてきて、やがて首都の人々の姿さえも見えるほど近くなる。
“――おろかな命、そのために君はいつも私と一つにならない”
「私は……」
そして、視点が変わり、グレイスランドの青い空が映される。
空を泳ぐ優美な姿。白銀の長い胴体をくねらせ巨大な翼が空を翔ける。
彼が鉤爪を持つ腕をひとなぎすると、グレイスランドのものではない機影がグシャリと潰れて、丸い鉛の塊のように、ぼとぼとと海へと落ちていく。
翼が一振りされると、現れた竜巻がグライスランドの頭上に展開していた機体が制御を乱されて、次々と木の葉のように舞い踊り落ちていく。
機体から放たれた炎を纏う爆撃は、大きな
「空の、王――?」
“――まずは、一匹”
彼の声が響く。その瞬間だった。それまで圧倒的な力でグレイスランドの領空を侵していた他国の機体を消滅させていたグレイスランドの守り神――アウダクスが動きをピタリと止める。
そして、唐突に身が膨らむ。
それは風船のような、丸い果実を腹に飲み込んだような、または病気で膨らんだかのようだった。
彼が苦悶の叫びを上げるまでもなく、パンと音を立てて破裂し、そして肉塊がグレイスランドの地へと落ちていく。
「――アウダクス!!」
リディアは悲鳴を上げる。嘘だ。この映像は、本当のものなのか。
彼を取り巻いていた機体も、どうしていいのかと混乱して動きを止めて、まるで何かの爆撃をさけるかのように急に散開して撤退していく。
「嘘でしょ、うそ……」
かの王は、確かにグレイスランドの結界で封印されていた。けれどいつの時代か、師団の団長と契約を結び盟友となり、そして守りの獣となったのだ。
呆然とするリディアに、至高の光を放つ神が手を伸ばし、懐に抱く。
リディアはされるがままだった。
彼が、兄の姿をした何かが、まだ映像を眺めるリディアに構いもせず横から抱いて、その髪を撫で、頭に唇を落とす。
(アウダクス、が……、守りの要が、そして――)
何よりも、彼は師団の盟友だった。
“――まだ、足りないのか――”
耳元で囁く声の意味がわからなかった。
また映される光景が変わる。
そこは、グレイスランドではない。シルビスだった。
王宮の一室、魔法陣の中に佇む存在が強大な力を発動させていた。傍らに背筋を伸ばして優美に佇むフランチェスカが、フッと顔をあげた。
その魔法陣の中には、兄の姿をした存在がいた。リディアを今抱くものと同じ姿をしていながら、両者はどちらも全く違っていた。
どちらも兄ではなかった。
彼はまだ透き通る大剣に身体を貫かれていた。それを外そうとしているのか、それともディアンを、グレイスランドを魔法で攻めようとしているのか。
魔法陣の中でなにかの魔法が発動しようとするその瞬間、兄であるものの顔が驚きに満ちる。その顔が最期だった。
同じように身体が膨らみ、パンっと音を立てて、兄であったものは消滅した。
「おにいさま……!」
魔法陣の中に残された透明な水晶のようなディアンの剣が、重力の法則を忘れたかのように空中に浮かんだままで、遅れてカランと床に落ちた。
血と、肉片だけが、彼のいた証、だ。
「……う、そ、でしょう」
(お、にい、さま……)
一度は殺すことも覚悟した。ディアンに封じられて、何も思わなかったわけじゃない。
でも、こんな終わり方を――望んだわけじゃない。
たとえ、シルビスにいた彼が兄ではないとしても。
太陽の主が作った偽物だったとしても、その終末の残酷さに、呆然とする。
“――まだ、足りないのか”
リディアは、彼を見上げた。初めてかの存在の胸に手に触れる。
(……ワレリー団長!?)
「やめて、やめてください!!」
あの人も、神獣だ。この相手の配下にある。
彼が消されてしまったら、グレイスランドはおしまいだ。いや、リディアはもう自分が保てる自身がない。
――決意はすぐに崩れる。自分はもう誰かの言いなりにならないと決めたのに。
どんな条件下でも、屈しないと決めたのに。
(……一緒に、行きます)
あなたとともに。
その言葉を発しかけるが、でもどうしても言えない。
それを察したのか、太陽の主は、リディアの頬に触れる。
“――ああ、私の愛しい君”
彼がリディアの顎を掴み、そして慈愛のような満ち足りているような表情を浮かべる。陶酔のような響きが頭に浸透して、リディアに唇を重ねる。
それは冷たくヒヤリとしていた。
(……これは、なに)
兄の姿をした、これは、なんだろう。
何かと触れ合っている気がしない。
顎から頬に手がなで上げられて、輪郭をなぞるように、確かめるように触れられているのに。
何かをされているのはわかるのに、感情が伝わってこないどころか、ただ触れられているだけとしか感じない。
深く抱きしめられて、その身体の中に溶けていくようだった。
ずぶり、とリディアの身体が彼の中に入っていく。少しずつ、少しずつ、意識が、思いが消えていくようだった。
*Libera me
(私を解き放ってください)
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