295.still in the madness
兄の制裁は、あれ以上なかった。
カーシュは翌朝、連れて行かれた。
朝だとわかったのは、リディアが部屋を出る際に見えた東の窓から、朝日が差し込んでいてからだ。
彼はその前に冷たくなり、心臓の拍動が消え、そして呼吸を止めた。
心臓マッサージと人工呼吸をして、誰も応えるものがない部屋で叫び続けたが、誰も来なかった。
叫び続けたリディアの喉は、ひりひりとした痛みを与える。こみ上げてきた咳をすると痰に血が滲み、声はしゃがれていただけだった。
あの部屋に戻るのかと思っていたが、段々と狭くなる階段を何段もあがらされて、外に連れ出され、窓の塞がれた馬車に載せられる。
目隠しはされないのか、と訝しく思っていると、外からの喧騒と揺れが少なくなる道に、まさか、と思う。
しかし、まさかのようだった。
馬車から降ろされて、唖然としていると、目の前にはシルビスの王族が現在住まう宮殿があった。しかも馬車で一時間近くかかる離宮ではない。
(……どうして、ここに?)
みすぼらしい格好のままのリディアが入るように促されたのは、召使い用の木戸の裏口だった。
本殿よりかなり離れている、西の塔。
促されてかなり狭い小塔の螺旋階段をあがる。石を彫られた階段は年月ですり減り、丸みをおびて滑りそうだ。
そして階段の行き止まりには、一つの頑丈な鉄扉があった。
ここは塔の最上階なのだろう。錬鉄の格子戸がはめられた窓、指を伸ばすと痛みが走り、魔法を弾く術が仕込まれているとわかる。
壁には、薄暗い青を背景とした花がない花瓶の絵。誰のものかは知らない。
灰色に塗られた漆喰の壁、木造りの机と椅子とベッドが置かれている。
襟口まで覆う黒いメイド服と白いエプロン姿のメイドが待っていて、部屋の備え付けの浴室に連れて行かれた。
そこは古くてひび割れた細かいタイル張りの床で、古ぼけた浴槽が持ち込まれていた。浴槽の隣にはトイレがあった。
浴室の入口を塞ぐように、兄の部下が足を半開きにして両手を後ろで組んで立つ。一人は浴室の扉の外、一人は浴室の内側。
彼らは無表情で、メイドも必要以上に声を出さないと決めているかのように、固く口を引き結んでいた。
彼女がリディアの服を脱がし、お湯を張った浴槽に入るように促す。毛先は、リディアの吐瀉物か涙が付着したのか、凝り固まっていた。
無言の命に大人しく従い湯に身をつからせると、誰も声を発さないままお湯が頭からかけられる。
胸部の下の肋骨が浮き出ている。
(……こんな少しで、随分痩せた)
手首の付け根が黒くなっていて、訝しげによく見たら、骨が浮かび上がって窪みになっていただけだった。
誰も何も言わない。ただ水音だけが一番大きく響く。髪と身体を浴槽内で洗われて、リディアは立ち上がる。
立ち会い裸の自分を無表情で監視している兄の部下にも、リディアは何も思わなかった。もう何も感じない。
ディアンの配下ではないだろう。それにどこか安堵のようなものを覚えて、すぐに消えた。
リディアにはもう誰かと接触を持つ気にはなれなかった。
どっちみち、貴族にとっては、召使いは目に入らない。彼らの前で身体を晒すことは恥ではない。彼らはいない存在なのだから。
――部屋に戻ると、メイドが兄の兵にリディアが身につけるはずの下着と、ドレスを検分する。武器が仕込まれていないか、確認したのだろう。
彼が頷いた後、着付けられたのは、綿の簡素なドレスだった。
布製のコルセットに膝丈のズロワース。室内着のようなドレスをつけられる間、ずっと監視されていた。
終わるとまたリディアの前に立ち、ボディチェックがされる。リディアは両手を広げて、大人しくされるがままでいた。
いつの間にか、灰色の髪の男はいなくなっていた。
今は近衛兵の制服を着た淡い髪の年重の男が何も映さない目で、リディアを淡々と検分している。
彼が何も言わずに離れると、メイドと入れ替わるように次には白衣を着た初老の男性がトレイを載せた器具を持ち、椅子に座るように促す。
血液を採取されて、最終月経と生理の周期を訊かれる。それから診察をするからベッドに上がるように言われる。
簡素な下着とドレスはそのためか、と思った。
***
魔力抑制剤は、一日一回、朝食後。寝間着に着替えさせられて、ベッドに入り、朝に起きて、これらのことが繰り返される。
何も考えられない、ただ世話をされるだけで、自分がするのは、食事を取り、排泄をして、寝るだけ。
考えることを奪われているのか、自分が放棄をしているのかもわからなかった。
時折採血と診察が行われる。
兄もフランチェスカも来ない。外の情勢はわからないが、わかったところで何ができるだろう。自分にはもう関係ないことだ。
ただぼんやりとグレイスランドに残してきた顔が思い浮かぶ。
それもいずれ思い出さなくなるのだろうか。
そうしてこのまま一生終えるのかと思っていた時に、訪問があった。
唐突に扉の外で声が聞こえ、静かに開く。
陶磁器の人形のようなお姫様の顔が覗く。
白銀の髪、広い額。
向かい側に座り微笑むと、人形が息を吹き込まれたような美しい人となる。けれど生気を感じない。まるで操られた人の形をした、なにか、だ。
「直前に控えた婚儀の前に、あなたに会おうと思いまして」
「それは――ありがたく存じます」
そして、とリディアは続ける。
「この佳き日を迎えることにお喜びを申し上げます。シルビスに永劫の繁栄をお祈り申し上げます」
フランチェスカは笑みの形で口角を上げただけだった。
「ハーネスト伯爵夫妻に会いたいとは思いませんか」
「――思いません」
リディアの返答は早かった。リディアは口早に無礼を詫びる。
生んでもらった恩などない。不自由なく育ててもらったとは思わない。
自分が育ててもらった、自分を作り出してくれたのは、師団であり、グレイスランドだ。今でこそそう思う。
心はそちらにある。
それだけはリディアの中に種火のように小さく燃えたままだ。だから、両親になんの感情もわかない。
――売られた娘だ。彼らには彼らの事情があったとしても、そこに自分が頓着する必要などない。すでに親子の縁などない、いや最初からなかったとも思う。
感情はずっと昔から、おそらく生まれたときから別離していた。
「もうすでに私は、あれらの娘ではなく――」
「王国の人形、ですものね」
フランチェスカの残酷な声が響く、だが声はあいかわらず鈴を震わせるような可憐さ。
「あの男、カーシュの死体は師団へと送られたと聞きました。――それが知りたかったのでしょう」
「……どう、して……?」
「理由は存じません。兄君にお聞きになって」
なぜ送られたのかも謎だったが。伝える彼女の意図がわからない。彼女は一体なんなのだろう。
リディアは初めて眉を潜めて、苦悶の表情を浮かべた。
「ところで、マクウェルの消息をお知らせしましょうか?」
「……」
リディアは虚ろに見つめていた自分の心を、初めて王女へと向けた。相変わらず感情の読めない顔。
「どういう、意味ですか?」
王女は哀れみのような痛ましさを顔に貼り付けていた。
「シルビスの格言です。『何かを欲すれば何かを差し出せ』あなたはマクウェルを逃し、己を差し出した」
リディアはどこでどのような発言をすればいいのかわからない。
だから、何かを差し出せというのか? これ以上? 何を?
彼の部下を殺した。自分を助けようとしていた存在を。そんな自分が彼と接点をもてるものか。二度と関わってはいけないのに。
「そんな顔をなさらないで。何かを出せと言ってはおりません。一人産めば一人につき年金を払うとアレクシス様が約束をしました。ですから私からは一人産めば、一つマクウェルの近況を」
リディアは手が震えていることに気がついた。それは、怒りのようなものだった。何を、という感情が湧く。
「彼を遠ざけたのはあなたです。リディア」
知っている、そんなこと。だけど、それをしたのは、させたのは!!
不意に、激しいほどの怒りが冷める。水をかけられたかのように、消えていく。
リディアは自嘲する。
全て自分が選んだこと。そのせいで、ディアンも、彼の部下も、巻き込んだ。激しい怒りをぶつけるのは、自分であるべき。
「アレクシス様はお教えしません。ですから一年一人産めば、毎年一つずつ。ねえ、あなたの励みになるでしょう?」
美しいお人形。でもこの顔の下は――。何を潜めているのだろう。この顔の下に、どんな感情を、どんな表情を。
「知りたいでしょう? お好きだったのですから」
(……人形なのは、私だ)
リディアは握った拳を見下ろした。胸から全身に響く鼓動、怒りで動悸が収まらない。でも――。ここで怒ってなんになる?
何も得られない。
「――はい」
リディアはそう、答えた。
「確かに、約束しました。知りたければそれだけ産めばいいのですわ」
彼女は立ち上がる。リディアも立ち上がり見送ろうとするのを、彼女が手で遮る。
ところで、と背を向けかけた彼女が振り返る。
「もし、落ち着いたら。――御自身のお子をもってもよろしいのよ」
不自然に立ち上がりかけた姿勢を固まらせ、いぶかし気にリディアは彼女を見返す。口が震える。返答しなきゃいけないのに、わからない。
いったい何を言っているのか。
今、その口で、彼らの子を産めと命じたばかりなのに。
彼女は言葉の通じない無知なものを見るように哀れみの視線を向ける。そして少し困ったあと、慈愛の笑みを見せる。
「
リディアは愕然と彼女を見ることしかできない。
「早く産めば産むほど機会が来ます。あなたはまだ若いですから。健康な身体に問題のない生殖機能、あと二十年は可能でしょう?」
蕩けるような笑みを浮かべながら、その目は笑っていない。リディアをじっと見つめるその目は冗談など欠片も宿していない。
彼女は、本気で言っているのだ。兄と行為を持ってもいいと。
――兄の子を宿してもいいと。
「ご自分の子を持ちたいでしょう?」
彼女にとっては、おかしなことではないのか。近親婚を繰り返してきた王家にとっては。
でも自分の夫を、その妹に勧めるのか?
「もちろん、王位継承権は与えられませんが」
「……兄のことは、好きですか?」
震える声での問いかけに彼女は首をかしげた。
「それは好悪の感情のこと?」
答えないリディアに彼女は微笑む。
「そういうものは、私たちに必要ですか?」
リディアは首を振る。
「リディア。私たちは、誰かが決めた方の子供を産む。それだけでしょう。あなたも、わたしも」
シルビス人は、どこか狂っているのかもしれない。
――わたしも、くるえたらいいのに。
*still in the madness
(まだ狂気の中)
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