296.in blinded mind she is waiting somebody
次に来訪したのは兄だった。もう二度と顔を合わせることなどないと思っていたのに。
リディアに、彼を恐れることはなかった。
もう十分すぎるほど、脅された。操られて傷つける心配などない。だからだろうか、リディアは彼を感情のこもらない目で見つめ返す。
「――母体の精神状態は、胎児に影響する。精神コントロールを希望するか?」
妊娠中に感情を落ち着かせる処置をするかということだろう。
今更何を。
これだけのことをして、精神状態に気を使うなどよく言う。だが、リディアは力なく首を振るだけだった。
以前ならば、いざというときのために薬は断っていただろう。逃げ出す機会を探る気力は欠片でもあったかもしれない。
でももはや、その気持ちはどこにもない。
グレイスランドには戻れない。
自分がシルビスの人間だからではない。
グレイスランドに、師団には戻る場所などない。自分はどこにも属さない。
カーシュを手に掛けたときから、いやディアンを返したときから――きっとシルビスに生まれたときから、どこにもなかったのだ。
淡々としているけれど、兄の声の様子が少し違う。
怒りを見せない。冷酷さはあるけれど、それだけ。危害を加えようという、仕置をしようと発せられる圧力がない。
いうことをきかないペットがようやく籠に戻り、命に従うようになった。命じたことをしていれば、慈悲を見せる。そうやって慣らされていくのか。
最初から、そうしていればよかったのだと。ようやく思い知らされた。
(もう、何も感じない……)
心のすべてが麻痺している。
そうしてこのまま生涯を終えられる。
リディアは歪んだ笑みを浮かべて、すぐに消した。
「薬を望むか、ということですか」
「胎児に拒否反応など起こされては問題になる」
リディアは、自分の体を、腹部を見下ろす。まだ何もいない薄い腹をなでおろす。
たぶん――慈しむことは、できるだろう。
自分の子じゃなくても――育っていく命だ。
「いらない」
「そうか」
「情報はいるか?」
リディアは彼の顔を見上げる。
「子供の、その後だ。会わせることはできないが」
リディアは首を振る。
自分が産むであろう子ども、それよりもふと生徒たちの顔が浮かんだ。キーファに、ウィル、マーレン、バーナビー。
ごめん、と思う。卒業まで見送れなかった。国試は自身で頑張ってもらうしかないが、卒研は見てあげられなかった。
攻められているグレイスランドはどうなっただろうか、回避できているだろうか。
チャスのフォローは誰かがしてくれただろうか。
彼らの顔を一つ一つ、思い出す。
個性的で、強い。……彼らは、自分で道を歩んでいける。
(ごめん、卒業まで見届けられなくて)
また、何かの感情がこみ上げてきて、それをリディアは打ち消した。
自分が自分を憐れんでいるだけだ。いつかは離れる関係だった。彼らにリディアの助けはもういらない。
「――金はいらないか?」
兄の言葉に顔をあげて、不思議そうにリディアは彼を見つめた。不思議ともう怖くなかった。
自分の人生を、与えられた
「最終確認だ。このあと契約書を持ってこさせる」
「いる。――もらうわ、約束通り」
お金は必要だ、あって困るものじゃない。
「他に、何か願うことはあるか?」
気を遣われているのだろうか。兄がリディアに希望を聞いてきたのは初めてだ。
でもなにも感じない、少しだけ滑稽に感じる。
二人の間には何があったのだろう、兄妹であった必要性もなければ、その関係を思わせるものなど何もない。
リディアは目を閉じる。二度と会いたくないと、そう言い放てばそのようにしてもらえる。
だが、そこにリディアの益はあるのか。溜飲を下げるどころか、なんの意味もない。
リディアは瞳を閉じたまま、ぎゅっと奥歯を噛みしめる。噛み締めすぎたせいで、歯が痛い。握りしめすぎた手のひらには、いつも爪の跡がある。
リディアは、目を開けて言い放つ。
「わたしの所在を、絶対に知られないようにして。――マクウェル団長にも、師団にも、誰にも」
リディアは兄を睨みつけた。
「それぐらいできるでしょ」
初めて兄に対して強気な発言ができた。そして彼はそれを咎めることはなかった。
みんなに、絶対に、こんな――姿を、みられたくない。これからのことを知られたくない。
アレクシスは無表情に、頷いた。
「リディア」
兄は何かを言いかけて、そして口を閉じた。
そして出て行った。
目尻に冷たいものが溢れてくる。拭っても、拭っても止まらない。
何度拭っても目尻から涙が溢れる。
きっと、これから何回も泣くだろう。
それでも――受け入れていくのだろう。
――私たちに、そのような感情は必要ですか?
フランチェスカの声が響く。リディアは、首を振る。
惨めじゃない。何もなかったわけじゃない。自分は確かに、あの人を好きになった。
誰かの幸せを願いなから、生きる人生も――ある。
(私は、人を好きになれた)
人生の中で、誰かを好きになった。
なみだを拭う。泣き笑いを浮かべた。
――それだけで、十分だ
*in blinded mind she is waiting somebody
(閉ざされた心で、彼女はだれかを待ち続ける)
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