293.salva nos
*残酷描写があります、お気をつけください!
うずくまるままのリディアを無理やり立たせる腕。
泣いて憐憫に浸ることなど許されない。一人で耐えると誓ったのだ。
兄を見返すリディアだったが、その視線を一層冷酷な炎を瞳に宿した兄はものともせず、合図をする。
褐色に変色したディアンの血の染みが点々と痕跡を残す地下牢に、一人の人間が投げ飛ばされ入る。
足をよろめかせながらも、倒れ込まないのは鍛えているからだろう。だが、その立派な体躯は、すでに相当な暴力を受けているのだとわかる。
腰で背後に拘束具で縛られている両手。ふらつきながらもかろうじて立ち止まった足。顔にはひどい痣、片目の瞼は腫れ上がり、瞳は半開きだ。
黒髪の頭頂部は、褐色の血がこびりついて、半分ほど覆われている。
近衛兵のカーシュだった。リディアは彼を呆然と見返す。そして彼は何も言わず、ただリディアを見つめ返すだけだった。
「――用済みだ」
兄の声はけして大きくないのに、リディアの頭には大きく響いた。
何も考えられない、考えるのをやめたというのに。もう終わりだと思ったのに。
もう自分は逃げる気はない。このままここでシルビスの人形として何も感じず、兄の駒として生涯を終えようとしていたのに。
……逃がさなくては、でも。
「あなたが罪悪感をもつ必要はないです。覚悟はできています」
リディアは顔を歪めた。
どうして……
「役目を果たせなかったものが、なんの覚悟だ」
リディアはわずかに疑問を挟み、兄に目を向けた。
兄は帯剣をしているが、それを抜いていない。手には銃を含め武器らしきものはない。
もう一人灰髪の男が扉の前に直立不動で出口を押さえているだけ。彼も腰に剣をさげているが、抜く気はなさそうだ。
カーシュが、ハッと表情を変え、そして何かを言いかける。だが彼の口元は引き結ばれているのに、ひくひくと痙攣している。動かそうとして動かない、そんな様子だ。
彼の目がリディアを驚愕の眼差しで見つめる。
顔色が真っ青だ。この薄暗い地下牢でも、それがわかるぐらい。
額に流れる汗は激しい運動でもしているかのよう。
彼の呼吸が荒くなる、それはこの空間に響くほど。
――最初は何かの毒かと思った。
彼がガクリと、両膝を追って地面に足をつく。リディアよりも頭が低くなる。
拘束された腕の先、指先がひくりと揺れる。
まるで動かそうとして、動けないように。
そして、リディアの身体にも変化が起きた。唐突に全身が硬直する。感覚はある、なのに四肢の自由が効かない。
頭の中が混乱している。
手足を動かすときに、普通は意識をしない。でも動かそうとしても、自分の手が自分の意思で上がらないのだ。それどころか、意志に反して、よろめきながら足が前へと進む。
頭の中に、何かが侵入している感覚はない。何も感じないのに、ただ勝手に手足が動く。呼吸などは勝手にできているのに、随意運動はできないのだ。
つまずきそうになりながら、転びはせず、固まったままのカーシュの前へと一歩一歩進み出るのだ。
「な、ぜ……」
声は出る。
身体の向きを返ることも、足を止めることも、腕を動かすこともできないだけ。首を回して兄を見ることもできない。
「お前の行動はお前の責任。自分がしたことの責任をとってもらう」
「……やめて……」
リディアは、自分の身体に起きていること、そして兄が何をさせようとしているかを悟り、喘いだ。
カーシュは動かない、動けない。――彼も四肢を動かせないのだ。
(これが……お兄さまの、力なの……!?)
他人の身体を操る。
意思を残したまま、一人だけではなく、その場にいる人間すべての動きを操る。
彼の力を見誤っていた。
――逃れられない。自分の身体が自分の意思では全く自由にならない。
兄の思惑のまま、リディアの四肢は動いてしまう。
カーシュの血走った目がリディアを捉える。肩で大きく息をして、ただそこに踏みとどまっているだけ。
そしてリディアの腕が彼の顔へと伸びる。自分の指が視界に入る。左手で相手の顎を固定する。
伸ばされた右手の白い指は、自分のものだ。
桃色の爪はひび割れ、先はわずかに欠けている。カーシュの肌の毛穴さえも見えるほど近い。
彼の喉が上下する。瞳が大きく見開かれて、やめてくれと言っているかのよう。
「やめて……やめて!! おねがいっ」
リディアの悲痛の叫びは響くだけ。兄の応えはない。
脅しじゃない。
リディアの左手は彼の顎を強く固定し、母指が左目を、第二指と第三指が右目へと伸ばされる、カーシュの見開かれた眼球にとどく。
指先に人の持つ温もりと濡れた粘液が触れる。
「やめて、やめて……やめてえええ!!」
「――!」
リディアの叫び声、そして彼の声なき声――喉からのうめき声が叫びのように響く。
頭の隅、とても冷静なところが、それだけを捉えている。
それは、とてもゆっくりで。感覚だけをリディアに伝えてくる。
柔らかいものを指先が捉える、外郭を持たない幼虫に触れたような生々しさ。
目の前の男の恐怖の表情が目に焼き付く。
赤いものが、血がリディアの顔に飛ぶ。リディアの指は彼の眼球に届き、そして眼輪の眼窩裂に触れながらえぐり出した。
***
――気がついたら、リディアは床にへたり込んでいた。
顔は涙だが何かの液体で覆われている。地面につく指と爪には、赤と白との残骸がまとわりつき、地面にも点々とそれが散っている。
荒い息は、自分のものだろうか。
男の身体、カーシュが床に転がっている。目を押さえて、動かない。気絶しているのだろう。
「う……」
リディアの喉が不規則に上下する。口を押さえようとして、その血まみれの忌まわしい手に
口から胃液がせり上がる。
血で汚れた手。だが、その体液は、その組織は、一人の人間のもの、リディアを助けようとしてくれた人のものだ。
拭うこともできず、リディアはただ不規則に何度も嘔吐く。
「お前は人殺しの集団にいた」
「……」
「今更だ。なぜ
リディアは首を振る。まるで聞き分けのない子供のように。
涙が頬を伝い落ちていく。それは熱いのか冷たいのかわからなかった。
「自分の意思ではない。やらされたということに、罪悪を覚えるのか。それは欺瞞だ」
カーシュの身体が小さくおこりのように震えている。それを見ても何もできない。
もう何で汚れているのか、わからなかった。
「もともとお前はその役目を担っていた。ただ他の者に肩代わりさせ、自分がきれいなままでいると信じていただけ」
カーシュの身体に手を伸ばしかけて、自分の恐ろしさに震える。
「――それを思い知るまで、何度もさせてやる」
キィと金属がきしむ音がして、リディアは壊れた機械人形のようにそちらを見る。灰色の髪の男が扉を押さえて、兄が出ていく。
「まっ……て!!」
かすれた声、涙で滲んだ声。
「おねが……治療をっ――」
兄の背が、暗闇に消えていく。続いて、彼に従うように部下の背も闇に溶けていく。
「おねがい、お願いしますっ!! 治療をっ!」
扉は自身の重みで音を立てて遮断するように閉ざされる。カシャカシャとこする音がして施錠される。
「おねがい……します……」
リディアは肩で大きく息をしたまま、倒れ伏す男に触れた。
彼の身体を仰向けにする。血で溢れた眼窩に吐き気を催す。
――自分の仕業なのに。注視できなかった。
涙が溢れてくる。
「……はく…もくれん」
呼んでも彼は応えない。
もう自分には蘇生魔法は使えない。リディアは顔を歪めた。
もういちど、彼の
枯渇した魔力。
これが――自分の起こした結果。
「ごめ……ごめんなさい」
声は泣いていた。
汚れた手で顔を拭う。口元も手首で拭うと饐えた匂いが鼻についた。
(なんて……自分は弱い)
リディアはぎゅっと目を閉じて、顔をいやいやと振る。
ふと、リディアの足に触れるものがあった。
見下ろすと、片手で目を押さえたカーシュのもう片方の指が、リディアを探すようにさまよっている。
慌ててその手を握りしめると、あえぐようにその口が動いている。
(し……ん……ぱい……し、ないで)
その唇の動きを読んで、リディアは顔を歪めた。
――心配しないで、ください。
(あ…………なた……の)
――あなたの、せいでは……ない。
「どうして……」
どうして、ここの、人たちは……。
「せんぱい……」
頼りない声が響く。ごめん、とつぶやく。
ぐっと拳を握りしめる。
(――私は、なんで自分を憐れんでいるの?)
傷ついたのは彼で。それをやったのは自分だ。
言いようのない感情がこみ上げてくる。
無力さ、憐れむ自分への怒り、そして……彼らに対する……泣きたいような切なさ。
もう頼らないと決めたのに。
肩で息をして、こみ上げてきた感情を堪える。
彼の目に手をかざす。
“水の恵みよ。彼の失われた組織を凍らせ癒やしの時を、恩恵を“
甦生はできないが、組織を凍らせ血の流れを止め、神経に走る痛みを緩和させる魔法を唱える。
ほぼ魔力が枯渇している状態で、むりやり魔力を引き出したせいで、リディアの頭に強い痛みが走る。
――これぐらいしかできない。
カーシュは痛みがとれたのか、呼吸が穏やかになり、やがて苦悶の表情が緩んだ。
*salva nos
(我らを救いたまえ)
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