292.I love every moment from faraway
「――リディア!」
ディアンが捉えられた部屋に足を踏み入れた途端に、彼がはじかれたように叫ぶ。
『――リディア。あなたに与えられるのは三分ほど。アレクシス様の目を逃れられるのはそれが限度です。ですから十分にお別れなさいませ』
直前に囁かれた言葉が頭の中で繰り返される。
フランチェスカが下がる。
リディアはふらついた足取りで、天井からつるされているディアンに精一杯駆け寄る。
不自然にだらりと下がった足、恐らく健が切られている。手首から先も力が入っていない。
でも、目も耳も手足もある。喋れるから歯も舌もある。痛ましいほどに顔も体も切られ殴られた打撲痕はあるが、失った部位はない、今は。
リディアは彼の前に立ち、その頬に手を滑らせる。
彼の目がリディアを射貫く。
「お前は――無事か」
リディアは答えない、彼を見上げる。涙だけが溢れ、視界が滲む。
「大丈夫だ。今、助ける」
リディアに掠れた声で彼は言い聞かせるように囁いた。
彼の、健が切られ、折られた腕が身じろぎする。拘束された腕を動かし、今にも外そうとしている。
彼はいつでもここから抜けられたのだろう。そして今、リディアと出会い、それを成そうとしている。
「……せんぱい」
――どうして、彼と自分は出会ったのだろう。
きっと自分は、シルビスで父の意のままに嫁ぎ、今頃子どもを産み、誰かの妻として仕えていたはずだ。
ディアンは団長として、師団を指揮し、兄が攻め込んでいたら容赦なくシルビスに制裁を与えていただろう。
こんな風に捕えられることなく、リディアの身を案じ、自分を助けようとすることもなく、シルビスに対して何の感情も抱かずにすんでいたはずなのに。
「もう、戻れないよ」
リディアは下を向いて呟いた。その胸に手を置く。
この館は魔法封じの術がかけられ、ディアンも自分も魔力抑制剤を打たれている。そして兄の私兵が――リュミエール人部隊がつめている。
「……リディア?」
長かった。
初めて会ったのは、八歳の頃。嫌な人だと思った。
でも最初にリディアの名前を聞いてくれた人。そして、一番自分に声をかけて、気にかけてくれた人。自分はその背を追いかけた。
思いは砕けたけれど、それでも――思いは消せなかった。
彼は師団には――グレイスランドには必要な人だ。
今、戻れば、あちらの治癒魔法で治せる。
(私は一生、シルビスの楔から抜け出せない)
グレイスランドには戻れない。
いられない。
彼の隣にも、追いかけることもできない。
グライスランドでのひと時はわずかで、たぶん、自分の願いが作り出した夢。
その夢を、一生見続ける、それが与えられてよかった。
「リディア……おまえ、馬鹿なことを考えるなよ」
リディアは、そのむき出しの肌の傷あとをそっと触れた。
「ごめん。巻き込んで」
「馬鹿――お前のせいじゃ」
その首に自分の
王女も、彼女の私兵も何もしなかった。
「私……先輩の子どもが産みたかったよ!」
見開かれた目、わずかになにかを言いかけた口。最後まで見ずに、掴んでいた肌を離して放心した体から離れる。
ほんの一歩の距離だった、体が揺れて青い光に包まれる。
「――リディア!」
石に組み込まれた転移陣が発動する。手枷を外した彼が腕を不自由に伸ばす。
もう二度と、彼には会えない。
その顔がリディアの名を呼んで叫ぶ、もう見ない。
「さよなら」
彼が無理やり伸ばした指先が魔法陣に弾かれる。円筒状の青い遮蔽幕につつまれ、その体がふっと消えた。
「…う」
声が漏れる。体を半分におり、ひざが崩れ落ちる。
息を止める、胸がきりきりと痛い。心臓がしめつけられる。
声を漏らせば、思いに気づかれる。
泣き声なんて誰にもきかせるものか。
誰かになんて、泣き顔を見せるものか。
拳を口にあてて、歯を立てる。声をこらえる。何度も肩が上下する。
「……うっ」
激しい足音が響いてくる。階段を駆け下り、そして部屋に踏み込む足音たち。リディアは乱暴に男たちに立たされる。
嗚咽だけが不規則に漏れる。
美麗な顔をゆがめた兄の顔が迫る、頬を張られ、突き飛ばされる。体のあちこちに痛みが走る。
でも、胸に走る痛みほどじゃない。
――もう二度と会えない。
隣になんて並ぶことは望んでいなかった。でも願うならば――。
子どもを産むことができるのならば――あの人のものがよかった。
――人生は、どんなに願っても――叶わないことが、ある。
不規則な呼吸、声を出すな、聞かせるな。
胸が締め付けられて、痛くてたまらない。
――私は、あんなにも、あの人のことが好きだったのだ。
*I love every moment from faraway
(遠くから、ずっと愛してる)
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