229.一族の過去
夕食後、リディアは許可をもらって館内を散歩していた。
そして再度図書室に足を踏み入れていた。
やっぱり素敵。
リディア家の図書室は女人禁制。ドアの隙間から垣間見たリディアの鼻先で、強く扉を閉めた兄の姿を思い出す。
足裏で感じる絨毯の毛並み。曲線美を描くランプはエミール・ガレのものだろうか。そして目を留めたのはやっぱり先ほどの黒い聖書。
手に取ることがなぜかできず眺めていたリディアに、静かに声がかけられる。
「月の姫かな」
リディアはハッと伸ばしかけた指をひっこめて、声の方へと振り返る。
窓際の緞帳の陰から現れたのは、背筋の曲がった翁だった。だがほの暗い空間で見せる眼光は鋭い。
「勝手に失礼しました。でも私はそのようなものじゃ……」
「いいや、いいんだ。こちらこそ礼を逸した。ご令嬢は、シルビスの純血だな」
図書室で自由に闊歩する姿、そして年齢からするとおそらくアルノーの父親だ。
けれど、リディアは硬く顔をこわばらせ、シルビスに関する肯定を控えた。リディアはシルビス人で、そして過去の系譜をたどってもシルビス以外の血は入っていない。
「はい、ご当主の招待を受けて参りました、リディア・ハーネストと申します。あの――」
名を聞かれたわけではないが、シルビス人と呼ばれるのはあまり気分がよくない。名乗り暗にそちらで呼んでほしいと示した。そして、相手をどう呼ぶべきか迷う。
「私はすでに隠居した身。名乗るほどのものではない、何を飲むかね、レディ」
彼が意外にもしっかりとした足取りで、壁に備え付けてあるボードへ歩み寄るのを見てリディアは慌てて自分がと申し出る。
「いいや、これは男の仕事。お座りなさい」
「では、お水をお願いします」
リディアはソファに腰を掛け、そして一度受け取った後再度立ち上がり腰を低く下げて挨拶をする。
「挨拶が遅れまして申し訳ありません。わたくし、グレイスランド王立大学でバーナビーの教師をしております」
辞職が迫られていることは控える。だが彼にとってはどうでもいいことらしい。ショットグラスに恐らくブランデーを入れた彼は、それを手にリディアの前に腰を掛ける。
「かしこまらんでいい。いつもこの部屋に引きこもっている変わり者だ。ところで、先日は孫の命を救ってくれたことに礼を述べたい」
リディアは、いいえと首を振る。
「むしろ、命の危険にさらしてしまったことをお詫びします」
彼は片手をあげて制する。
「我々にとって、適合者から魔力の供給を受けることができるのは稀なこと。ましてやそれが心から渇望するものであり
「……あの?」
リディアは話についていけずに困惑する。
「もしかして。適合することって、とても難しいのですか?」
冷や汗がでてくる。血液型と同じで適合しなければ、彼を死に追いやっていたのかもしれない。
「いいや。適合しなければそもそも吸うことはできない。遥かな昔、それで我々は絶滅の危機に瀕していた。今は便利な薬があるがな」
リディアは肯定もできないが、少し心を落ち着かせて座り直し、ドレスのしわを直す。
「私が若かりし頃、一度だけ魔力をもらったことがある。心から望んだ娘で、その瞬間、甘美な喜びに酔いしれた。今も忘れたことがない」
「それは……」
奥様でしょうか、と訊きかけた声を飲み込む。とてもプライベートだ。
「妻にすることは叶わなかった。滅びの魔族に嫁ぐ娘などおらんよ。だが私もその娘もその時は結ばれた喜びを共有し、それは永劫の宝となった。我々にとってはそれぐらいの希少なものなのだ。だから孫は――とても幸せだ」
「魔力を彼に差し上げたことに後悔はありません。ただそれで彼が縛られてしまったとしたら、申し訳なく思います。ですが今後……その必要があれば厭いません」
彼はリディアに目を向ける。その両目は白く濁り、どうやら視力を失っているようだった。だが彼はリディアをまっすぐに見据える。
「やめときなさい、レディ。その陶酔はいずれ互いを縛る鎖となる。死なぬとはいえ、供給者には負担が大きい。吸血鬼という物語を知っているね」
リディアは頷く。
「我々がまだ魔力の供給を受けていた頃。相手を探して娘たちをさらっていた頃の誇張された噂だ。我々は生涯と決めた娘だけを手に入れる。だが、この世界に閉じ込めたのは事実だ。それはもう禁止された習慣だが、それでもその封じたい欲は我々に根付いている」
バーナビーが言っていた、地下世界に娘たちを連れてきていたという話だろう。
「ましてや、あなたはシルビス人で月の姫だ。だから孫の友人として支えて欲しい。それだけだ」
「月のとは……」
「我々とは縁が深すぎる。どうか、深入りしないように」
リディアははい、とうなずいた、それ以外にどうしようもない。
「私は少しまた夢に戻る。夕食会には参加できなかったが、許してほしい」
彼はそう言って立ち上がる。リディアは彼を見送った。
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