230.いつまでも君を待つよ


 図書室を出て、廊下で騎士よろしく待っていたバーナビーに、手を取ってもらい歩く。

 どうやら彼はリディアと祖父が話を終えるのを待っていたようだ。


 廊下の突き当り、ホールの張り出しとなったテラスに出たリディアは感嘆の声をあげた。この館は高台にあるのだろう。巨大な洞窟の中にある地下都市。それを一望できる眺望。


 たくさんの青い光が瞬いている。それは家々の軒先にともされるランタンの光だ。幻想的で不思議な世界。見上げると天頂には穴が開いていて、そこからは月が覗いてた。


「あの穴は?」

「丁度天高く月が昇ったときにだけ、その光が僕らを照らすんだ。月は僕らの光、太陽の光は僕らには強すぎる」


 リディアは少しだけ疑問を浮かべた。

 彼の祖父が言った“月の姫”。彼らの一族は月と何か関係があるのだろうか。


 魔法には、光の主と四獣の力を借りて展開するものがある。

 それは、グレイスランドの国教--創世記と関連がある。


 だが、光の主の印章を描く魔法陣があるのに対して、対する存在のはずの月の君は驚くほど出てこない。月の君に関しての魔法は存在が明かされておらず、魔法学でも記述がほとんどない。

 まるで、忌み言葉のよう。


 だが、魔族の彼らにとって、月が何らかの象徴的存在であるならば――それが月の君と関連があるのならば――。


 そこまで考えて、リディアは思考をやめる。穿ち過ぎだ。


 そして、優しい月光と家々の明かりだけに灯された世界は、闇夜に慣れてくると、とても美しく見える。


「綺麗ね。まるでどこかのアミューズメントのアトラクションみたい」

「ホーンテッドマンション?」

「いいえ。ピーターパンの空の旅のアトラクションあるでしょ? 乗り物に乗って空から夜景を見下ろすの」


 あれ大好き、とリディアは目を輝かせた。一度、第三師団シールドの団長一家に連れて行ってもらったことがある。リディアがまだ十代前半の頃だ。


「リディアは大好きなものがいっぱいあるね」

「バーナビーもあるでしょう?」

「リディアが好きだよ」


 リディアの顔が熱くなる。言葉以上に優し気で、けれど熱を込めたような眼差しに、つい目をそらしてしまう。

 昼間に大学で見せる彼とは雰囲気が違う。その虹彩は赤い目の周囲が金色を帯びていて、じっと見つめていたくなってしまうから。

 

 魅了チャームを使っていないはずなのに、彼には惹かれてしまう。それは彼自身に魅力があるからだろう。


「リディアは、先ほどはファントムの話をしていたね。ピーターパンもファントムもヒロインを現実世界から自分たちの世界に攫ってきてしまうのに、それに憧れるの? それはただ違う世界に行きたいだけ?」


 少しだけ、彼の声のトーンが違う気がする。その答えを彼はとても重要視しているようだ。


「確かに、違う世界に憧れはあるわ」


 あの演出は異世界に飛び込んだ時の観客の驚きを狙っている。

 これからどんな世界が待っているのだろうと。全く違う世界、そして誘うのは気になる相手。でも、現実世界から逃げたいというヒロインや観客の気持ちが同調するのもあるだろう。


「今、リディアは少し逃げたいという気持ちがあるね」


 リディアはバーナビーを黙って見つめ返す。

 背が高いのに、首が辛くならないのは、彼が屈んでくれているから。

 そんな気遣いだけではなく、彼は少しずつリディアの本音を引き出す、負担のないように。


「もしリディアが少しだけ休みたいというならば、僕は逃げ場をあげるよ。それも好きなだけ。少しだけでもずっとでも、リディアがしたいように居たいだけ」

「それは……この世界?」


 幻想的で美しい世界。現実とは一線を画している世界。職場を追い出され、少しだけ疲れているリディアに安息をくれるというのだろう。


「リディアが美しい夢をみていたいというならば、それもできる。ずっと幸せな気持ちでまどろんでいられる。反対にここで気楽な服を着て、本を読んだり、綺麗なドレスを着て、好きなときにダンスを踊ってもいい」

「私、ダンスは苦手よ。ダンスより戦い方を優先してきたの」

「大丈夫、相手は僕だから。ミシェルにも、父にも相手は譲らないよ」


 リディアは苦笑したけれど、バーナビーはいつもみたいに笑みで返さなかった。


「ミシェルは君を気に入ってるよ。そして魅了チャームの力は、彼の方が強いから」

「確かに、彼は魅力的ね。きっともてる――」


 そこまで言った時だった、不意に彼がリディアを引き寄せる。

 厚い胸に強く抱きしめられる。


「だめだよ、リディア。ここでは僕だけを見て」


 いつもの余裕はない。声に切迫感と必死さが混じる。


「バーナビー。おじいさまに聞いたけれど……」


 それらの胸の高鳴りや気まずさを押し殺して、リディアは切り出す。


「私があなたに魔力をあげたことで、あなたを縛ることになってしまったのでしょう?」


 あげたことに後悔はない。けれど熟考の上での行為じゃない。少なくとも彼に選択肢を与えなかった。彼自身、あの時本当は得ることを拒否していたのに。

 

 人命救助だったけれど、彼の中に後悔が残ってしまったのじゃないか、それをリディア自身は無視できない。


「リディア」

「ねえ聞いて。それであなたを苦しめてしまっているのならば、まずそう言ってほしいの」


 だからといって、簡単に解決策を提案できるわけではない。

 

 リディアが定期的に魔力を彼に提供する? 

 その関係はよくないと彼の祖父は言っていた、そもそも独特な行為すぎてリディアも少々困る。

 

 魔力の取り過ぎは彼に調節してもらえばいいし、行為自体も慣れてしまえば平気かもしれない。でもやっぱりその共依存的な関係は、恋人でもないのに不健全だ。


 ただ苦しいならば、苦しいとまず伝えてほしい。


「リディア。おじいさまに聞いたよね。僕たちにとって、好きな人から魔力をもらう、それが生涯で一度でもあることは、とても幸せなことなんだ」


 問題は二つある。


「でもあなたには、これから結ばれる人がいるかもしれない。一生を添い遂げたいと思う人が。その人とつなぐ絆を私が邪魔してしまった。一生にかかわることなのに」


 バーナビーが首を傾げる。それはわからない、というよりどう説明しようかなという仕草に見える。


「それから、もしもあなたがその魔力を吸いたいという衝動にかられるのならば、その相手が私になってしまったのならば、私にも責任はある。だからといって、いつでもどうぞ、と言えないのだけど……」


 バーナビーがリディアを離して、リディアの唇に指をあてる。長くて大きな指、それは異性のものだ。黙って聞いて、という仕草にリディアは黙る。


「リディア。僕は幸せといったよ。これからも求めるのは君だけ、そして君から魔力をもらえたことはとても嬉しい。それは永遠にね。それから、吸魔衝動だけど――」


 そう言って彼はリディアを見てそっと微笑む。切ないような甘いような笑みだ。


「――ないわけじゃない。でもそれは甘い痛みなんだ。辛いけれど切なくて甘い。だから耐えられないわけじゃないよ」


 リディアが何かを言う前に、バーナビーはリディアのドレスを肩からずらす。肩先に載せるようなドレスのデザインは簡単にずらしてしまえる。

 

 とっさに押さえようとしたリディアをバーナビーは瞳で制止する。そして、隠していた首筋を撫でる。


「痕になってしまったね。ごめんね。この痕は永遠に消えないんだ」


 リディアは驚いて彼を見上げた。

 確かに赤くポツリと二つ残っている痕、そのうち消えるだろうと思っていたのに。


「魔族が所有欲が強いのは知っているよね。自分のものだ、そう示すためのものだから。でも安心して。痕だけだよ、僕に君を拘束するつもりはない」


 リディアは息を少し吐く。

 拘束する気はないと言いながらも時折見せる独占欲。いつもただ逃げ場と優しさだけを見せていてくれたバーナビーと違うのは、ここが彼の世界だから?


「リディア、僕の母は父に連れてこられて、そして死んでしまったんだ」


 それは悲しい話なのに、彼はそれを悼みながらもまるで甘い囁きのように口から紡ぐ。


「僕たちの一族はね、相手となる女性を連れてきてしまう。けれど、魔力を取り過ぎて殺してしまうんじゃない、愛しすぎてしまうんだ」


 バーナビーの手は肩口でリディアのドレスを押さえたままだ。戻したいけれど動けない。それどころか身動きできない。

 恐怖じゃない、悲しい話、でも魅入られてしまう。


「愛しすぎて?」

「うん。もし、リディアが許してくれたら僕はリディアをこの世界に連れてきて閉じ込める。永遠にこの世界で愛を囁き注いで、他の世界のことなど忘れさせてあげるよ。外の世界より僕の命はここでは長くずっと強く、それができてしまうから」

「バーナビー」


 ただ熱を帯びた瞳の赤が揺らぎ、金と混ざり合い、リディアは目を離せなくなる。


「でもね、僕たちはあまりにも相手を愛しすぎてしまう。昼も夜も愛を注ぎ過ぎてしまって、相手を壊してしまう。そして、僕の母も壊れてしまったんだ」


 バーナビーが押さえていたリディアの腕を強くつかみ、そこで改めてむき出しの肌を意識する。


「バーナビー、やめ――」


 彼の頭が近づき、そして視界の下で首が見えなくなる。

 強く吸われる感触とそして甘い痛み。


 リディアが彼を押しのける前に、バーナビーはリディアを離して見上げてくる。


 リディアは甘く噛まれた首筋に触れた。前に魔力を吸われたところだ。今度は魔力を取られたわけじゃない、いまのは――。


「噛んだ、の?」

「うん。でも今のは痕は残らないから」


 そういう問題じゃない。


「リディア。どうしてヒロインは、連れさられた異世界から逃げ出したと思う?」

「え?」


 急な話題転換に、バーナビーに向けようとしていた怒気を抜かれてしまう。


「異世界は異世界なんだ。逃げ場はその時だけの逃げ場でいい。ヒロインは逃げることができる」


 ファントムに惹かれながらも、クリスティーヌは婚約者の元に戻った。ウェンディもネバーランドからピーターパンを置いて現実の世界へ。


「この世界に逃げていいと言ったけれど、それは一時いっときだけ。居たいだけ、いてもいい、でも怪物ファントムは選んじゃいけない」


 バーナビーはリディアを求めながらも、自分を選ぶなという。ただ逃げ場として利用すればいいと。

 苦しくて悲しい。求められているのに、求められていない気もする。


「僕はずっと昔、夢の中で君を見つけた。君と出会うために大学に入り、こうして結ばれた。そしてこれから先も、夢を見ながら君のことを思うよ、ずっと、ずっとね」


 その表情はとても穏やかで、彼の言い分をどこも否定することはできなかった。


「リディア。君のことを抱きしめてもいい? もう何もしないから」


 リディアは動かなかった。少しの逡巡のあと、首を縦に動かす。

 迷うのは彼が生徒だから。けれどそうされたいというリディアの思いもあったからだ。


 バーナビーがリディアに近づき、胸にリディアを包み込む。

 筋肉質ではない、けれど温かくて優しい抱擁だ。


 青い蛍のような光が瞬く闇夜の中、誰かに包まれているとリディアの胸に熱いものがこみ上げてくる。


「バーナビーは抱きしめるのが、とても上手ね。私下手なのよ」

「リディアは抱きしめられ慣れていないからだよ。たくさん抱きしめられればいいんだ。そうしたら上手になるよ」


 チャスを思い出す。

 彼との約束を守れないかもしれない。彼だけじゃない、皆をちゃんと卒業させる、それができないかもしれない。


「バーナビー、あなたの薬のこと、きっと何とかするから」


 目を閉じて、リディアは心を落ち着かせる努力をしながら約束する。


 薬の盗難疑惑について、教授には伝えたが取り合ってもらえなかった。証拠も何もない、手立てがない。このまま退職になるのだろうか。


 自分の境遇の問題とバーナビーが危険にさらされた問題とは混同してはいけないと思うのに、心の整理がつかない。


 情けなくて胸にこみ上げてくるものがある。


「温かいのね」

「うん。抱きしめられるとね、温かいし気持ちが安らぐ。それは抱きしめる方も同じだよ。抱きしめる方も、される方も互いに慰められるんだ」


 バーナビーはリディアの落ち込みを、見越しているのかもしれない。

 それは彼の能力というよりも、リディアの雰囲気から察してくれている彼の相手を読む力からのような気がした。


「リディア、幸せは自分で掴むものじゃない」


 バーナビーの声が耳元に響く。その声にリディアは彼の背に載せた指をわずかに曲げた。


「リディア。幸せは、他人にしてもらっていいんだよ」


 それはリディアにとっては、あまりにもかけ離れた考え方だった。幸せは自分で掴むもの。他人に依存するものじゃない。

 

 結婚だってそうだ。結婚して幸せにしてもらう、その考え方にはリディアは懐疑を抱いている。結婚は通過点であり、シンデレラのようにそこが最終目標ではない。


 そして他人に依存することこそ、最初の間違い。両者が共に暮らすのには、絶え間ない努力と譲り合いが必要だ。そこに甘いものはない。


 でもそう感じてしまったリディアを知っている上で、言い聞かせるようにバーナビーは続ける。


 リディアの戸惑いながらも、それに応じない心を知っているのだろう。だから彼はその返事を求めない。ただわかっているように微笑む。


「みんながリディアを幸せにしたいと思っている。それは今まで、リディアがみんなにしてきたからだよ」


 リディア、と。

 彼はリディアを見つめて低く呼びかける。その声には思いが込められていた。愛情と許し、穏やかな包容力とそして熱。


「リディアが幸せになると、みんなが嬉しいんだ。だからリディアは、みんなに幸せにしてもらっていいんだ」


 一人で立とうとするリディアに、彼の声が響く。それでもリディアは他人を頼れない。


「リディア。君はこれから大きな旅に出る。けれど、きっと帰って来られるから信じていい。諦めないでいい。待っているから」


 バーナビーのそれは、予言だろうか。


「だから、帰っておいで」


 リディアは目を閉じて、その温もりと穏やかな声に包まれる。

 その意味を訊き返すことはできなかった。

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