227.かの一族
闇を照らすランタン。
暗闇に揺れる
船頭の導きに従って小舟はゆっくりと進む。見慣れたはずの街並みも、水路から見上げるとまるで迷路のようだ。やがて船はぽっかりと口を開いた隧道へと進む。低いアーチ型の天井は石造りだ。たくさんの脇道を無視し、どこにもつかえることなく難なく船は進み、やがて進む先の出口に青い光が見えてきた。
「わあ」
思わず感嘆の声が漏れる。
巨大な地下空間。
天井ははるか上で、まるで空のよう。影はたくさんの家々だ、そして軒先に連なるのは青い灯。
リディアの感動をよそに、船はひとつの穴へと吸い込まれ、やがて桟橋の前で止まる。左右にはポールが立てられ、目の前の階段の下にはバーナビーが待っていた。
「ようこそ、リディア」
「お招きありがとう、バーナビー」
彼の差し出す手につかまりながら、船を降りる。
今日は、彼の家族の夕食会に招かれた。一度は断ったが彼らの招きはかなり稀なことらしい。重ねて断るのも失礼でもあり、好奇心に負けて招待を受けた。
「あ」
ゆらりと揺れた船にバランスを崩したリディアを、しっかりと支えたバーナビーは穏やかにほほ笑む。
「ありがとう」
「いいや。船旅に不安はなかった?」
彼にそのまま手を取られながら三段ほど石段をのぼり、入口をくぐる。
いつも眠たげにほほ笑む彼とは違う。力強い腕、広い胸、立派な体躯、まどろむ大型犬が、目を覚まし身体を起こした大型獣のような力強さを感じる。
「とても綺麗だったわ。the
クリスティーヌが鏡の裏を抜けて、
「リディアはあれが好き? とてもロマンティックだよね」
「ええ、何回も見たわ!! あの幻想的な世界へ
「歌の掛け合い?」
「ええ、お芝居の愛のシーンはわざとらしくて好きじゃないのだけど」
ミュージカルを含め芝居では、愛を語るシーンは大仰すぎる。動作を大きくしないと観客に伝わらないからだろうけど、本来は二人だけの親密で繊細なふれあいのはず。大抵のシーンは相手より観客を意識しすぎている気がする。
「ファントムがクリスティーヌに、もっと歌を、もっと高らかにと、更に更にと歌声を求める場面があるじゃない? そして彼女は極限まで歌声を響き渡らせる。まずあれで心が奪われるわよね」
指南役としてのファントムが彼女を鍛え、それが響きわたるのがまず最初の見せ場だ。
「それもすごいけど、やっぱり二人の合唱よね。同じ歌詞の時の時もあれば、違う歌詞、違うメロディライン、追いかけ重なり絡み合う、二つが重なりあうと愛の交わりになるのよ。直接的なセリフよりも思いを感じるのよ」
観客は両者それぞれの歌声を同時に聞く、声が重なって、その思いを理解する。
「歌で愛を理解する? 歌に思いをのせると言葉より響くのかな」
リディアは少し迷う。
「前にきいたことがあるのだけど。歌に感情をいくらのせても、歌には出ないそうよ。素人は『思いを込めて歌います』って言うじゃない。歌に感情がのっているように聞かせるには、歌い手の技術が必要なんですって」
外套を預け、長い裾のイブニングドレスを引っ掛けないように歩幅を調節しながら歩くと、長身の彼は丁度良い位置に腕を差し出してくれる。
「でも、やっぱり互いを思っていてこその、素晴らしい合唱になると思うの」
相手の歌声を聴く。そこから、相手が今日はどのように歌いたいか、どう響かせたいのか、今日の調子はどうか、それを察して合わせていくからこそハーモニーを生む。
歌い手が、自分の
長い廊下をエスコートされながらリディアは語る。
「リディアは随分歌が好きなんだね」
「ええ。楽器じゃないのに楽器のような正確さも必要とされる。でもその時の調子やホールとの相性によっても、それから観客の熱感によっても、歌声は毎回違うじゃない、
「好きな歌い手がいるの?」
リディアは我に返ったように少し声のトーンを落として、深呼吸する。それから興奮して速めていた足を緩める。
「昔ね、
リディアはその瞬間をいつまでも覚えている。
「観客が一体となって息さえひそめて、歌が終わった瞬間に皆が息をそっと吐きだし、誰かがすごい、と呟いたの。その会場全体が余計な音をすべて排除してその瞬間を共感し、引き込まれていた。その歌の最中、幸せだったの。ずっとこの歌が続いてほしいって思った」
その楽団の演奏チケットは一般で販売しているものではなく、リディアのような身分では聞けるものではない。
王族の警護中なのに、没頭してしまい頭から演奏を締め出すことができなかった。そのことを後で怒られたけれど、あれを聞けたことは幸せだと思う。
ちなみに今の国王は芸術に興味がないから、二度とそういう機会はないだろう。
バーナビーの紅い目が優しくリディア見おろしていて、リディアは慌てて顔を正面に戻した。
「ごめんなさい。語っちゃって」
「リディアの話ならずっと聞いていたいよ」
優しく微笑みながら言われると、余計に話せなくなる。リディアは顔を赤く染めたまま、首を振った。
それから正面玄関のホールで、彼の家族に紹介された。
バーナビーの父親のアルノー・オルコットは深い栗色の髪に、銀に朱が混じる不思議な色合いの瞳の男性だった。笑うと頬にわずかに皴が寄るが、それもとても魅力的で、若いころ、いや今もずいぶんもてるだろうと推測された。
それからバーナビーの祖母のマーガレットは、銀髪のような白髪を綺麗にまとめていて、グレイ色の瞳を穏やかにゆるめて、リディアを歓迎してくれた。
そして、バーナビーの弟のミシェル。まだ七歳だというのに、ボウタイを結んだ彼は、肌が陶磁のように白く、代わりに髪は漆黒。
「初めまして、美しいお姉さま。こんなに美しい宝石のような方を連れてこられたお兄様が、僕は羨ましいです」
まだ幼い彼に言われたことは意外で少し動揺したが、リディアは子どもにだけはモテることを自覚している。
微笑ましいとリディアは笑顔を返し、軽くお礼をいうと、手の甲に口づけをしてもいいですか、と問われ驚く。
でも子どものことだし、とリディアが屈んで手をさしだすと、立派に手の甲に軽く口づけて、穏やかでありながら艶やかな赤となった瞳でほほ笑むミシェルに、リディアは今度こそ赤くなって慌てないように手を引くのが精いっぱいだった。
「お姉さまの瞳はエメラルドのようですが、オーロラのように光が揺れていますね。オーロラの姫様と呼んでもいいですか?」
「ええと……」
まだ七歳だよね!
バーナビーが、軽く頭をぽんと手を置いてたしなめると彼はにこりと笑って、「ではお姉さまと二人だけの時にします」とさらっと言う。
彼の一族は能力を使わなくても人間を魅了してしまうようだ。リディアは十分にそれを意識した。
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