226.黒い悪魔と闇の中


「ハーネスト先生」


 ウィルと別れた後、校舎にもどるべく中庭を歩いていると用務員さんに声をかけられた。

 なんか疲れちゃったな。


 力なく返事をするが相手は気づいた様子もない、そりゃそうだ。


「前任の先生から頼まれていた魔獣の餌やりですがね」

「え」

「最近前より減らないんですよ。それでちょっと気になって」


 彼によると、リディアの領域の魔獣の餌やりを前任の助教に頼まれていたらしい。だから生きていたのか、と一度も魔獣の世話をしたことがなかったリディアは納得がいく。


「それで減らないって」

「ええだから。――あまり食べていないというか」


 つまり、逃げた可能性を示唆されたのだ。


「餌は、まだ数箱あるんですけどね」


 だから餌代を請求されなかったのか。というか餌代、今年度の予算に組んでいない。


(辞職勧告されているのに、どこから餌代を捻出しようとか、ちょっと私……)


 馬鹿かもしれない。


 どうでもいいことだけど、困るのは用務員だし、次に来る教員だし。


 ため息を隠し彼に教えてもらいながら、向かった先は魔獣がいるという旧校舎の裏、樹木が絡み合った不気味な森。

 呪いの森!?


 なぜかそこだけどんよりとした曇天で、草木が生い茂り、木々はねじれている。人が入っていないのは明白。学生が紛れ込んだらどうするのだろう。


 長靴をはいた用務員の彼でさえ歩くのが困難そうなのに、ヒールのリディアは密林に入るのを躊躇う。もうスニーカー登校しようかな、そう思う。


(いや、退職させられるんだから関係ない、か)


 ああもう。思考がネガティブだ。なんでこんな状況下で魔獣を見に行かなきゃいけないのだ。


 草の汁や泥土に靴とストッキングを汚されて案内されたのは、木箱に網を張った簡素な飼育箱が幾つも積み重ねられた場所。そこには草木がなく、空間が開かれている。


 まさか。

 ――まさかでしょう。


「えーと」

「これが先生の領域の魔獣です」


 木箱の中はカサカサ音がしている。カサカサどころじゃない、すべての箱の中でガサガサしている。

 

 魔獣って獣、だよね。

 けして虫じゃないよね!?


 二メートルほど離れて観察してみる。おそらく手前の箱は、大量の蠍。

 そして、蜘蛛。

 さらには……黒いカサカサしたもの。

 

 リディアは叫び声をあげた。

 大量のうごめくあれは悪夢でしかない。

 そして、用務員さんに後で連絡をしますと言って、逃げ出した。



***



「魔獣? 前は魔獣学で魔獣解剖が必須だったもんね。飼っていた時もあったみたい」


 サイーダの言葉にリディアは気絶しそうになる、解剖? あれを? 


 リディアは資料を見る。

 精神的なダメージは大きく、もう限界。


 学務から取り寄せた、領域設置条件票をリディアは確認する。境界型魔法領域はまだ歴史が浅いが、この領域になるまえ、数十年前にエルガー教授がいた真説魔法術式領域から物品や部屋は引き継いでいる。

そこが購入した魔獣の資料だ。


 ちなみにその真説魔法術式領域は成果をあげられず、その領域は廃止されて、エルガー教授は今の境界型魔法領域を立ち上げた。


 その資料を見て、リディアは鳥肌を抑えられなかった。


 ――購入魔獣

 スコーピオン蜘蛛スパイダー、そして黒いアレコックローチ

 

(魔法じゃないよね、魔術に使うの!?) 


 吐きそうだ。


「サイーダ先生のところはどうしているんですか、それらのお世話」

「うちは、魔獣研究所に授業の時は借りてる。調教師と一緒に講師料含めて借りるから結構なお値段だけど、魔獣学の演習なんて数コマしかないし。魔獣の世話は私達下っ端に回ってくるじゃない、そんなの冗談じゃないわよ」


 たしかに、たしかに!


「でもこの変な虫とか、どんな授業するんですか?」

「うちは、ユニコーンね。気性も比較的穏やかだし。魔獣を手なずける授業で使うわ」


 ユニコーン!!!! うちのとは大違いだ。ずるい。


「昔は虫系魔獣の授業が必須だったけど。十五年前にすでにそれは必須じゃなくなったのに、そっちの教員が誰も何もしないから、そのまま飼ってたんでしょ」

「……」

「でもそちらの前任の先生が、同じようにレンタルしたいってエルガー教授に上申して却下されたらしいわ。『飼うことが大事』って」

「飼うったって、世話するのが教員じゃ意味ないですし」


 うちはいまだに魔獣を自分たちで世話しているんですよ、とアピールしたいのか。あの黒いやつを!!

 

 リディアは資料を投げ出して、頬杖をついた。

 どうせ辞めさせられるのに、リディアがそれの今後を心配する必要があるのだろうか。


(でも、次に着任する先生が気の毒……)


 どうせなら、死んでいましたと報告してしまいたい。しかし、あれを退治できる自信がない。

 一瞬ウィルの炎なら、と思ってしまった。彼の炎なら、あれらを燃えつくしてくれるだろう。


(でも、一応魔獣だし。長年放置されていたことで、どんな魔力耐性がついているか不明だし)


 下手な攻撃によって恐ろしい結果を招きかねない。巨大化とか、凶暴化とか。


(ディアン先輩なら……別次元に圧縮して永劫に封印してくれそう)


 でもそんなお願いをしたら、リディアが氷漬けにされる。


「はああああ」


 交渉には対価が必要。リディアが差し出せるものは何もない。


 ウィルなら、キスとかねだりそうだけど……。


(別にいいけどね。あれを退治してくれるなら)


 それ以上のことだってさ。別に減るもんじゃないし。


 リディアは頭をふって、闇に落ちかけた思考を必死で取り戻す。


(いやいやいや、それはないから!)


 ウィルとは駄目だ、絶対にダメ。


 ――そういえば、以前にウィルにキスをされたことを思い出す。


 リディアの中で、あれはなかったことにしている。からかわれただけ。

 そうじゃなきゃ――教師であるリディアのほうが手を出したと問題になる。



 未経験だと生徒たちに思われているが、リディアだってキスの経験がないわけじゃない。


 ーー師団を抜けて院生一年目の時のことだ。


 別の領域の二年生に告白された。そのあとキスをされた。乾いて皮のめくれた相手の唇がかさついていた、そしてぶちゅっとした感触。少し気持ち悪いと思った、それが三回続いた。

 そして相手の手がリディアの胸を掴んだ。そこでリディアは、ごめんと制止した。

 その夜もう一度謝罪のメッセージを送ったが、彼からは一切メッセージの返答はなく、院でも無視された。

 それで終わり。


 男の子の心はピュアピュアで、ガラスでできているらしい。

 行為を断ったらいけないのだとリディアは学んだ。まさか話し合いも拒絶されるとは思わなかったけど。

 

 黒歴史を思い出してしまい、リディアは虚ろな目で将来を悲観する。


(あまりにも恋愛経験がなさすぎる……)


 このままじゃ、一生恋愛できない。焦りよりも焦燥だ。


 リディアの中に、ウィルやキーファは選択肢に入らない。

 彼らは生徒だ、生徒と付き合うことはできない。

 キーファは卒業してからと言ってくれているけれど、卒業したら忙しくなるだろう。

 ウィルもそうだ。その先は恐らく――連絡も来なくなる。


 ――いっそ、互いに名前さえも知らない同士で行為を済ませちゃった方が、気が楽なんじゃないだろうか。


(病気が怖いけどさ)


 このままじゃ一生処女だ。


 リディアは虚ろな目で領域所蔵の魔獣票を眺める。

 だれか、これを退治してくれないだろうか。何でもするから。


「――もう辞めるなら、別に関わらないでいいんじゃない?」


 サイーダの淡々とした声に我に返る。


「そうやって今までの先生達が放置してきたんですよね」


 それにまだ辞めさせられると決定したわけじゃない。

 サイーダの無関心さに苦笑して、リディアは思考を改める。


 そして再度、資料を眺める。


「この真説魔法術式領域、ってなんですか?」

「エルガー教授お得意のトレンドに乗って立ち上げた領域ね。本質に迫った術式を開発しましょうて案はよかったけど、中身がなんにもなくて、結局解体」

「うちもそうなるのでしょうか……」


 リディアの呟きに、サイーダはどうかしらと呟いた。


「前回は、いろいろ揉めたじゃない。それが大きかったみたいよ」

「揉めた?」


 その時、ドアが開き部屋に戻ってきたフィービーに、不意にサイーダは口を噤む。


 結局何だったのかわからず、そしてリディアは荷物をまとめた。


 木箱に穴は開いておらず(用務員に見てもらった)、餌はそのまま続けてくれるという。

 リディアはそれらについて報告のメッセージを学科長と教授宛に出して、そして研究室をあとにした。


 調査は師団がやってくれているし、あとはどうしようもない。

 

 生徒たちへメッセージを送ろうかとページを開いたが、何も書けなかった。

 現在の状況も、理由も説明できない。しばらく休みますとも言えない。


 キーファやウィルならば家まで問い詰めに来そうだ。


 辞めるかもしれない、なんて。生徒たちに言えるわけなかった。









余談です。あとがき的なものが嫌いな方はお避けください。


*この話を書いたあと(夜)に、キーファが

「なんで俺を頼らないんですか!? 見ず知らずの奴にあなたをやるくらいなら……」

とキレて、リディアにキスをしてR18展開になだれこむ、という夢を見ました。

キーファの本気を作者の私が教えられました。

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