66.混乱
ケイが舌打ちして、リディアを押しやる。
リディアは離れた手に、ようやく大きく息をつく。
「何?」
「何って、手だすなよってこと」
リディアが振り返ると、戸口に立つのはケヴィンだった。彼がドアを乱暴に開け放ったらしい。
「……ボス?」
リディアが掠れた声で名を呼ぶと、ケヴィンはちらりと目をやって、それから入ってきた。
「誰だか知らないけど、君のいうことなんてきかないよ」
「俺? 俺はケヴィン。ケヴィン・ボス。リディアの彼氏」
「はあ? そんなの聞いたことない!」
「じゃあ、みんなに言いふらしておけよ。これまでみたいに、ついでに外にいるお前の女にも」
「はあ? あんなの、僕の女じゃないよ!」
「ふーん。なら俺はお前がリディアを襲っていたって言いふらすけど? そんでフラれたってな」
「そんなの誰も信じないよ!」
「そうか? 意外な話ほどみんなが面白がって広めるけどな」
ケイはもうリディアのことは忘れたかのように、ケヴィンだけに集中している。
「――覚えてろよ!!」
気がつくとリディアはボーっとしていた。だめだ集中できない。
「それは、こっちの台詞だっつーの」
リディアはぼんやりとしていたが、ケヴィンが舌打ちしてケイを見送る。
と、振り向いた彼に腕を取られ、いきなり抱きしめられて、慌てて拘束を外そうと暴れた。
(や、なに?)
「――しばらくそのままで」
ケヴィンの低く言いきかせる言葉に、リディアは動きを止めた。
なんだろう、聞かなきゃいけないような気がしてくる。
「……ボス?」
「ケヴィンだろ、リディア」
「……ケヴィン?」
言われるままにその名を繰り返し、違和感に眉をひそめる。変だ、そんなふうに呼んでいただろうか。
「ウィルとキーファがずっと残ってただろ、今も体育館で何かしているし。変だなーと思ったんだよね。そしたら教室、電気付いてるし。案の定、リディアがいたからか」
(なんの話……変)
リディアはケヴィンに抱きしめられたまま、頭を何度も振って意識を鮮明にしようと試みる。
「なあ、暴れんなよ」
(なんで? なんで?)
「女が見てるんだ。廊下から」そう耳元で囁くと、ケヴィンは不意に声を張り上げた。
「なあ、覗いているやつ! いいか? よく聞けよ、リディアは俺の彼女だからな」
(なんのはなし? なんのはなし?)
リディアはいやいやと、頭を振る。
そうすると扱いかねたのか、ケヴィンがようやく拘束を外す。
「平気? なんかマジおかしくね? なんつってたっけ? なんかの魔法?」
リディアは首を振る。
そうだ、たしかケイは“
リディアは息をついて、再度頭をふる、いやだ、全然頭の中のもやもやが晴れない。
「そんな……魔法はない」
「キスされてイっちゃった、って感じでもないし」
リディアはぼんやりとケヴィンを見返す。何を言われたのだろう。
「一体……何? あなた、ミユとは……どうしたの」
ケヴィンはリディアをじっと見つめて、それから向かいの椅子に腰をかけた。
「俺、ふられたんだよね……アイツのせいで」
軽く言ってるけれど、結構重症そう。
リディアは手の甲に爪を立てて、痛みで意識を戻そうとする。
「それって、ベーカーのせい?」
ケヴィンは同意しつつも、お手上げというように両手を上げた。
「……だから、今度は私と、……うわさになろうとしたの?」
だめだ、すぐに頭に霞がかかる。リディアは、手に爪を立てる。
「もしミユが、この話を聞いたら――私のとこに、乗り込んでくる?」
彼女は関心をケヴィンに戻す?
――それはどうだろう? ケヴィンの狙いは難しいかもしれない。
ミユは騒ぐだろう、でも彼女が本当に欲しいのは、彼氏じゃない。自分という存在を、まるごと受け入れてくれる場所。
本来は親が与えてくれる筈の、ただ存在すること、生きていることを受け入れてくれる人たち。
(私と同じ……)
リディアも得られなかったものだ。
そう思いながらも、思考がどんどん埋もれていく。
……何を考えていたんだけっけ?
自分の考えも気持ちも留めていられなくなる。
ケイは、何を求めていたの?
(私に、何を求めているの?)
虚脱感に襲われる。冷や汗が気持ち悪い。身体症状に焦る。やばい、あまりよくない。
「まあそれもいいけどさ。リディア、俺と付き合わない?」
リディアはぼんやりしていて考えようとしたが、何を聞かれたのかわからなくなる。
(ええと、何を話していたの?)
「リディア?」
「……なあに?」
「俺と付き合わない?」
「……なぜ?」
「なんでって、そうだな。俺の好みだし、色々したいし、リディアとつきあったらきっとウィルが悔しがるかもな」
「つきあって何するの……」
リディアは、ぼんやりと首を傾げる。まぶたが重くなる、舌が回らない。
「え、聞いちゃう? ……もしかして、処女? 彼氏いたことない?」
リディアはゆるゆると首をふる。駄目だ、身体が重い。
「つきあったことないから……なにするか……わからない」
「マジ!? なあ、ほんと俺と――」
リディアは手を机に突いて、立ち上がる。
(――駄目だ、帰らなきゃ)
身体が揺れる、視界が揺れる。
「なあ先生、おかしいぜ? 誰か呼んでこようか?」
「へいき……はなして」
床がぐにゃぐにゃ揺れている。歩けない、帰れない、かえらなきゃ。甘い息が気持ち悪い。
「ケヴィン。つきあえないけど……話、聞くことはできるから」
「リディア?」
「でも、きょうはむり。またこんど」
ケヴィンの腕を振り払う。
化粧室になんとか足を運んで、洗面台にかがむ。
(やばい……なにか、たぶん)
――入れられた。飲まされた。
リディアはギュッと目を閉じる。
ぐるぐると視界が回っている。
油断した、自分のミスだ。いつも自分は判断ミスをする、甘く見てばかり。
「げほっ、ごほっ」
目を開けて鏡を見る。
「しっかり、して」
何の薬かはわからない。ただ、自分は効きすぎる。
自分の魔力と、化学的な薬剤は相性が悪い。下手に知らない薬を飲むと悪酔いのような状態になる。この状態は、そのせいなのか、飲まされた薬本来のせいかはわからない。
キーファに言われたのに。甘く見るなって、二人きりになるなって。
でも自分が甘く見たから。
(ごめん、キーファ。あなたが正しかった)
後悔に襲われる。でも後悔している場合じゃない。
「しっかり、しろ」
真っ白い顔。リディアは手を壁について起き上がり、なんとか足を踏み出す。
荷物はいい、帰らなきゃ。自分の荒い息がうるさい。吐く息が甘い、気持ち悪い。
――倒れるのは家に帰ってからだ。
「……タクシー」
大学を出て、大通りに出れば、タクシーがある。
――でもなんて遠い。
明かりの消された廊下を壁に手をついてなんとか歩く。
まるで地震のように波打つ地面、一歩が重い。
そして階段。
リディアは目の前に広がる地面へと続く階段を見て、手すりにつかまったままずるずると腰を下ろした。
ぐにゃぐにゃに揺れる階段、どうやって降りたらいいのかわからない。
足を伸ばしてみるが、どこに足をついていいのかわからない。
(怖い――こわい)
「……こわい、よ」
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