62.キーファの心配
「――先生」
ノックの音に続いて、演習室に入ってきたのはキーファだった。
彼は、演台を動かしていたリディアを見て、一瞬、眉間をしかめた。だんだん彼が分かってきた、これは感心しない、というリディアを非難する顔だ。
「やっぱりここで片づけをしていたんですね」
そう言って、彼は演台の側面に立つと持ち上げて「どこに運びますか」と聞いた。
「ええと、準備室だけど……」
「わかりました」
いたたまれない。彼は明らかに、授業後にみんながいるときに頼めばいいのに、という顔をしていた。
彼らには最低限の片付けだけをさせた。でないと、休み時間を潰してしまう。学生の約束された休憩時間をあまり奪うと苦情を恐れる教授から小言が来る。
リディアが二つ目を運ぼうとしていると、わざわざそれを抱えていってしまう。
「先生は指示だけください」
「でも」
「毎回ではないです。俺だって、先生が怪我をしていなければ一緒に、運んでいました」
「……はい」
リディアは、彼の後についていって、演台を置く場所を指示する。途中彼は、羽織っていたブルーの上着を脱いで、半袖の白のシャツ一枚になると椅子の背に上着をかける。額から汗が伝い落ちる。
リディアは迷い、鞄の中からハンカチを出す。
「コリンズ。これ、綺麗だから」
洗濯してあるから、という意味だ。今日はまだ使っていない。
とはいえ差し出してみたもののキーファが手に取らずに、じっと見下ろす視線にリディアは、いたたまれなくなる。茶系のチエック柄で有名なブランドのハンカチは、男性でも使えるはず。
でもキーファは何も言わないで考え込んでいるよう。
「ええと」
「…………自分のがあるので」
彼女でもないのに迷惑だよね、たしかに。
と、言いかけると、キーファはリディアがしまう前に手に取り真っ直ぐに見返してくる。
「ですが、教室の鞄に入っているのでお借りします。ありがとうございます、洗濯して返します」
「あ、ええと。いいよ! あげる」
長い間の後、彼は断るかと思えば、唐突にも思えるようにすばやく手にする。リディアも返事の返し方に困ったが、キーファは気を使って手にしてくれたとのだと、後で気がつく。
「私ハンカチいっぱいあるの。家で布巾代わりにしてくれてもいいし……」
「――大事にします」
男子学生に洗濯して返すことは要求が高すぎると即座に辞退したのだけど。
キーファは、そのリディアの言葉を待たずに宣言する。何かを言いたげな眼差しで、けれど何も言わずに丁寧にたたんで、ズボンの中に入れる。
物言わぬ瞳が、何かを語っていたが、読み取れなかった。
そして彼はまた机を運ぶのを再開する。リディアは役立たず感丸出しで、彼の後をちょこちょこついていくと、台を置いた彼は振り返って苦笑する。
「なんだか、先生可愛いですね」
「え!」
笑っている顔に、ハッと気がつく。キーファはそういうことを言いそうにないが、からかわれたのかと恥ずかしくなる。
(本気で受け止めちゃだめ)
恥ずかしくなると、意識してどんどん顔が赤くなる。だめだ、なにこれ。
「すみません、からかうつもりじゃなかったんですが。後をついてくる様子が、あひるというか、カルガモの子みたいです」
「カルガモ……」
カルガモみたいで可愛い。うん、女の子としての可愛さじゃないよね、リディアは勘違いしないでよかったと内心胸をなでおろす。
「でも、カルガモみたいで可愛いって言ったんじゃないです。先生が可愛いらしいって言ったんですよ」
「え……ええ!?」
リディアは絶句して、そして顔が熱くなるのを自覚した。キーファがまた、何か言って取り消すのを期待したけれど、彼はリディアをじっと見下ろしているだけ。それどころか、顔を赤くするのをしっかり見ていたと思う。
時間にしてわずかだか、うろたえるリディアには十分な時間だった。彼はふっと笑って、椅子を指す示す。
「でも足を悪化させるので座っていてください。――あと少しなので」
「あ、はい」
もしかして、うまく誘導されたのだろうか。うん、そうかも。うろたえさせて、リディアを大人しくさせる、うんそうかも。
キーファに強く言われて、リディアは大人しく座りながら指示をだすことにした。
「ところで、コリンズ。何か用があったの?」
そうして片づけを終えて、リディアのあげたハンカチで汗を拭くキーファを見ながら、リディアは尋ねる。
「昼間のことです。僕もミユと同じ授業を取っていたので、彼女の知り合いに少し話を聞いてきました」
キーファは椅子ではなく、リディアの反対側の机の上に向かい合うように座る。足が長いから、高さも丁度いいみたいだ。無言で促すリディアに、キーファは言葉を選ぶように話を続ける。
「どうやら、ケイらしいです。ケイが色々言って回っていたみたいで」
「なんて?」
リディアに、キーファは逡巡をわずかに見せた。
「いいの、はっきり教えて」
「先生に付き合えって迫られたと、院生と他領域の女子に漏らしたみたいです。――でも、ミユがなぜか、先生がウィルを取ろうとしてると騒ぎ出したので、そちらのほうで話がでかくなってました」
「……昨日のことかな」
「何を言われたか、教えてくれませんか?」
言われた、と聞くキーファは真摯な眼差しだ。リディアが迫ったとか、そういう疑いは抱いていないのだろうか。
「そんな大した話じゃなかったのに」
「何を言われたんですか?」
「――もっと見て欲しい、とかなんとか」
「具体的には?」
リディアは、キーファの様子に観念して口を開く。
「特別な存在になりたい、って」
キーファの眉がしかめられる。
「理由は言ってましたか?」
リディアは首を振る、可愛いとか小さいとかは、関係なさそう。それにしても問い詰めるキーファは穏やかなのに気迫が怖い。
「ベーカーと話してみるよ。何か私に言いたいことがあるのかもしれない」
「二人きりはやめたほうがいいと思います」
きっぱりとキーファは言う。しかもリディアの目をじっと見据えている。下手にごまかせないと分かるが、リディアもここは引けない。
「本当は、他の先生に立ち会ってもらったほうがいいと思いますが、うちの先生方は――」
キーファが口を濁す。そうだね、うちの教授も准教授もコミュニケーション能力がおかしいから、ちょっと助っ人にはならない。
「大丈夫よ、コリンズ。今度は机を挟んで面談形式を取るから。それに二人きりじゃないと話せないし」
「先生!?」
「時間も二十分と区切ってその後に誰かが覗けるようにする。ありがとう」
リディアが言い切るとキーファは迷うように口を開く。
「少し彼とは、時間を置いたほうがいいかもしれません」
「どうして?」
「また二人になれば、新たな噂になるでしょうし。少し彼の様子を見たほうがいいと思います。なぜか噂は、先生にウィルが取られそうになった、という話になっていますので」
「それね。ダーリングにとっても迷惑だよね」
キーファの拳がぎゅっと握り締められる、力が入り震えている。
「――むしろ、アイツにとってはいい噂ですよ」
「そうかな? そんなことないよ」
リディアは首を傾げる。なぜキーファはそんなに意識しているの?
「ただ、実態を伴わない噂が流されて、単純に喜ぶ奴でもないんで」
一体何の話?
「ミユが彼を盗られそうになったって騒ぐのはいつものことなので、周りは静観しています。むしろ、『またかよ』っていう雰囲気なので、そのうち収束すると思いますよ」
「それだけど、彼女はまだダーリングが好きなんじゃないかな」
ウィルをまだ好きなんじゃないか、そういうとキーファは首をかしげて苦笑する。
「ミユは昔の相手でもそう言い出すことがあるから。自分のモノっていう意識が強いみたいです。気にしてたらおかしくなりますよ」
リディアは、なんとなく気がついた。たぶんキーファもミユに一度は交際を迫られたんじゃないかなって。ただキーファはウィルのこともあるから、誰にも言わないのだろう。
「ねえ。ところで、試してもらいたいことがあるの」
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