33.本当の支え
実験室から戻ってきたリディアは、化粧室の洗面台で鏡を見つめた。
……ひどい格好だ。
ウィルの怪我は治ったが、彼の血がブラウスについている。
リディア自身が負ったのは擦り傷や軽い熱傷だが、汚れを拭くと皮膚がピリピリ傷んだ。
ウィルの貸してくれた薄手のコートを羽織って、ボタンをしっかりとめる。
生徒から物を借りるのは複雑な思いもあるが、リディアはコートを持っていなかったから、ありがたく借りることにする。
顔の汚れを拭いて、髪の毛を直す。
ふと、唇に触れる。
(私、何やってるんだろ)
放課後。生徒にキスされて。生徒を大怪我させた。
――キス。
どうでもいい。そう、キスなんて――どうでもいいことだ。
――生徒に大怪我をさせたことに比べれば。
リディアは拳をぎゅっと握りしめる。
(怪我を――させてしまった)
あの時、不安はあったのに。
ウィルは以前も魔法が暴走したのに。それを知っていたのに。
彼は今回のことがトラウマにならないだろうか。どう償えばいいのだろうか。
リディアは、自分の研究室に戻り、椅子にへたりこんだ。
部屋には他の教員はいない、帰ってくれていてよかった。
「報告書、書かないと……」
でも、疲れていて作業用のMPを開く気にもなれない。
リディアは鞄から個人端末を取り出した。時刻は、二十一時過ぎ。
学内からのメッセージはいつもどおりに大量だが、外部メッセージは知り合いの名前があった。
――昔の知り合い、しばらく連絡を断っていた人。
メッセージは短く、一言だった。
“――防護室? 馬鹿か、やめとけ”
(そうですよね――)
防護機能が働いていても、いなくても、ディアンほどの魔法が暴走したら関係ない。リディアの読みが甘かった。
(ううん、私も気がついていた)
ディアンに訊いたのは、不安があったからだ。もしかしたら、特别防護室でも防ぐことはできないかもしれないと、リスクの予測もしたからだ。
――なのに決行した。
(私、全然、駄目だ)
よぎる不安を無視した。大抵失敗する時はそうだ。わずかな予感があるのに。
――着信履歴が、十件もある。同じ人物からだ。
リディアは、息を吸って、それから折返し通話のボタンを押す。
五コールほどで直ぐに、通話に変わる。
息を止めて備える。
『――この、馬鹿』
「すみません――先輩」
何を話せば、最初にどう口を開けばいいのか、そう恐れていたのに。相手からの第一声で、すんなりと謝罪が口をついた。
『何があった?』
(ああ、バレてる)
これまでの経緯、リディアが音信不通になっていたこと。終わった問題よりも、今何が起こっているのか、そう尋ねる性質は、ディアンの団長としてのものだろう。
そして、何かが起こっていると察知する能力も流石だ。
『じゃなきゃお前は連絡してこない』
「すみません。本当に――今まで」
その沈黙の向こうで、何を考えていますか?
『実験室で何をやった?』
「暴走させてしまいました、生徒の魔法を」
疲れていて、口がため息と同じくらいにすんなりと言葉を発してしまった。そして、発したと同時に、小さな息遣い。
『――十分で行く。大学だな』
「――待って!! 待ってください、駄目」
いやいやいやいや、あなた、今は私のボスじゃないよね?
「先輩、ディアン先輩! 今どこですか? と言うか、任務は?」
『さっき終わった。一ヶ月隣国に潜入して、人質を救出した』
(そんな、重要任務の後に来なくていいです!)
「来なくていいです! 失敗しました、失敗したけど――私の、責任なので」
『――』
「落ち込んでもいますが、反省しなくちゃ。怪我をさせたんです、私は償いと保障をしなくてはいけない。彼と大学への対応を考えなくてはいけない。これは私の責務だから」
ディアンは、直接は何もしてくれないかもしれない。けど顔を見て、心が緩んでしまったら、慰めの言葉を期待してしまったら、駄目だ。
慰められるべきじゃない、被害を受けたのは、リディアではない。
落ち込むことは許されない、反省して対応を考えるのがすべきことだ。
「ここでは、まだ私は全然使えなくて。何もできない。だから今は、まだ――会えません。もっとマシになれたら、先輩と顔を合わすことができるかもしれない」
『怪我を回復させたのか? 魔法を使ったのか?』
「はい、肉体にひどい損傷を負っていたので、蘇生魔法に近いものを」
端末の向こうで、悪態が聞こえた。本当に、すみません。
『――すぐ行く』
「いやいやいや! ですから、来ちゃ駄目って!」
リディアは、立ち上がり、部屋中をウロウロした。
「顔を合わせられません。慰めないで!」
(一人で立てなくなる! 甘えたくなる……)
『馬鹿か。慰めに? んなわけあるか――』
「――はい」
口が悪くても、それでも、私はこの人を知っている。
自分の部下じゃないのに、違う職場でも、大変な任務後でも駆けつけようとしてくれる人だ。
「呪詛は進行していません。近いうちに受診して見てもらいます」
思案するような僅かな沈黙の後に、声が響いてくる。
『リディア、――お前はミジンコなみの度胸だけどな』
はい、ビビリです。いつも怖くて仕方がない。いつも『ミジンコ』呼ばわりされていた。
『気づいているか? お前がやるって決めたことを、やめさせることは、誰にも不可能だった』
彼は上に立てる人だ。部下をちゃんと見て、叱咤して、立てるようにしてくれる。
『お前はいつも、やり遂げてたよ』
ああもう、何でこの人、こんなふうに時々優しくなるのだろ。
ううん、厳しくする時と、そうじゃない時と使い分けることができるんだろ。
『だからお前は、やり遂げられる。――どこでも、いつでも』
「はい――」
自分も見習いたい。そうなれるように、なりたい。
『お前は俺たちのところに来た。離れても、仲間だ。俺たちは、仲間を見捨てない』
――ソードに入った時は、この仲間意識が嫌だった。突っ張って抵抗して、けれどいつの間にか受け入れていた。いつも、彼らは最後までリディアを見捨てなかったから。
『お前が、身体を張って俺たちを助けたように、お前が求めるなら、いつでも俺たちは助ける。――いいな』
「わかります。――ありがとう」
いつもの教えだ。この精神がある限り、ソードは最強なのだろう。
『ところで。お前が――音信不通だった件だが――』
(――っ!)
『――いきなり病院から消えて、辞職出して国元に逃げて。で、いきなり大学に勤めて?』
「――」
『その間、相談どころか、一切連絡もなくて?』
「は、はい。その節はどうも――後始末もしていただいて」
怖い、声が怖い。色々怖い。はん、と鼻先であしらわれる気配。
そうですよね、そのことじゃないですよね。
『確か――来週、来るんだったよなあ。うちに、ガキどもを連れて』
「――そうで、ございます」
『楽しみだよなあ』
やばい。『楽しみ』なんて言葉、この人から聞いたことない。「この人、生きてて楽しいの?」って思ったことならある。
「えっと。――よろしくおねがいします」
『俺だけじゃねぇぜ?』
「は?」
『うちの奴らも――楽しみにしてるそうだ』
「ええと、先輩が、他人のこと話題にするの、珍しいですね」
あの、団員のみなさんがですね。
喧嘩っ早いソードのみなさんがですね。喧嘩以外に楽しみがない、皆さんが、楽しみにしてくださるんですね。
『――先輩、お願いがあるんです!』
「はあ?」
突然、遮ってみる。
「ウチで気になる生徒がいるんです。ウィル・ダーリング、今日魔法が暴走しちゃった生徒ですけど、火属性が二五〇〇もあるの。ちょっと気にかけて欲しい」
『……ふーん』
沈黙が長い、ちょっと興味が惹かれたみたい。
『そいつだけか?』
「あと、キーファ・コリンズ。全て五百超えするのに、魔法が発現しない。あと、マーレン・ハーイェク・バルディア、バルディア王国の王子。攻撃魔法だけにやたらに特化していて、戦闘中の闘争心が異常なんです」
一気に言えば今度は不自然な沈黙。
多すぎだろうか?
『ソイツらが、気になる、ねぇ?』
「具体的には、まだ何かはわからない。けど――」
『まあいい。お前が“気になる”、なら、なんかあるんだろ。わかった』
「――ありがとうございます」
こういう、認められている感、に心が落ち着く。これが今の職場で得られないものだ。
それでも、自分は今この職場を選んだのだから、やり遂げるしかない。
『うまい言い訳考えとけよ。アイツラも、俺も――楽しませるようなものをな』
プツリ、と通話は唐突に切れた。
「え、切れたの? え!?」
(私、言い訳に楽しさ求められてる?)
その、期待値上げられても困るんですけど!
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