第12話 「新たな人生」

 一瞬目の前が暗くなった後、裕太と黒羽は緩やかな丘の上に立っていた。

 ぐるりと周囲に目をやると、見渡す限りの草原が広がっていた。空からは柔らかい日差しが降り注ぎ、吹き抜けていく風が心地よい。


「ここ、天国?」

「違う。ここは……」


 裕太の疑問に黒羽が答えようとしたとき、無機質な女性の声が聞こえた。


≪人の子よ≫


 頭の中に直接語りかけてくる奇妙な感覚。

 裕太は周りを見たが、彼等以外に姿はない。


「どこにいるんですか。姿を見せてください」

「馬鹿者。わからないのか?」


 目の前には広大な大地が広がっている。

 太古の人々は、様々な自然現象には霊が宿っていると信じ、やがて神として畏敬の念を持つようになっていった。

 火の神や水の神、風の神、そして……。


≪そう、この大地そのものが我。汝らが地球と呼ぶ存在≫


 ぎょっとして、思わず地面を凝視してしまう裕太。

 この地球がなければ、人も獣も神もあらゆるものが生まれなかった。

 まさに全てのものの母と言ってよい存在だ。


「『母なる神』よ。この者の無礼、何卒お許しを。何も知らないのです」


 黒羽が地面に片膝をついて許しを請うた。

 裕太も慌てて同じよう跪く。


≪よい。幼き子が無知であるのは当然である。どうして責められようか。二人とも楽にせよ≫


 声に従い、彼らは立ち上がった。


≪さて、妖狐から話は聞いた。汝は我との会話を望んでいると≫


 『母なる神』が裕太に話しかけてきた。彼は緊張で喉が渇くのを感じた。


≪人の子よ。我にどのような用件だ≫


 問いかけに祐太は逡巡したが、きっぱりと答えた。


「……黒羽を、神という縛りから解放してほしい」

「っ!」


 黒羽がはっと息を呑む。


≪それはできない≫


 無情な声が響く。


「なぜ!?」


 祐太が詰め寄ると『母なる神』は答えた。


≪その娘と契約したからだ≫


 『母なる神』は過去を語り始めた。



◆ ◆ ◆



 今から一万年前。大陸と地続きだった大地が地殻変動によって切り離され、今の日本列島の姿になった頃。

 日本のとある地に一つの部族が暮らしていた。

 その時代、氏名という概念は存在せず、その者の特徴を表す言葉が名前として使われていた。

 足の早い者は『素早き者』。

 頭の良い者は『賢き者』。

 『力強い者』『痩せた者』『白き肌』『茶色の目』、様々な名があった。

 そして、その部族に一人の美しい娘がいた。

 その娘の髪は烏の濡れ羽色のように綺麗であった。

 部族の者たちは彼女の美しさを褒めたたえ、娘を『黒き羽』と呼んだ。

 娘は賢く、行動力に優れ、いずれは族長として部族を率いることを期待されていた。

 だがある日、部族が暮らす地を大暴雨が襲った。

 川が溢れて大地を襲い、人も獣も容赦なく押し流していった。

 娘は部族の者たちを高台へと避難させた。

 しかし、一人の幼子が荒れ狂う川の中州に取り残されてしまった。

 娘は川に飛び込んで中州まで渡ると、幼子を抱えて再び岸へと泳いだ。

 そして岸で待つ部族の者たちに幼子を託した後、娘は力尽き、濁流に呑まれ命を落とした。

 彼女の行動で多くの者が助かり、勇敢な娘の死を皆嘆き悲しんだ。

 その様子を偶然見ていた『母なる神』は娘を哀れに思い、魂となった娘に一つの契約を申し出た。

 娘は契約を受け入れた。

 その契約とは『神としてこの地を見守り、死者の魂を導く』というものだった。

 娘は忠実に神としての役割を果たした。

 死者の魂を選別し、ある者は再びこの地に輪廻させ、またある者は異世界へと転生させた。

 時は流れ、娘のことを知る者は誰もいなくなった。

 それでも娘は『母なる神』との契約を守り、与えられた務めを果たしていった。

 そして一万年が経過した。



◆ ◆ ◆



「一万年も……」


 裕太は絶句した。

 そんなにも長い時間を彼女は神として過ごしてきたのか。

 黒羽に視線を向けると、彼女は無言のまま『母なる神』の言葉に耳を傾けている。


≪魂の循環は世界の根幹を成すもの。その娘の働きには今後も期待している。ゆえに娘との契約を破棄することを我は望まぬ≫


 そこで少し間を空けた後、『母なる神』は祐太に問うた。


≪そもそも、汝は異世界転生とはどのようなものだと考えている?≫


 戸惑いながらも祐太は答えた。


「神から特殊な能力を授かり、転生先の異世界を救ったりする……」


 だが答えは違った。


≪それは結果論に過ぎない。異世界へこの地の魂を送ること、そして異世界よりこの地へ魂が送られてくること。それが重要なのだ≫


 『母なる神』の言わんとしていることが分からず、裕太は頭を捻る。

 隣にいた黒羽が助け舟を出した。


「この世界を一つの部屋、そして魂を空気と考えてみろ。ずっと部屋を締め切ったままでは空気は澱み、中にいる人間は息苦しくなるだろ? 時々窓を開け、外の新鮮な空気と入れ替える必要がある」

「ああ、そういうことか」


 彼女の説明で裕太は理解した。


≪その娘の言う通り、閉鎖された世界ではあらゆるものが停滞し腐敗する。そこには未来がない。ゆえに別の世界と交流し、魂を入れ替え続ける。そうして、この地に変化をもたらし未来を作り続けていくのだ。それが異世界転生の本質である≫


 祐太の中に一つの疑問が浮かぶ。


「それにはどうしても彼女の力が必要なんですか?」


 『母なる神』は答えた。


≪絶対というわけではない。だが、その娘は長きにわたって魂の循環に関わり、あらゆることを熟知している。他の神に任せるとしても、同等のことが出来るまでには時間がかかる≫


 裕太のしようとしていることは、言うなれば引き抜きだ。

 だとすれば黒羽と同等か、それ以上の何かと引き換えでなければ『母なる神』は交渉に応じないだろう。


「もうよい、私はもうよいのだ」


 黒羽が裕太に言った。

 彼女は諦めと悲しみに満ちた表情をしていた。


「そんなこと言うなよ。君は人間として生きたいんだろう!?」

「……神となって最初の頃、私は喜々として務めを果たした。だけど、私はだんだんと人間が羨ましくなった。精一杯生きて、結婚し、子供をもうけ、孫に恵まれ、そして皆に看取られながら死ぬ。人としてごく普通の生き方を私もしたかったのだと気づいた」


 黒羽は祐太を睨みつけた。


「それゆえに、私はそなたが許せなかった。私が生きていた時代よりもはるかに贅沢な環境にいながら、安易に異世界転生したいなどと言うそなたが。特殊なスキルで化け物相手に無双? 美少女たちにモテまくる? ふざけるな。そういったことは今の人生を精一杯生きてから言え」


 黒羽は今までため込んでいたものを吐き出すように祐太を責め続けた。


「黒羽……」

「≪母なる神≫との契約は絶対だ。そなたが私のことを思って行動してくれていることは感謝する。だが、こればかりはどうしようもないのだ」


 彼女は目の端に涙を浮かべていた。

 裕太は必死に考えた。

 いったいどうすれば、何と引き換えなら≪母なる神≫は応じる?

 金? そもそも大金など持っていないし、神にとって金銭など無意味だ。

 知識? 裕太ごときの知識など、必要とはされまい。

 魂? 平々凡々な魂など興味もないだろう。

 他にはないか。自分だけが持っている特別な何かが。

 そこまで考えて、彼ははっと気が付いた。

 ……あるじゃないか。たった一つ、ごく最近手に入れた飛び切りのものが!


「『母なる神』よ、一つ質問がしたい。俺の持つスキルを誰かに譲渡することは可能ですか?」


 『母なる神』は即答した。


≪可能である。我は汝のスキルを預かり、任意の者に付与することができる≫


 それを聞いて祐太は言った。


「俺と契約を結んでほしい。俺の持つスキルをあなたに渡す。その代わり、黒羽との契約を破棄して、彼女をもう一度人間として生まれ変わらせてほしい」

「!」


 裕太の言葉に黒羽が驚いて目を見開く。


≪……よかろう、汝と新たな契約を結ぼう。我は汝のスキルを譲り受け、代わりにその娘との契約を破棄し、娘を人間として生まれ変わらせる。それでよいな≫


 ほんの僅かな間の後、『母なる神』はそう答えた。

 祐太の持つスキル【寿命まで死なない】は、天文学的な確率によって発現したものである。このレアスキルを持つ魂を異世界へと送れば、見返りとしてそれと同等かそれ以上の魂を受け取れることは間違いない。たとえ、黒羽を手放したとしても充分価値がある。それだけのことを一瞬で判断したのだ。


「はい、お願いします」


 祐太は頷いた。


「『母なる神』よ……」


 黒羽が震える声で話しかけた。


≪娘よ、長きにわたってよく仕えてくれた。礼を言う≫


 『母なる神』の無機質な声音に、ほんのわずかに優しさが感じられた。


「そんな! 勿体なきお言葉」


 黒羽が頭を下げる。


≪汝らを帰そう。さらばだ、我が愛しき子らよ≫


 二人の視界が光に包まれた。



◇ ◇ ◇



 祐太が『母なる神』と契約してから三日が経過していた。

 その間、黒羽は学校を欠席していた。

 担任に欠席の理由を聞いたところ、家庭の事情によるものらしい。

 祐太は何度も彼女の家を訪れたが、門に設置されたチャイムを鳴らしても誰も応対に出なかった。

 四日目の朝、祐太は普段通りの時間に家を出て、自転車で学校へと向かった。

 学校到着まであと半分ほどの距離まで来たところ、脇の道から黒塗りのリムジンが出てきた。

 祐太が自転車を止めて降りると、リムジンは彼の目の前に止まった。

 後部座席のドアが開き、一人の少女が姿を現す。

 濡羽の髪。桜色の唇。透き通るような白い肌。

 黒羽だった。

 彼女が車を降りると、リムジンはそのまま走り去った。

 黒羽はゆっくりと裕太に近づき、彼の両頬に手を伸ばしてきた。

 二人の顔がすぐ傍まで近づく。甘い香りが彼の鼻をくすぐった。

 ドギマギする裕太。

 すると一転、黒羽は厳しい表情になり、彼の頬を左右に思いきり引っ張った。


「いひゃい、いひゃい!」

「いったいどういうつもりだ! あのスキルがあれば、そなたは異世界に転生することができたのだぞ。そなたも異世界転生したいと言っていたではないか。なのに、スキルと引き換えに私を人間に生まれ変わらせるなど……!」


 なおも頬を引っ張る黒羽。

 裕太は痛みに耐えながら彼女の手を優しく包み込むように握り、頬からそっと手を外させた。


「降って湧いたような能力なんて意味ないよね。やっぱ努力して身に着いたものじゃなきゃ。それに」


 裕太は黒羽の瞳を見つめた。


「目の前で泣いている女の子を放っておいて転生するなんて、俺にはできないよ」

「だ、誰が泣いているものかっ」


 黒羽は潤んだ瞳で裕太を見上げた。


「うう……ああああぁっ!」


 彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出す。そして裕太の胸に顔を埋めて幼子のように泣き出した。

 裕太は優しく彼女の頭を撫で続けた。

 しばらくして彼女は落ち着きを取り戻し、申し訳なさそうに謝った。


「すまない、汚してしまった」

「いいよ、これくらい」


 裕太の胸元は涙でグシャグシャになっていた。

 だけどそれが汚いなどと彼は全く思わなかった。


「……そなた、顔にゴミが付いているな」


 不意に黒羽が言った。

 裕太は顔に手をやったが、ゴミが付いている感じはしない。


「取ってやる。横を向け」


 言われるままに顔を横に向ける。

 すると黒羽はつま先立ちになって、素早く裕太の頬に口づけした。

 初めて感じる柔らかな感触。

 突然の出来事に裕太は目を白黒させた。

 そんな彼の様子を見て、黒羽は悪戯っぽく微笑んだ。


「そなたは一人の女神を救ったのだ。褒美の一つぐらいあるべきだろう?」


 彼女は背を向けて走り出した。


「あ、待ってよ! その、キスだけ?」


 黒羽は振り返って言った。


「裕太のスケベ!」

「なっ」


 彼女を追って裕太も自転車で走り出した。

 頬にキスをされて嬉しかった。でも、それ以上に嬉しかったことがある。


(初めて名前で呼んでくれた!)


 二人の新たな人生が今始まった。


【完】

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異世界転生したいのに、真面目な女神が許してくれない 木村城士 @kaochin99

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