骨と筆
柳よしのり
骨と筆
飯神先生が亡くなった。
その亡骸を最初に見付けたのは私だった。
まだ春遠い三月の頭だった。マフラーにかかった粉雪を払いながら私が仕事場に入った時、飯神先生は机に突っ伏していた。漫画家という商売柄、机で寝落ちなんて日常茶飯事で、私が仕事場で愛用している膝掛け毛布を、先生の肩にかけようとして私の息は止まってしまった。
冷たくなった身体。ペンを握っていたらしいその手は力なく垂れていた。
漫画家・飯神先生のアシスタントとして私が七年の月日を過ごした仕事場で、先生は新作の原稿に向かって息を引き取った。脳溢血だった。
その死に顔は、驚くほど安らかに見えた。
やっと休める。やっと筆を置ける。そんな安堵の顔に見えてしまった私は、その考えが頭に浮かぶ度、かぶりを振ってそんな疑念を振り払う。私が勝手に先生の人生を決めつけてしまうなんて、そんな資格は私にはない。もし本当に死が先生の安らぎだったのなら、漫画を描くことが辛かっただなんて認めたら、先生の漫画家人生はなんだったのだろうか。
事実、連載の執筆は苦悩の連続だった。先生のペンが止まることなど日常茶飯事だった。それでもどんなに遅れようとも一度も原稿を落とさなかった先生。私はその先生を密かに尊敬していた。
ずっと一緒に作業してきたアシスタントの私が「密か」と言ってしまうのは酷く薄情に聞こえるかもしれない。しかし、毎日のように机を並べ一つの作品を作り上げるために、家族以上に同じ時を過ごしてきた私だから、面と向かって敬意を表すのは気恥ずかしかった。
私と先生の間柄はとても淡泊で、完全な分業作業をする仕事だけの関係だった。きっとあの世の先生は、私がこんな感情を抱いているとは想像もしていないだろう。私だって、先生が亡くなって自分の半身がもぎ取られた喪失感を覚えるなんて意外でならない。
決して売れっ子漫画家ではなかった飯神先生。その告別式は閑散としていた。参列したのは近親の親族と連載を持っていた出版社の関係者だけだった。曲がりなりにも連載作家だったというのに、他には誰も姿をみせない葬儀に私は胸が押し潰されそうだった。
こんなことなら家族葬にしてもらった方がよかった。先生が余計に惨めに思えてしまう。漫画家の、創作家の末路がこんなものだなんて、知ってはいたが、現実を目の前で見せつけられて、私は歯がみに顔を歪めてしまう。
告別式が終わり、先生の遺体が火葬炉にくべられて、雲となって空に流れ出して行くのを私は力無く見つめるだけだった。
「河辺くん、かな?」
不意にかけられた声に、私は現実感なく振り向いた。痩身の眼鏡をかけた堅苦しい身なりの男だった。喪服を着ていただからだろうか。死神にも見えた。
死神は「はじめまして」と軽い言葉で近付いてきた。
「はぁ」
私の気の抜けた返事に、男は口元だけだがほくそ笑んだ。
なんだ死神じゃないのか。先生と一緒に、私もあの世に連れて行ってくれるのではないと気づき私は更に重たい息を吐いた。
「僕は飯神先生の所で、昔アシスタントをしていた者だよ。名前は木崎正吉。聞いてないかな? 当時はスーパーアシスタントなんて言われたりもしたんだが」
「そう、なんですか……。すいません、先生はそういうこと、話さない人でしたから」
「ははは、変わらないな。そうだよ。そうだったよ……」
うん、うん、と頷き、木崎もその昔の記憶を呼び起こすように納得していた。私は改めて木崎という人の姿を見た。死神と思えるほど斎場に相応しい喪服がよく似合う生真面目な男性に見えた。どことなく漫画家っぽくはなかった。その疑問を口にした私に、彼は苦笑いして
「もう漫画家になる夢は諦めたんだ。今は普通に勤め人をしているよ」
と自らの手を見つめ、目元を歪めた。
一体何を見ているのかと一瞬首をかしげたが、よくよく考えてみると直ぐに思い当たった。ペンダコがないのだ。漫画家の証と言うべきペンダコが全く見当たらない。彼はすらりと綺麗な指をしていた。
最近ではパソコンのデジタル作業だけで漫画を書くことも出来るのだが、飯神先生は今でもアナログ一辺倒の人だ。そのアシスタントだった人ならペンダコがないわけがない。となれば、本当にこの木崎という男はもう漫画を描いてないのだろう。おそらく一年、二年どころではなく、おそらく飯神先生のアシスタントを辞めたときから。
「筆を置かれたんですか?」
私の問いに、初対面の相手は少し恐縮した面持ちで、わずかに間を置いてから
「ああ」
と相づちを打った。
「そうですか……」
それ以上、私は言葉が続かなかった。
木崎の悲しげな顔に自分の姿を重ねる。私も漫画家を目指し、その勉強の為に飯神先生のアシスタントになったのだ。いつかは漫画家になる。その強い意志は、長年のアシスタント生活で徐々に薄れ、今では本当に夢幻かの如く、私にとって現実感のない目標になっていた。最近は先生の指示通りに原稿を上げることしか考えていなかった。先生の原稿の完成度が上げることが目的になっていた。だから私は漫画家ではなかったのだろう。私は単なるアシスタントだったのだ。
私たちは手近にあった斎場のベンチに座り、木崎がアシスタント時代の話に花を咲かせた。葬式では亡くなった人の話を肴に酒を飲むと言うが、そのような席ではやはり故人の話がよく似合う。数分話し込んだ後だった。不意に会話が途切れて、寒空の下、寂しい空気が流れた。そんな時に木崎がぽつりと言った。
「先生、原稿描きながら死んだんだってな」
「はい。先生らしいです」
「漫画を描くしかない人だった」
「でも、先生の描く漫画はどれも面白いです」
「それでも中堅がいいところ。僕がアシスタントを辞めたのも、先生の連載が打ち切られたからだったからな」
「じゃあ、『クルガンテスの咆哮』のときの?」
「そうそう。アレは人気なかったから」
「でも、私はアレを読んで、先生に弟子入りしようって」
「そうなんだ。アレの連載第一回の集会シーンの群衆描いたの僕なんだよ」
「えっ、そうなんですか? てっきり先生が描いたんだとばかり……」
何度も読み直した作品だ。忘れるわけがない。あの細やかで躍動感のある人物が何十人と並ぶ様子は、飯神先生の作風とも言えるものだ。それを描いていたのが当時のアシスタントと知り愕然とした。
「自分で言うのもなんだけど。僕は人の画風を真似るのだけは上手かった。ほんとそれだけの力しかなかったんだよ。だから諦めた。だからスーパーアシスタントだなんて嘯いて、逃げていたんだ。自分のオリジナルが見付からなかった僕は、戦えなかった」
戦い。木崎の言葉は現実を知る者だけが共感出来る『合い言葉』にも聞こえた。
創作の世界は戦いだ。特に商業漫画家は激戦の中をただ一人進軍する兵卒のようなもの。同業者と斬り合い、読者と果てのない心理戦を繰り広げ、出版社には後ろから撃たれる。そして何より自分自身との孤独な戦い。
創作は誰も助けてくれない。助けることの出来ない産みの苦しみの末にしか生まれない。
私は、たった七年だが、いや、七年もの歳月の間、飯神春一という漫画家にその現実を教えてもらえた。目の前で戦場を見せてもらった。私も、木崎も、飯神先生の戦友であり、その戦いの傍観者だった。
だから共感出来るものがある。互いの気持ちはよくわかる。それでも自分は自分、他人は他人。そんな無情もよくわかる。
「君はこれからどうするんだい?」
木崎が聞いた。
「どうと言われましても……」
「先生が亡くなったからね。君も晴れて失業だ。他のアシスタント先を探すか。それとも新作を創って出版社に営業活動か。それとも筆を折るか。ほんと嫌になるよな。サラリーマンになってほんと実感する。明日が来ても仕事があって、来月も給料が振り込まれる。来年になっても会社はまだあるんだって。世の会社員って連中はこんなにも楽な人生生きてる、自分もそんな人間になっちまったんだって……」
木崎は拳を握り締めていた。強く、強く、音が鳴りそうなほど。
「木崎さんはもう描かないんですか? その、プロとしてだけじゃなくて、最近はアマでも色々あるじゃないですか、同人とかも結構販売会増えましたし」
「……描けないよ。一度、折れた心はなかなかどうして……、言うことを聞いてくれないんだな」
もう描けないんだ、と繰り返す悔しさにまみれた木崎に共感している自分に気付く。そして同時に反発も覚えた。
「先生が亡くなって、直ぐに葬儀とか忙しくて、あんまり深く考える時間なかったですけど、ちょっと思ったんです。無理にプロで描く必要はない。ただ、漫画が好きだったから、絵が描けたから先生はたまたまプロになっただけで、漫画家以外の人生でも漫画さえ描ければ、先生はきっと幸せだったんじゃないかって、先生の原稿に向かって亡くなられた死に顔を見て、なんとなく、その……」
「はははは、甘っちょろい理想論だね。先生の好きそうな、先生の漫画みたいにご都合主義の、それでいて眩しい理想……。僕がアシスタントを辞めたときに捨ててしまったものだね」
「捨てたら、また拾えばよくありませんか?」
私の言葉に黙したままの木崎。言葉が唇から滑ってから、年下の後輩が少し偉そうな口を聞いてしまったと反省した。
「いや、もう拾えないよ。その資格が……ない、と思う」
「そんな言い方ないと思います」
「たぶん、君もあと十年したらわかると思うよ。君はまだ二十代だろ?」
「今年で二十六になります」
「なら、自分の思った通りにしたらいいと思うよ。若さは才能だから」
そう言うと木崎はおもむろに腰を上げた。
「それじゃあ僕はこれで」
「遺骨は拾っていかないんですか?」
「先生の屍を超えて行っていいのは、僕じゃないから」
それが私と木崎が交わした最後の言葉だった。本当に葬儀の途中で帰ってしまった木崎。それ以後、私は彼と会うことは一度もなかった。
飯神先生の担当編集から連絡があったのは、それから五日後だった。
先生の遺族からの依頼で仕事場の整理は私が行うことになった。これが最後のご奉公だと、仕事道具の片付けをしていた私は、急に出版社に呼び出された。
「君、これを描いてみる気はないか?」
小さな会議室で先生の担当から率直に切り出された。担当が差し出したのは先生の原稿。私が先生の亡骸を見つけたとき机に広げられていた原稿。最期の瞬間まで先生が筆を走らせていた未完の新作だった。
先生は連載とは別に定期的に新作を作っていた。そうしなければ腕が鈍るからと自身に言い聞かせ、先生はいつだって新しいものを考えていた。それが遺作になるとも知らずに先生は描き続けた。そんな原稿を私に描けという担当。
「それ、どういう意味ですか」
私は少し気が立っていた。呼び出されたとき、なんとなくそんな予想をしていた。そうでなければわざわざアシスタントの私を出版社に呼び出すわけがない。
「飯神くんの漫画を君が完成させる気はないかと聞いているんだ」
「私、そんな真似出来ません。先生の作品を汚すだなんて!」
「ご遺族の許可は取ってある。これは飯神くんの名前でななく、君の名前で出すんだ」
私は怒りにまかせて机に拳を叩きつけた。ペンを握るためだけにあると思っている利き手を痛みなど些細なことだった。
「だから、それは先生の!」
叫んでいた。本当にむかついた。どたまにきた。いくら私が先生のアシスタントだったからって、あんまりだった。
先生の作品の続きを描けと、どんな神経をして言うのか、編集という人種が信じられなかった。立場は違えど、共に作品を世に出す仲間じゃないのか。それなのにとんでもないこと言う。
亡くなった先生への冒涜。先生の遺作を汚す行為。そして漫画家を目指すためにアシスタントをしていた私に、自分のオリジナル以外を描けという無神経さ。全てに腹が立った。
「まぁ、返事は直ぐにとはいわない。一週間考えてくれ。だけど、こんなチャンスないのわかってるよね? 単なるアシスタントに編集部から作品を描くように言うことがどんなに珍しいか、この業界も長い君ならわかるよね?」
去り際に言われたその言葉が胸に突き刺さった。
もし私が先生の遺作を完成させた場合、その原稿がどうなるのかは聞き逃した。その前に私が出版社を飛び出したから聞けなかった。
恐らくは先生の作品が連載していた雑誌か、その増刊号に読み切りとして乗るのだろう。中途半端な新作原稿の使い道はそれぐらいしかない。
曲がりなりにも飯神先生は連載漫画家だ。なのにその新作が無名の新人たる私の読み切りに使い回されるとはどういうことだ。
せめて、先生の遺作として先生の名前でその途中までの未完成原稿が紙面に載るなら、それで追悼とするならまだわかる。どうして私が私の名前で先生の作品を描かなければならないのだろうか。
こんなことを先生が知ったらなんと言うだろう。そう考えて私は虚しく笑う。目に涙を溜めて笑うしかない。
たぶん先生は笑顔で許してくれる。飯神春一先生は生粋のプロだった。編集がそう判断したなら、自分の原稿を笑顔で売り渡す。そして私に「キャラの線はもっと丁寧に、背景と同じじゃダメだよ。何が原稿の命か考えて描いてね」と、そんな優しいアドバイスをしてくれるはずだ。
だから私は先生が好きだった。だから先生のアシスタントを続けたのだ。優しすぎるとか、甘いとか、そんなことを原稿越しに、読者から、編集から、いろんな人に指摘され、それでも笑ってた。死ぬまで笑っていた。
私にはあんな強さがない。
私はプロになれない。あんな強さが私にはない。
『描かせてください。最後に、先生の作品を描かせてください』
一週間悩んだ結果がそれだった。電話越しの編集者は「そうか」とだけ言った。
私は先生直筆の原稿を前に筆を取っている。仕事場の先生が座っていた席で、先生の骨を拾ったこの手で、この指で、先生の原稿を汚している。あの斎場で見た真っ白な骨が、目の前の白い原稿と重なってしまう。原稿に墨を入れることであの綺麗だった骨まで汚してしまいそうだった。
それでも私は筆を止めることが出来ない。こうすることが先生への恩返しなる。先生の作品を闇に葬ってしまわない為に、私が完成させる。私が先生の遺志を継ぐ。
そう言い訳し続けて、私はペンを走らせる。ただ単に、デビューへの切っ掛けが欲しいだけなのに、そんなことに先生の遺作を踏み台にしてるのに。
私は涙を堪えながら必死に描き上げる。
許せない。私は卑怯な私が許せない。
どんなに堪えようとも止めどない気持ち。頬から落ちた液体が、原稿に落ちて広がった。
「原稿を描くときは汚さないよう気をつけて」
いつか言われた先生の言葉が胸に浮かんで消えた。
骨と筆 柳よしのり @yanagiyosinori
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